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「止め」が、最強の一手/国語がなぜできないのか

2022.06.07

竹の会通信2022.06.07

○夏期指導のお申込について

 申込みは自由です。受け入れ定数には指導可能数、新型コロナ対策による制限があり、遅くに申込みをされると、お受けできないと思います。申込み打ち切りになりましたら、未申込者については、メールで通知いたします。このブログでもお知らせします。その旨予めご承知ください。なお、夏期をスルーした場合、6月23日~8月31日までお休みすることになりますが、中学は、9月から指導するのは、困難となるのは確実で、継続指導は打ち切るほかないと思います。残念ですが、事実上退塾となると思います。予めご了承ください。

 不参加がもたらす指導の中断の効果は回復不可能なほどに深刻なものです。

○8月の課題は実施します。特に、小6は、課題の中で、理科、社会、作文など重要レジュメを指導しておりますので、8月の課題をお休みとすることはできませんでした。

 

 

「止め」が、最強の一手
 いいものだからとすべて集めなければ気の済まない人間というのが、世の中にはうじょうじょいるようだ。いやそういうわたしもその癖から逃れるのに、どれだけ失敗を重ねたことか。オタクと言われる人たちは、気狂いじみたコレクターであることに、迷いがない。刑法で使う確信犯という概念がそのまま該る。
 卑近な例で説明しよう。
 これは資格試験受験者に多いのだが、一つの参考書がいいと、そのシリーズはみないいと思いこむ。それでそのシリーズを集めることに、囚われる。これはよくある話しなのだ。経験から言えば、シリーズにいいのはその1冊だけのことが多い。大学受験でもある。かつて細野の数学シリーズが人気だった。ただし、細野の本は全部よかった。旺文社の「〇〇精講」シリーズは、原仙作のものがいちばんいい。しかし、実は隠れた名著がある。そういうものを見つけるのが、わたしの仕事だが、それにしても、同じ人が書いても、いいものは一つだけだったということはよくあった。
 賭け事の話しで恐縮だが、競馬を楽しむ人も多い。パチンコなんかは戦後すぐに日本中の津々浦々に広がった庶民の娯楽となった。今は、デジタル化されて、完全な確率によって操作されている、絶対負ける賭け事である。これなんかは、止めどころ、つまり、いつやめるかが、肝要で、終わりのない勝負は、負けるに決まっている。たとえある日は大勝ちしてもトータルとしては、大負けになる理屈である。
 ここで切る、止める、これこそが、勝機の公理であり、勝負の妙技である。「ほどほどに」というのが真理である。
 わたしは底流に流れる公理を見る。時間は有限であり、時間の節約が、根本規範となる。山口真由さんの1冊主義、7回繰り返しでは、その根底に、結局は、時間の節約という合理的な計算、判断がある。「ほどほどに」とは、時間を無駄にしないように、「止め」を入れることである。
 1冊に絞るのは、人間の能力の本質にぴったりするからである。人間の脳というのは、人間の脳、判断は、2つのことを同時にはできないようにできている。7回繰り返すのは、人間の脳というのが、反復することで、馴化していくという性質からである。
 マーフィーの法則では、「失敗する可能性のあるものは、失敗する」というのが、いちばん有名である。これは、ごく当たり前のことを言っている。この法則の裏には、偶然、すなわち奇跡は、確率的に、問題にならない、という前提がある。しかし、マーフィーは、「失敗する可能性のないものは失敗しない」とは言っていない。当たり前すぎるから。「失敗する可能性がある」というのは、成功する可能性もあるのに、失敗する、というのである。これは、失敗する可能性があると言いながら、成功する可能性はない、と言っている。こうなってくると、可能性というのは、単なる言葉の綾に過ぎないことになる。
 抽象化すると、マイナスの可能性は、マイナスの結果になる、ということか。
 「止め」というのは、字の止め、でも使う。原発もいつかは止めなければ危険だ。30年が耐用限界なのに、50年使うつもりだ。コストが理由だ。「止め」のタイミングを誤れば、今の時代、一瞬にして、人類は消滅してしまう。
 無謀を他人が「止める」のは、当の本人には、「止め」がきかないからだ。「止める」タイミングは、実は、潔い諦めにかかる。台風が接近している海に、漁師が止めるのも聞かず家族でヨットに乗り出したのは、もったいない、何か月も、前から予約していたのに、何か月前から休みをとっていたのに、前金を払っているのに、そういうことが、無理をする押しになる。この止めはタイミングの問題ではなく、およそ自然と無縁の生活をしている現代人に危機管理が全く欠けていることによる。
 「大丈夫よ」と言う無責任な他人が大勢いることを忘れてはならない。
 
国語がなぜできないのか
 学校で授業を受けているのに、国語だけは、だからといってできるようになる、という話しを聞いたことがない。
 考えてみると、数学にしても、英語にしても、理科社会にしても、別に授業がどうのこうのに関係なく、家で勉強すればできるようになるではないか。
 国語に関しては終ぞそういう話しを聞いたことがない。だから予備校の国語担当の講師が、人気になる、のかもしれない。なにしろ「こうやればできる」と洗脳するわけであるから。信じた者は救われる、ということかもしれないのに。
 国語を舐めるな!
 多くの人は、母国語ということで、国語の勉強なんて特にやらないでしょ。せいぜい漢字を覚えることぐらいか。巷の塾だと問題を解かせる方法がほとんどだろう。
 何が足りないか。
 文脈の中の言葉の意味を捉える体験がない。漢字を漢字の問題集で、もちろん意味とともに覚える勉強ではだめだ。
 俗に本を読めという。本ならなんでもいいか。小説、評論、説明とジャンルはいろいろある。
 基本なんでもいい。文脈から使われ方、意味をとるのは同じだから。わからない言葉が多すぎるとまるで黒塗りだらけの、政府公開の開示文書のようで、何を書いているのかさっぱりわからない。
 基本的に、語彙の量がものを言う。読解というのは、読んで、その意味することを考える、その場合、文の論理というものを検証する。「したがって」の前後なら、前は、後の前提の関係にある。「しかし」の前後は、実質的に、「反する」関係にある。文章というのは基本的に、「したがって」の流れにある。これを意味から捉えたのが、文脈である。
 それから、文章というのは、書いている人の価値観を表明するものである。価値観というのは、抽象的な命題で一行、いやひと言で言えるものである。価値観は、ある問題に対する、その人の価値の表明であり、主観的定義の規定である。これだけ言葉で表しても、読んでいる人には、何を言っているのか、わからない。それで書き手は、それを説明する責任がある。裁判で言う証明責任である。
だから、わかりやすく説明することが求められる。具体的に、書くとは、このことである。例を挙げるとか、比喩を使うとか、とにかく、分かりやすい「言い換え」を多用することになる。文章の流れとしては、具体的に書けば、その後に、まとめる、つまり、抽象的に、書く。主観的な定義で言い換える、こういうことをやっているわけです。
 駿台予備学校の国語科の講師は、東大文学部哲学科を出ている人で占められている。駿台の講師になるのは、500倍の難関であるから、めったやたらとなれるものではない。
 なぜ哲学科なのか。
 国語というのは、突き詰めれば、哲学だからである。
 国語を舐めるな! 日本語だからと、母国語だからと、何もしない生徒ばかりである。ただ本を読むことが、国語なのではない。日本語で考えるのだ。日本語で深く深く考える、これが国語なのだ。漢字を覚える、読書をする、そんなのは国語ではない。
 英語は習いに行っても、国語は何もしない。日本語を使って、ものを考える、そういう訓練もしないで、国語をただ漠然と、ドリルを埋めたり、問題集を解くことだと勘違いしているのは、塾にも責任がある。だから、国語の解き方みたいな本が売れて、そういう塾、つまり国語塾が流行ることになる。だから、わたしは、高校の倫理の教科書を読めと言った。倫理とは、哲学のことです。中学生には、池田晶子の「14歳からの哲学」を薦めた。かつて流行った「ソフィーの世界」も哲学の本です。何が言いたいか、要するに、日本語で「考えろ」ということである。国語の読解というのは、どれだけ考えてきたか、ただそれだけの話しである。形式的な解き方というのは、確かにある。しかし、読解がないという人は、国語、つまり日本語で、どれだけ考えてきたか、詰まるところは、哲学に行き当たるのだが、そういう読み方をしていないのだ。哲学の本が、考える、考え方、つまり、問い方を教えてくれる。国語ができないからと、問題集ばかり解くバカがいる。読解の意味を履き違えてはならない。問いを磨け! 問いを選りすぐれ! 読むとは、問いを、しかも研ぎ澄まされた問いを創造することなのであるから。問いを学べ。読みながら問い返せ! 読解とは、どれだけ、問いという、剣尖を筆者に突きつけるか、ということだ。徹底して「問え」、とことん問え。問題集の答え合わせをしてそれで終わり、そんなことやってるから、できないのはあたりまえだ。

国語の解き方第9回

 比喩について

 比喩(ひゆ)というのは、あるものAを説明するときに、Aと共通点を持ったBを使って表現すること、といえよう。

 比喩の種類

 ①直喩(明喩)・・・「Bのような人」・「BみたいなA」のような形の比喩

 ②隠喩(暗喩)・・・直喩から「ような」や「みたいな」などを取り去った形の比喩

 ③擬人法・・・モノを人に見立てる比喩

 なぜ比喩が文章で使われるのか。

 比喩を使う目的は、今、説明している内容(筆者の主張)から、わざとかけ離れた言葉を持ち出すことで、印象深く感覚的に理解させるためです。

 筆者は自分の意見を伝えようとあの手この手を使います。それは、論理的に説明するだけではどうしても限界があるからです。比喩は、感覚的に理解してもらうために使うのです。比喩というのは、筆者の言い換えの一つの形なわけです。比喩が使われているときは、わざわざ凝った表現を使っているわけですから、筆者はその比喩を通じて何かを伝えたいと考えているとみるべきでしょう。こうして、本文中の比喩は決して読み飛ばさないこと、比喩の解釈を試みることが大切です。

 比喩の解釈について

 「ダイヤのような拳」という比喩の解釈をしてみましょう。ダイヤと拳との間に何らかの共通点がなければこの比喩は成立しません。ダイヤには、「かたい」という性質があります。そして拳にも「かたい」というイメージがある、だから比喩は成り立っています。

 これと「象徴」とは区別してください。たとえば「ハトは平和の象徴」というとき、ハトと平和にはなんの共通点もありません。象徴というのは、共通点なし。象徴するものと象徴されるものとの間には共通点は一切必要ないのです。読解の場面では、象徴内容が問われるとき、本文の内容から推測できるように作問されています。

 

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