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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

「頑張っている」の正体

2020.10.17

 

「頑張っている」の正体
 実は、勉強の絶対量が足りないのがほとんどです。「頑張っている」というのは、相対的表現です。頑張っているのレベルが人それぞれで違うのです。本人にとって頑張っている、というだけのことです。
 頑張っているとは、個人の主観的表現であり、本当に頑張っている人は頑張っているという意識もないから、人に「頑張っている」などとは言わないものです。自分で「頑張っている」という人間ほど頑張ってはいない。むしろ頑張っていると思うほどに勉強の限界を、弱音をそう表現しているに過ぎない。

 頑張ってるという子ほど頑張ってない、のだ。その精神に問題がある。頑張ってます、という子ほど実は頑張ってない。
 ほんとうに頑張ってる子は、決して「頑張ってます」とは言わないものです。いくら頑張ってもこれでは足りないといつも自分を追い詰めている。側から見れば本当に頑張ってる人の勉強量は頑張ってるという人たちの想定、想像を遥かに超える、壮絶、驚天ものである。
 人は本当に追い詰められたら、頑張っているなどと口にする余裕などない。
 かつて学年1番になった子の勉強量は想像を絶する。勉強する時間が少しでもあれば勉強する。テレビなんか見ない。ニュースは見るという子がいましたが、その時間も惜しいと思う。ましてやゲームで時間を潰すなど考えてもない。親と時間を決めてやっているという子もいたが、根本的に違うのだ。「無駄なことに時間を使うのが耐えられない」のだ。「無為に時間を過ごす」ということが、心を腐らせるからだ。
 自分の夢を夢中で追い求めるというのはそういうことだ。
 難関資格試験になかなか受からない、という話しはよく聞くが、難関試験は、それなりの能力があれば、「無為に時間を過ごす」ことがないなら、必ず受かるものなのである。人間的な快楽、享楽を求めれば、それはそのまま無為である。難関資格試験が、難関なのは、試験ではなくて、一年間なりを人間的生活を捨ててどこまで仙人、哲人として過ごせるか、なりきれるか、ということなのだ。そういう難しさなのだ。
 わたしの母校九州大学法学部には有名な井上正治教授がいました。井上先生には伝説的な神話が語り継がれていたと思います。これを広めたのは、中大法学部の真法会会長の故向江博士だった。受験新報という司法試験の雑誌にこの話しを掲載された。井上先生が、学生の時、「大学に残りたい」と主任教授に申し出ると、教授は「それなら高等文官試験司法科を受けて1番を取ってこい」と言われたそうだ。試験まで6か月しかなかった。先生は友人・知人に何も言わないで、こっそりと部屋を借り、そこに篭って勉強した。寝ても覚めて勉強した。風呂も入るのも惜しい、飯も食べる時間も惜しい。実はこの時の無理が祟って後に結核で入院したのですが、とにかくもう死ぬほど勉強した。枕元には本が積まれて目が覚めると読んだ。心配で本から目が離せなかったのだ。一日中読んだ。寝るのも惜しんで読んだ。おかげで試験には2番という成績で合格した。 そういうエピソードを話された。だから、これは有名な話しである。難関試験の難関の意味を誤解している人が圧倒的に多い。試験が難しいのは、そのために膨大な準備をしなければならないから、受験者が多いから、と単純に考えている人がほとんどである。しかし、この試験を受ける人たちは優秀な人もたくさんいる。しかし、そういう人もほとんど受からない。なぜ、それは人間を抜けきれないからだ。哲人になりきれないからだ。寝食を忘れて勉強に打ち込めるか。今日は頑張ったから、一杯飲むかとか、昨日は頑張ったから今日は少しくらい映画を見ても構わないだろうとか、友人と会って飲みに行くかとか、今日は集まりに出るから勉強はお休みするかとか、お盆くらい休むかとか、人間の暮らしにはまって抜けられない、そういうところから自分を隔離できるか、それが難しい、だから難関試験なのだ。ほとんどの落ちた人というのは、まず間違いなく人間であったから、ということで説明できるはずだ。彼らは言うかもしれない。自分は頑張ったと、しかし、頑張ったというのは、人間の発する言葉である、哲人は、そういう言葉は出てこない。なぜなら彼はすでにして人間ではないからである。哲人に頑張るという言葉はない。哲人はただ黙々と実行する、命の尽きるまでやり切る。彼には楽という言葉はない。ただただ時間が惜しい、全てのことが、時間との兼ね合いで決定される。そして、時間を浪費する、時間を無為に過ごすということが耐えられない。なぜなら彼には時間の浪費は死を意味する、死を選択することにほかならないからである。
 

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