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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

今年は、小石川中等、両国附属、白鷗附属に照準/都立戸山、青山は普通に受かる/竹の会という塾の形は、もう二度とない

2019.05.23

5月23日 木 晴れ 気温も24℃前後となり、もうすぐ初夏ですね。炎暑の真夏は一日エアコンの効いた教室で過ごす日が多いので、体調管理も大切ですね。今日は天気がよくて、いつも腰痛で憂鬱な気分ですが、少しだけ気が晴れました。

◯竹の会という塾の形は、もう二度とない

追い求めてきた究極の塾の形
わかりやすい、授業を心がけてきた時代
 昭和60年10月竹の会はスタートした。ガリ版刷りの官製はがきを代々木中学の2年生に出した。なぜ2年生? たまたま近所に中2がいて名簿を借りたから。それから生徒の親に頼んで借りたりもしたが、名簿屋を利用したこともあった。区役所で閲覧したこともあった。コピーは禁止で、手写しのみ認められた。そのうち個人情報保護が喧しく叫ばれて、これも全面禁止となり、全くの口コミだけとなった。HPを開設したのは、いつのことか。手製のHPにブログを書くようになった。当時は、「塾長日記」と言った。HPに直接書いていたのでサイトが重くなって、開くのに時間がかかるようになった。このブログで、生徒が来るようになった。現代の「草枕」が始まったのは、2004年頃だったか? その前身が、「塾長日記」であった。長い間、地元の中学生を相手に高校受験を指導してきた。主として、代々木中学と上原中学の生徒だったが、時には松濤中などの他中学の生徒もいた。あの頃は、まだ授業をやっていた。そのうち授業の限界というものが次第にわかってくる。何よりも教えるよりも、教えないほうが、成績がよかった、という事実は、私に、塾のありかたを問い直すことを余儀なくさせた。私の授業は、最初は、導入から練習、応用全てに及んだ。私がすべての問題に解説をした。だから授業が評判になり、近隣の子たちがうわさを聞いてよく入会してきた。授業クラスはたちまち増えていき、私は土日もなく連日の授業に追われた。が、定期テストの成績は、私が教えれば教えるほど芳しくなかった。あの当時、定期テストに敏感な母親や父親がよく騒いだ。クレームを言ってきた。「塾にやっているのに、こんな成績で」と。子どもが勉強なんかそっちのけで部活やってても塾さえ行ってれば塾が悪いという論理だった。
 中2の子たちが、中3となり、高校受験を迎える。わたしは、導入を授業ですることは変えなかったが、過去問をコピーして年度単位に解かせることにして、時間は切らずに、とにかく考えさせることにした。その上で、採点し、できなかった問題について、私の解いた解答をわら半紙に書いて渡した。今の解説レジュメの原型がここにあった。わら半紙解答。あの頃のわたしのやりかただった。高校受験の指導は、徹底して、この方法を貫いた。やがて解いた過去問コピーは、電話帳のような厚さになった。昔の電話帳は厚さ数センチあったのです。そういうのが何冊もできた。入試直前には、それらの電話帳を7回解き直すことを指示した。この方法は、以後竹の会の入試指導の原型となった。より効率的な過去問を解く順序が研究された。わたしの解いたわら半紙解答も夥しいう量に達していた。いつしか私は、「2次関数、初級」と言えば、すぐに「〇〇高校の過去問」というように、瞬時に取り出してコピーして解かせた。考えさせた。竹の会の考えさせる指導は過去問合格法から必然の流れとして、竹の会に定着していった。竹の会の子たちの数学の成績は素晴らしく、地元の中学の数学5を竹の会の子たちが、占めた。数学の評判は近隣に響いた。

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 わら半紙解答
 

 竹の会の英語をスーパーにする。これが次の私の野心だった。そのために夥しい数の英語プリントを書いた。市販の問題集はほとんど読み尽くし、高校生に英語指導するために、大学入試英語の研究も、本格的に取り組んだ。高校生に英語を教える傍ら、数々の英語プリントを作成した。そして遂にプリントを集大成した、英語テキストの執筆に入った。「英語指導案」である。初版「英語指導案」は簡素でほんとうに簡単な授業のための「案」だった。それからさらに「英語指導案三部作」と私は書き続けた。実は、英語テキスト化と合わせて、数学のテキストの執筆も始めた。竹の会のオリジナルテキストを製作することはわたしの夢であった。平成5年頃には、完成していたのではないか。この頃の私の授業は、定義の解説を目的としたものに変わっていた。子どもたちは、オリジナルテキストで効率よく履修事項をマスターしていった。受験時期になると、過去問合格法という手順は変わらなかった。

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 竹の会は、過去問合格法によって、奇跡の合格を出してきたのでした。過去問合格法という思考訓練の方法は、竹の会の根幹をなす方法として成長していたのです。
 平成10年代は、劇的なパソコンの進化していった時期でした。インターネットの普及もこの時期からでした。それまでワープロ専用機の時代でした。その切り替えに、戸惑いながらも、わたしは、ワード文書を中心にプリントを執筆してきたのです。わたしが新宿の量販店で、出会ったソフトが、竹の会の運命を転換することになる。それは、ちょうどわたしがLECの司法書士試験講座用に書式問題を請負い創作していたときでした。LECで使われていたレジュメという言葉に私は特別な熱いものを感じました。そうだ! わたしが高校の頃、毎日のように配られたプリントのことを思い出したのです。大学入試には、あのプリントでたいてい間に合った。当時の先生方が作ってくれた、あのプリントです。わたしは、竹の会のレジュメに、あの高校時代のプリントを重ね合わせていました。平成17年から19年まで、高校入試のレジュメの完成に全力をかけました。18年に公立中高一貫校ブームが起こります。竹の会では、割合をどう小学生に理解させるか、が、テーマとして、わたしを悩ませていた時期です。小学生指導の研究は、わたしには、中学生や高校生を教えるのとは違う、未知の分野でした。試案として、どれだけのプリントを書いてきたことでしょうか。20年から23年に渡ってわたしは数々の作品を書きました。そして24年いよいよ本格的にレジュメ製作に取り掛かるのです。
 メモ 私立難関高校合格に燃えた頃
   平成10年、私は長年の夢であった、竹の会から、純粋に、早稲田実業普通、商業に、合格者を出すことに成功した。それまで私立難関と言えば、それまで青山学院高等部だけでした。ただここには強くて過去3名の合格者をだしています、

 メモ 中学受験に興味を持った頃
  最初は、獨協中学でした。それから、東洋英和、大妻、國學院久我山、日大二中、立教、慶應藤沢、吉祥女子などに合格させています。竹の会では、理科社会を教える時間がないので、どうしても算数と国語2科目受験になりました。

 メモ 大学入試に挑戦した頃
 純粋の竹の会からの合格は、慶應大学総合政策、上智大学経済、千葉大学工学部、東京理科大などです。一浪して合格は、慶應理工、中大法などがあります。

 平成20年代、公立中高一貫校の研究に明け暮れた時代、わたしは、指導術の研究に没頭していた。みくに出版の過去問全国版を解く日々であった。敵の正体を見破ることに情熱をかけた。充実した、時代だった。子どもたちの指導を積み重ねて、指導の妙を極めることに意を注いだ。小学生の脳の研究に時間を費やした。わたしは、高校入試がスタートだった。それから中学受験を頼まれれば中学受験に没頭し、高校生の指導を頼まれれば、高校生を指導した。新宿高校生や青山学院高等部の皆さんに授業したのは、わたしには、楽しい思い出です。大学入試を成功させて、わたしは、都立高校の凋落、公立中学の学力不振の時代を公立中高一貫校ブームによって、竹の会を軌道転換させて、切り抜けてきました。わたしの指導の守備範囲は、遂には、小学生指導の世界へと踏み出していたのです。平成30年、ようやく竹の会は、小学生指導の体系化を完成させました。そして小学生のさらなる進化形として、低学年指導に踏み込もうとしております。私の小学生脳の研究も進み、竹の会の小学生指導体系の骨格もほぼ完成しました。わたしは、指導術の妙を求めて、長い間、苦吟してまいりました。
 竹の会という塾は、そういう塾です。わたしが苦しみ、苦悩しながら、編み出してきた数々の指導の妙に満ちた塾。わたしの竹の会。わたしの生涯をかけた竹の会。わたし一代限りで終わる竹の会。あとどれだけあり続けることができるのか、東京の皆さんにお会いできるのもそう長くはない、そう覚悟して、一年一年に全力をかけて、存在をかけております。

 竹の会という塾の形は、もう二度とない。

 竹の会が終わるとき、この「草枕」も終わります。

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