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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

共感性、再現性、創造性

2019.02.05

  おはようございます。昨日は、春の陽気でした。まだ2月ですから、寒と暖の繰り返す月にはまだ早いと思うのですが、このところの気象の動向は例年が参考にはなりませんから、期待できるかもしれませんね。正直、今の私は受検が終わり、抜け殻のような状態です。といってもまだ終わったわけではないし、来年の受検の青写真をこの2月から3月にかけて、反省をふくめて分析しなければならない。特に、今年は、渋谷Bについて、来年の受検指導が終わる1月で廃止する案について、考えること、さらには、武蔵小杉教室についての現地調査に入ること、を課題として、おります。わたし自身の年齢的、体力的事情による制約がこれから具体的になっていくのかと思います。

⚫️共感性、再現性、創造性

 凡人の属性を共感性、秀才の属性を再現性、天才の属性を創造性と、規定した本に出会った。
 共感性と再現性という言葉は、言い得て妙と思った。創造性はこれまでの規定と変わらない。
 再現性とは、既知の知識の再現を思わせる。再現能力に優れているというのは、試験に強いということであり、これまでの国家公務員試験に強い秀才とか、受験に強い秀才、を想起すればいい。
 秀才というのは、仕組みを理解して記憶する能力の長けている人のことであり、記憶の秀でた人のことである。
 再現率について。 現状の試験は、再現率で、評価される。
 創造性とは何もないところから、何かを作り出す、ことである。
 天才は、秀才と、再現の方法が、異なる。既知の知識を一旦換骨奪胎して、原理・仕組みを理解して、再現する。
 凡人は、既知の知識の再現率の低い人のことである。言うなれば、記憶力が甚だよろしくない人たちのことである。再現率も低い。創造性は欠片もない。つまりその他大勢の凡人。これは
適菜収の指摘したB層と言われる人である。
 B層とは、大衆社会の成れの果てに出現した、今の時代を象徴するような愚民です。
最初にB層の定義を確認します。
 B層とは「マスコミ報道に流されやすい『比較的』IQ(知能指数)が低い人たち」です。
 これは私の造語ではありません。

 二〇〇五年九月のいわゆる郵政選挙の際、自民党が広告会社スリードに作成させた企画書「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(案)」による概念です。
 この企画書は、国民をA層、B層、C層、D層に分類して、「構造改革に肯定的でかつIQが低い層」「具体的なことはよくわからないが小泉純一郎のキャラクターを支持する層」をB層と規定しています。

 B層については、凡人の定義について、共感性で規定する、天才を殺す凡人」北野唯我 著があります。表題の言葉はこの本からの引用です。この人が、秀才の定義を再現性で、規定したのは、示唆に富む。天才の定義は、創造性として、これまでの定義をそのまま踏襲しているが、凡人の定義もまた、共感性という、なるほどという適語をあてた。

 適菜収のB層と凡人をイコールとしていいのか。そもそもIQが低いというときのIQとはどの程度のことを言うのか。渋谷の街にいるミーちゃんハーちゃん、渋谷でテレビのインタビューを受けている女子大学生、どちらも凡人なのか。B層なのか。一括りにしていいのか。

 適菜収のB層の定義からは定義以上の具体的な内容は出てこない。北野唯我の「共感性」という凡人属性は、なんともわかりやすい。共感できる。何しろ自分の意見はないが、人の意見には、共感する、もしくは批判、いや罵倒するというのだから、なんともわかりやすい。IQの低い方たちだ。その辺にいくらでもいそうな人たちだ。芸能ニュースが大好きで、噂話とランチが大好きな女性たち、分数の計算ができない大学生、高校生、勉強とは無縁に生きてきた人間。こういう人たちが、他人の考えに「共感するか」「しないか」を行動基準にする、というのは、なんともわかりやすい。
 秀才とは、再現能力だというのは、もっと面白い。だとしたら、秀才は、再現の元となる知識が、なければ、判断も行動もできない人種だということになる。
 児童相談所が、虐待される子を救えないのは、彼らには、想像力が欠けているからである。再現能力の優秀な人が、公務員試験に受かり、想像力の必要な仕事をやる。確かに、事務処理能力はあるから、行政が滞ることないが、再現するだけでは、未経験、未知の出来事には、対応できまい。マニュアルどおりにやることには長けていても、マニュアルにない問題は解決できない 。
 さて、適性検査試験とは、如何なる能力を、求めているのか。
 天才の創造力を求めているのか。
 いや、それはない、中学受験と同じように再現力で、決まる。いやそれと少しだけの想像力、それも常識を働かせる程度の想像力があればいい。
 共感力で受かるか、共感したり、しなかったりでは、判断の軸というものがない。IQの低い凡人には、この試験は無理である。
 秀才を引き合いに出したのは、秀才を規定する、再現力という言葉にある。つまるところ、 現在の、試験の本質は、過去の知識の「再現性」、正確には「再現率」を試すところにある、からである。
 わたしが、小3後期から小4前期にスタートさせることにこだわるのも、課題で家庭学習を担保するのも、再現性を如何にして高めていくかを考えるからである。勉強というのは、過去の、既に答えのわかっている知識を、試験本番で、どこまで正確に再現できるかということを周知として、その再現に取り組むものにほかならない。秀才のやる再現の方法は、思考を使うことで、丸暗記を減らす、というものである。これに対して、凡人は、いちいち知識に、共感しながら、記憶する。だから歴史は好きだ、嫌いだ、数学は思考を媒介とするので大抵、嫌いだ、音楽は嫌いだなどと、何でもかんでも、共感できなければ、嫌いだ、である。数学ができるのに、国語が嫌いだというのは、単なる食わず嫌いのことが多い。IQが高いから。数学がダメなのに、国語ができるのは、共感力の素晴らしさであろう。女子は、言語能力が高いというように、国語がよくできるのは、女子ということがほとんどである。これに対して、男子は、空間把握能力が高いというのも真理で、理数に強い子が大抵男子というのも、実際と符合する。
 ところで、個人を念頭にして、共感率とはいわないが、再現率とは言う。再現というのは、100%をマックスとして、どこまで 再現率を上げるかにかかる。わたしの方法の一つ、7回解き直しが再現性を担保しようとする狙いがあるのはもはや自明であろう。課題を原稿用紙にやるのも、解き直しをノートにやるのも、わたしの説明をノートに記録するのも、みな再現性を担保ふるためである。字が汚い、ノートが汚くて記録の体をなしていない、のは、再現性のない、再現不可能というしかない。勉強を中断して旅行するのは、再現率を低める。課題をやらないのは、再現能力を抹殺する。
 自分のやっていること、勉強というものが、すべて本番で、再現率を最大限に発揮するためであるということをよく理解すれば、勉強を怠けて再現性を無にするというようなことは、とてもやれないはずでしょ。が、勉強を共感でやる凡人は、好き嫌いで、知識に対しても好き嫌いで反応するほどにIQは低い。
 親が、子の再現能力を減殺するような行動をとるから問題が複雑になるのである。試験を勝ち抜くことを念頭に置けば、教育とは、再現性を高めるために、訓練する、ことにほかならない。小5の後半あたりから、竹の会でやっても、伸びないことが多いのは、再現能力を訓練する時期を逸しているからにほかならない。こうして親は如何にして子の再現能力を高めるかにこそ意を用いなければならないかを悟るべきであるということがわかる。
 最後に一つ、IQが普通でも、いや少しくらい低くても、共感能力が高い人が世の中をうまく渡っていく、というのが、今のB層の人たちなのではないか、と思う。
蛇足になるが、予習とか、復習とか、勉強の継続とか、解き直しとか、結局は、再現性を如何に図るか、腐心しているということなのである。

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