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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

危ないものほど魅力がある

2015.12.06

 おはようございます。本日は渋谷Aの指導日です。残されたのは、この12月と1月だけになりました。もう多くのことはできません。今、このときになって初めてわたしが夏休みに「毎日7時間以上勉強しなさい」と言い続けたことの意味が実感できるのではないでしょうか。しかし、わたしの目からは随分とのんびりとした夏を過ごしているように見えました。夏までの勉強も勉強はさまざまにある選択肢の一つにすぎないという子もいたように思います。課題をほとんど提出しなかった小6、「第○類」などの指導レジュメをなかなか進められなかった小6、いくらでも時間があったはずなのに、いやそれが凡庸の凡庸たる所以(ゆえん)なのでしょう。凡庸な人というのは先が見えない。先を想定して動くことができない。時間の余裕があると考えてか、あるいは勉強よりもずっと大切なことと考えてか、さまざまな勉強に優先させてきた由無し事、それなら受検がうまくいかなくても理(ことわり)なのだから、つまりは当初の想定どおりなのだからいまここでジタバタしても始まらない。しかし、そういう人ほどなぜかこの時期に我を見失う。

 冬期指導が終わってから受検までの3週間何をしますか。竹の会では、解き直しと毎回の指導日に出される2~3通の指導レジュメだけです。もうこの時期に何か新しいことをやるという野心などありません。静かに本番まで過ごす、ただそれだけです。 いやわたしは大手の子たちがギリギリまで新しい問題を解いたり、新しい何かを読みあさったりと我を失い、親子であわてふためいているのを知っています。 そこには、じっくりと思考力をつけてこなかったことへの本能的な懼れが、焦りがあります。大切なのは知識ではない、思考なのだ、ということを無視して、知識を追い求めてきた集団の本能的な死の恐怖がかれらを最後まであがかせるのです。死とはここでは試験に落ちること。 本質を見誤った者ほど往生際が悪いものです。 

 いや竹の会の子だって、凡庸な選択をしてきた子たちがいるわけです。ただ竹の会は思考重視ですから知識を押しつけることはしない。思考課題を子どもたちが真摯に向かい合ってこなしてきたか、そこが問われるわけです。そしてみながみないいかたちで終わらせてきたわけではない、これはしかたないことです。実行するのは本人です。思考というのは強制してやらせることではありません。課題レジュメをほとんど出してこなかった小6たちもいますし、指導レジュメをいいかたちで進められなかった小6もいます。だから大手の子たちとはちがった意味で不安をかかえた子たちもいます。

 竹の会ではそれも能力とみています。課題を出せない、指導レジュメをいいかたちで進められない、それは能力です。それならそれで今の身の丈の自分でたたかうしかありません。自分がこなせただけのレジュメをただ解き直すこと、それが身の丈ということです。

 竹の会の今年の指導レジュメの特徴は必ずしも難問にこだわらない、一見易しい、しかし、思わぬトラップがあるとか、問題を読んだけれど何が問題なのかわからない、あるいはよほど注意をはたらかせていないとだれもが陥る過ちを犯す、そういう点にある、そういう問題を創ることに力を入れています。26年の指導では、難問を追究してきましたが、27年は、より適性検査の姿に即したかたちを追究してきました。

 おかげさまで26年の指導は功を奏し、27年2月、桜修館を受検した女子が、風邪で体調最悪の中にもかかわらず、高得点を取りました。思考を徹底して鍛えてきたことの成果が表れたのです。

 どんな問題にも思考の力で立ち向かう、頼もしい子に育ってほしい、というのが竹の会の願いです。

 受検がまだ先のことと思われる頃、例えば、小6の夏以前、勉強に真摯に立ち向かった子と怠惰な生活を過ごした子がいたでしょう、たぶん圧倒的に親も子も受検はまだ先のこととのんびりとしてきた場合が多いのではないか。ただ今年桜修館に合格した女子、親御さんの姿勢は違いました。いや彼女は小4の2月に入会したときから勉強一途でした。世間の親子とは最初から違っていた。

 ありふれた物語です。人は危ないものほど魅力を感じる。危ないものには近づかないのが正解なのに、危険を承知で、覚悟もして、飛び込んでいく。そして失敗すれば、それも人生経験、肥やしになる、などといって調子よく切り替える。勉強だって、しないという選択は危ない選択、危険な道を選ぶということです。特別、例外を求める子というのは、普通並ということを嫌がる。自分が特別だと思っているから。親も自分の子は特別だと思っているから他の子のように普通にはしたくないと思う。親も子も特別扱いが好きなわけです。普通を嫌うわけです。

 普通ほど難しいものはない。勉強する、勉強だけするという普通の生活ができる人は少ない。うちの子にはいろいろ技芸を身につけさせておきたい、つまり、特別の子にしたい、という親、そして特別の子になりたいという子、親子の利害は一致し、一丸となっても特別を求めて邁進する。

 でももっとも難しいのは、普通であることです。勉強するのが普通という、普通の意識です。勉強を特別のことととらえる見方からおかしかったのかもしれません。毎日ごはんを食べるように、勉強だって普通にやってきた、それが普通です。人は普通を嫌う。そのために普通を極めた人たちに気がついたら負けている。

 危ないものほど人を惹きつける。それは普通ではないから、普通の他人と自分を区別するのは、自分が特別であること、普通でないことだと考えたかどうか。しかし、人生は普通に全力をかけた人が成功する。それが真理なのに。

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