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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

受かるには自分で解くしかない/都立小石川中等、都立桜修館中等/都立戸山、都立青山、都立新宿/竹の会通信

2020.09.19

 

◎受かるには自分で解くしかない

 「解けない」ときどうするか!
 すぐ白旗をあげるのか、「いくら考えてもわからない」と先生に泣きつくのか。
 はっきりとしている事実がある。竹の会のレジュメが解けない、合格はんこが取れない、そういう子が受かったことはない。レジュメが解けない子は「受からない」ということだ。合格はんこがよく取れるという印象のある子は合格する可能性が高い。逆に、合格はんこがほとんど取れない子が受かる可能性、確率は限りなく0%というのが、わたしの確信に近い経験値だ。
 7回解き直しというのは、合格はんこを取る子が更なる合格を確実にするための担保といえる。
 最近のわたしは、受検生が解けない、わからないというとき、「問題文を何度も十回でも二十回でも何を言っているのかわかるまで読みなさい」「何度も読み返し、問題の意味を考えなさい」と言って突き放す。これは「わかりません」と言って、さして時間もかけないで、解説レジュメを読む、それで「わかった」ということにして、次のレジュメを進める、こういう進め方をした子たちが、たとえ7回解き直しをしたとしても、100%受かることはなかった、という事実に基づいてのことである。不合格はんこを恒常的に取る子というのは、いかに真面目で勉強に熱心としてもやはり受からない。
 ならここは考えさせるしかない。どうしても受かりたいなら自分で考えて正解を出すしかない。教わらなければ解けないのなら、受かる目はないのだ。
 自ら能力の壁を越える、突き破ることでしか、目はない。考えるとは、そういうことなのだ。
 「何時間も考えたけどわからない」と言う子がよくいる。よく大手にいた子なんかがこういうことを言う。これだけ考えたのだから、もう教えてほしいというわけだ。最初から、わからなければ教えてもらえるという意識が考えるということそのものをいい加減にする。しかし、ほんとうに考える子というのは、まずそういうセリフは吐かないものだ。考えるというのは、本来人に聞かないことが、前提の思考なのである。考える人はわからなければ何日でも考える。考えるというのは、わかるまで考えるという意味である。これだけ考えたのだからとか、もう1時間も考えたのだからとか、そういう言葉は考えるということがわかっている子からは決して出てこない。
 数学者のピーター・フランクルさんは、イスラエルの方であるが、子どもの頃、算数の問題がわからないので考えた、考えてもわからなかった、それでイスラエルでは家庭に長持ちみたいな空間があるそうで、その中に入って考えた、わかるまで出てこなかった、というようなことを述懐されておられた。それが後の自分を作ったようなことを言っておられました。
 わからないと考える、それはわかるまで考える、竹の会でも結局受かる子というのは、そういうことがわかっていた子たちだったと思うのです。
 27年桜修館合格の女子は、まさにそういう子でした。わからないと何日も持ち帰って考えた。わたしがいい加減「説明します」と言っても「もう少し考えさせてください」と言って断ってきた。
 説明するとか、わからないので解説レジュメを渡すとか、そういうことは、あるにはあったが、数えるほどであったと思う。ただ当時のレジュメは、一回の指導で、精々多くて3通ほどだったから、少なかった。これは、当時は、指導の前にレジュメを制作するというのが普通だったから、である。つまり、指導はいつも新作レジュメだった。蓄積がなかったのだ。今のように蓄積されたレジュメが多いと、別の弊害が出てしまう。大量のレジュメを使うのはいいが、考える方がついていかないのだ。挙句、解説を読んでわかったことにして、先へ進める。7回解き直しをやれば万全と勝手に思い込んでいる。しかし、考えるという過程のない勉強に何の意味があろうか。他人の考えた、できのいい解説を読んで「わかった」とすることに何の意味があるのか。考えるという過程の欠落した勉強は、勉強ではない。いくら真面目で熱心だとしても、解き直しをきちんとノートに几帳面にやり遂げたとしても、大切な核心の抜けた勉強に実りなどあろうはずもない。
 25年の合格者たちは、24年にわたしが精魂込めて制作していった、つまり現在進行形で製作していたレジュメに取り組んで合格した。1回の指導で出せるのは本当に2通か3通しかない。それをじっくりと考え取り組んできた。ここ数年の受検の子たちよりずっと少ない量のレジュメで、早稲田進学会の模試では、上位に名前を載せ、合格してきたのだ。
 大量のレジュメをこなしても落ちてしまう、その違いは何か、どこにあるのか。
 25年の子たちは、考えることに命を張ったのだ。28年あたりから子どもたちは考えなくなった。25年の子たちよりも圧倒的に多種類、大量のレジュメをやったことにはなっていたけれど、考える、考えた時間は圧倒的に少なかった。
 考えるとは、具体的に、どういうことなのか。
 ただ時間をかけて問題をじっと見て、「わからない」から退屈な顔をして、手遊びしながら、時間の経つのを待っている、そういう子が、「もう1時間も考えました」などと言うものである。大手の塾に通っていたという子は、「考えなさい』と言うと困った顔をする。彼らは一読してわからなければもうわからないと諦める。考えるということがどういうことなのか、わからない。だから、「考えなさい」と言うと、放置されたと考える。だから、「塾では何も教えてくれない」と親に訴える。親もそんな塾、酷いと不満げにやめていく。大手の子は、公式を使うことばかり考えている。
 まず、問題を読む。そして意味を理解する。何を言っているのかよくわからない、こういうことはよくある。だからもう一度読む。まだ漠然とした、不明瞭なところがある、だからまた読む。まず書かれていることを理解することに集中する。それで問題の言っていることを整理する。そのために図にかく。線分図で表す。そこから何か見えないか、探る。うまくいかなければ、さらに別の図をかく。見えるまでいろいろかく。面積図なんかも試してみる。面積図では解けないことも多い。だから面積図の変形したものをかいてみることもある。算数を考えるというのは、この事実の読み取りのところで図をかいたり、面積図にしたりとすることを指すと言っても過言ではない。
 わからないという子を見ていると、問題の解読がほとんどできていない。つまり問題読み取りの段階ですでに終わっている。問題を整理する、図で読み解くというところまでいってないのだ。
 問題読み取りと問題の整理、解読もやらないで、解説読んで「わかりました」と言って終わる。そんな勉強してなんになるのか。勉強は考えることを学ぶ、考える機会を大切にし、心ゆくまで考えることだ。
 一枚の、何日も考えて解いたレジュメか、数十枚の、答えを見てわかったレジュメか。
 考えた時間数の絶対的少なさが、落ちた理由だ。
 わからない、何を言っているのかわからない、何度も問題を読み返す、わかるまで読み返す、問題の意味取りには全神経を降り注ぐ、問題の国語的意味はわかっても、それだけではだめなこともある。動く歩道の問題なんか、よくよく考えてみないと、そのからくりというか、思い込みに騙される。騙されている限りは正解には辿りつけない。だから、何度も何度も問題を読み、真意を探る。歩道の動いた時間、歩道の速さ、歩いた歩数、歩いた速さ、いろんな要素の意味をもう一度考え直す。そこからもしかしたらと仮説を立ててみる。考えるというのは、こういう思考の苦闘を言うのだ。
 すでに完成された正解を読み理解するのは、考えることとは無関係である。
 私たちは、問題を与えられて、ブラックボックスの中に入る答えを論理で推理して見つけることを求められている。計算問題の逆算問題と似ている。逆算で正解に迫る、時間の比から速さの比、速さと時間から距離、別の言葉で語られた言葉から糸口が見つかることもある。考えるとは、逆算と似たところがある。というか逆算そのものだ。計算の逆算と違うのは、様々な関係からブラックボックスを埋めるところだ。面積図も逆算、線分図も逆算、問題を解くとは出題者が予め構想したストーリーから抜きとった部分をストーリーの残された部分から逆算して確定するということだ。出題者はもちろん答えを知っている。私たちは、その答えを逆算で求めろ、と言われているのだ。こうやったら求まるよ、という正解を読むことが求められているのではない。
 竹の会のレジュメは、特に、受検のレジュメは本番と同レベル(実は越えている)だ。これが解けない、わからないなら、本番で解けることはない。つまり、合格の目はない。わからない→解説を読む→わかった、という過程に意味があるのか。ない、最初のわからないは、永遠になくならないだろう。
 他人の考えた、すでに敷かれた正解のレールの上を辿るだけの勉強に何を得るのか。ここで働かせられる思考とは、予め与えられた正解の道筋を「なるほど」と感心しながら鑑賞することことだけではないか。
 考えるとは、わかるまで考えるという覚悟にほかならない。

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