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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

合格の足音がする/都立中高一貫校への道/小学低学年指導が将来を決める/

2019.12.25

 

第47章 合格の足音がする
 あなたは、今どういう心境にありますか、
 迷いながら勉強している人もいるのかもしれない。
 何か漠然とした不安を持ちながら勉強している人もたくさんいるでしょう。
 今やっていることに自信の持てないまま悶々と勉強に向かう人、このままこういうことをやっていても受からないという思いで、虚しく勉強している人、これまでの怠惰な生活を悔いて負の精神を抱えたまま、とにかく勉強するしか選択肢がない人もいるでしょう、
 勉強しなかった、やるべきことをやらなかったという負のストレスが、脳に与える影響も看過できません。
 こういうストレスを抱えた、負の精神状態にある人には、決して合格の足音など聞こえてくることはないでしょう。合格の足音は、耳に聞こえるわけではないのは言うまでもありません。心で聞く、心の中に聞こえてくる、そういうものです。
 とすればこの足音は余程心が澄んでいなくては聞くことはできない、はずです。
 心が澄むとは、どういうことか。
 心に迷いがないことです。心にブレがないことです。あれこれと悩まないことです。悩んでいるうちは合格はない、というのは、難関国家試験では、真理です。より詳細に言うならば、難関国家試験の場合は、大きく二つある。一つは、方法論に悩む人が多い。もう一つは、勉強時間の絶対量が1日十時間を超えるか、で決まる。二つとも難関国家試験受験者を悩ます問題であり、悩む間は受からない。
 小学生というのは、先ほど述べたようなことで悩む子が多い。思うように勉強して来なかったという思いは、悔いを残す精神状態であり、このように心が負の状態にある場合は、まず合格の足音は聞こえることはない。いわば閉ざされた洞窟の状態である。
 負の状態とは、難関国家試験受験者の場合の勉強時間の不足が致命的なまでに足りないことからもたらされる。中学だと部活で足りなくなる生徒が多いと思うが、中には、勉強嫌い、ただの怠け者という者がいて、テレビやゲームに逃げ込むパターンである。小学生の家庭がよくやるのは、実家帰省、習い事、稽古事、サッカー、野球などの体育で、時間を浪費することである。
 方法論で悩む小学生、中学生がいるのか。
 小学生の場合は、親が塾の選択で悩むことはあるが子の態度は、親の選択に素直に従う子、自分から大手塾に行きたいという子、とにかく塾には行きたいという子とここで悩む親子は少ない。中には、塾に行かないで、受検しようという親子もいる。塾に行かなくて受かるか、という問題については、子が天才ならありうるという一般論を前提として、例えば、九段なら正直合格は大いにありうるであろう。まず問題が平易である九段のようなところでは、内申が高い子が受かることになる。「よくできる」が40点、「できる」が20点、「もう少し」が、1点である。「よくできる」が、100%に近い子ほど合格する道理である。他にそういう学校があるかであるが、区立と都立では、事情が違う。区立の場合、少しくらい頭が悪くても、内申のいい、つまり品行方正なる子が欲しいということなのであろう。しかし、都立は、都全域が対象であり、どうしても「選抜」の要素は軽視できない。それなりに問題の難易度を上げるほかない。問題が易しければ選抜の用をなさないからである。九段のように適性検査の問題に普通の子が平気で八割取れるようなものはは選抜試験とは言わない。

 塾に行かない、というデメリットがあるとすれば、竹の会の子たちのように思考を鍛え抜かれたか否かの差であるのかと思う。これだけは、小学低学年からの訓練が大きく、これが抜けた子たちが、将来高校入試や大学入試などで成功する蓋然性は限りなくゼロに近いであろう。小学高学年になって、計算が未熟、割合がわからない、つまり思考レベルが低いという子が、将来受験で成功する可能性はほとんどない。特に、小学の間に、勉強習慣、勉強のスタンスを形成できなかったことのマイナスはもはやリカバリーできない。
 小学生は親も子も塾に行く限りは方法論では悩まない。塾の方針に沿ってやるだろうからである。悩むのは、勉強時間の絶対量の不足であろう。こちらは、小学生の親というのは、どこまでも緩いからである。
 中学生になると、塾に行かない派も多い。行く派は、大手塾とそれ以外に分かれる。行かない派も中3になれば動き始める。中学の場合は、部活をやる子がほとんどでそうなると大手よりも小さな塾の方が使い勝手がいい。まあ、いずれにしても、方法論で悩むことはない。わたしは、高校受験で塾に行くという選択肢はない時代だったので、そこで悩まない代わりに、勉強の方法論では随分と悩んだ。結局自分なりに出したのが、七回読み直しであった。このやり方は、大学入試でも定番であった。ちなみにわたしは大学受験も予備校なし、つまり宅浪、つまり全くの独学であった。今考えると、とても人には勧められない方法であったと思う。今のわたしなら、予備校の利用を躊躇なく勧める、であろう。
 中学生の場合、自己判断で、自分の裁量で、勉強を進めるとろくなことにはならない。わたしも高校受験のときは、夜が暗くなるまで実施された学校の補習授業を受けて、学校から与えられた教材のみを何回もやった。当時学校が、五科目について、三年間のまとめと問題を一冊にした教材を配って授業してくれた。だからわたしが悩んだのは、どうそれを勉強するかであった。中にはそれを重視しない級友もいたかもしれない。しかし、わたしはこれ一本で上位合格した。
 東京の中学生は、塾に行っていても、自己判断、自分の裁量で、勉強を進めている生徒も多いのかと思う。特に、今のように、素晴らしい参考書がいろいろ出回っていると、ついそちらに手を出す生徒も多いと思われる。そうするとそれだけ塾の教材は手薄になる。手を抜くことになる。特に、竹の会のような塾では、七回解き直しを果たせないことになる。あれこれと良さそうな参考書に手を出す、これは七回解き直しを不可能にする。塾の指導を軽視する、ことにつながる。
 ここで受験の真理を一つ教えておきましょう。
 受験では、消極的な考え方は、心身ともにマイナスの結果につながることになる。これは不思議なことである。そういう親子ほど合格から遠のいていくのである。消極というのは、勉強に関わる消極である。少な目に済ます、この発想は結局ろくなことにはならない。少な目の発想、消極の発想の子ほど何かと病気にも罹りやすい傾向がある。消極思考というのは、精神の緊張さえも緩くしてしまうのである。少な目の発想は、合格を少な目にする。竹の会の指導日を簡単に休むというのは、消極、少な目の発想である。竹の会の場合、指導時間は多ければ多いほどいいのだから。竹の会の場合は、竹の会の指示したことを100%したがって、やっていればいい。その裏から言えば、竹の会が指示していないことを自己の裁量でやるのは、消極の発想である。勝手に参考書を買ってやる。自分の裁量で勉強を進める。これがなぜ悪いのかと言うと、模試を受けてみたらわかることである。ろくな成績は取れないことがわかる。
 合格の足音が聞こえる子というのは、わたしの言うことを信じて、ひたすらわたしの指示を実行してきた子である。100%実行してきた子である。

 「信じる」子には、ブレがない。ひたすら言われたことをやる子には動揺がない。実行100%の子には不安がない。不安というのは、実行しない子に特有の属性である。なに竹の会では、成功するのは、簡単である。竹の会で与えられたことのみを100%実行すればいいだけなのであるのだから。悩みは、実行率の低い人の性格に帰着する。竹の会の指示を先送りして、回避して、何をしてきたのか。自分判断を優先した? 実家帰省も盆正月で十日なら十分実行率を下げる、習い事、稽古事が週一回でも実行率は、×6/7になる。週3回なら、×4/7になる。竹の会で、受検失敗の主たる原因は、もし能力に恵まれていたのなら、竹の会よりも自分判断を優先したからです。自分判断というのは、広い意味です。実家帰省、家族旅行、習い事、稽古事、サッカー、野球、バスケなど、テレビ、ゲーム、怠惰な時間、部活専有時間の増加、自分判断の参考書ももちろん含まれます。
 ちなみに、模試を逃げるのは、消極の典型です。前にも述べましたが、模試を勘違いしないことです。模試はあなたたちにとっての意味とわたしにとっての意味ではまるで違う。わたしには、血液検査です。子どもの知全体の状態を知る大切な検査です。特に、都立高校の場合は、模試はかなり正確に出ます。それは都内のほぼ全員の受験生が、しかも自分の志望校を書いて、受けるからです。小学生の場合は、これがない。私立受験と都立受検では、問題の類型が全く異なる。もっとも難関私立では、適性型に近い問題も多い。また近年各予備校ごとに模試を実施するので、統一模試みたいな、志望者全員が受けるという模試が皆無となった。つまり、模試の信用性がない。問題も、サピックスの小石川模試の問題を見て呆れたのだが、なんと偏差値問題なのには、驚いた。適性試験じゃないでしょ。早稲田進学会の模試の受検者は今はかつての面影はない。だから一応の目安にしかならない。どこの模試も同じである。こうなると、各塾内での実力判断の方がずっと重要になってくる。模試は使えない。第三者機関が統一テストを実施したらたちまち集まるのではないか。
 何かを判断するとき、選択を迫られるとき、積極的な選択肢を回避すること、消極的な選択をすること、これは、そこに何かともっともらしい言い訳、理屈をつけたがるのが普通だが、実は、ほかに本音があってのことなのだが、そこに消極判断の本質があるとも言えるのだが、どんなに正当性を示し得たとしても、消極判断は、その消極性の故にマイナスの予兆を隠しきれない。
さて、皆さんには、合格の足音が、聞こえてきたであろうか。心にを無にするほどに勉強に没頭しているであろうか、心を「信頼」が支配しているであろうか、「信じる」心が、その足音を、かすかな音を聞きとる、ということがわかるであろうか。
 ひたすらに信じる心、それは小学生にだけ与えられる、天賦の才なのではなかろうか。

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 竹の会の神様 
 
 

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