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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

合格掲示板は神の言葉/竹の会算数実力判定テスト第2回予告/都立小石川中等/都立桜修館中等/都立白鷗附属中/都立戸山都立青山標準合格塾

2020.07.07

合格掲示板は神の言葉
 子はどこどこに入りたいと言う。親は子の思いを叶えてやりたいと思う。どこにでもあるような親子の姿である。しかし、話しはそう単純ではない。母親は、子にダンスを習わせて、子は夢中にやってきた、親子で頑張ってきた。幼いときから続けてきたピアノだけはやめたくない。発表会があるときは、何か月かかかりきりにもなる。多くの親子はみな同様な事情を抱えていた。勉強に専念する、勉強を生活の軸にする、竹の会を優先する、そういう家庭は稀有であった。そして合格していったのは、その稀有な家庭の子たちだけであった。
 わたしは子どもたちから報告を受けた受検番号はすべて覚えてしまう。高校受験は現場に行かなければわからないが、都立中学の発表はネットでわかる。だから最初にネットで確かめて、合格を確認してから、掲示板に向かう。ネットのアクセスが集中して繋がらない桜修館などは発表に間に合うように掲示板に行く。小石川の発表の日、掲示板に番号が一瞬ない、もう一度探して「あった」というのはよくやった。冷や汗。これは桜修館でもあった。都立駒場のときは、一緒に見たお母さんが先に見つけた。「あった!」と悲鳴のような声がわたしの耳に響いた。心臓は鼓動を打ち全身にひやっとした水を浴びた感覚が流れる。高校受験は掲示板のみだからこれはかなり心臓に悪い。ただ高校入試に関しては掲示板の前に立って「なかった」という経験がほとんどない。いや三年前に一つあった。高校で失敗するのは、わたしの思い通りの指導ができなかったときに限られる。部活部活で指導できなかったとか、母親がしきっていたとか、一切の情報をわたしに知らせないとか、とにかくわたしの指導を妨害したときだけだ。
 都立中受検でも、母親がいろいろ口出しするというか、わたしよりも、母親主導、母親がなにかと仕切ってきたというケースだと失敗する、たいてい失敗する。
 教育ママというか、母親にはそういうのが程度の差はあれ多い。学校説明会なんかも積極的に参加して、いろいろと情報を持っており、ママ友間の情報交換も盛んで、ちょっとした情報通である。ただこの人たちは、確かに学歴も高い人が多いが、やはり素人に過ぎない。こういう人たちがわたしの指導を信じきれないのか、横やりを入れてきたり、自ら仕切ろうとする。こういうケースは100%落ちた。100%です。
 竹の会では、わたしの指導に100%従わなければなりません。成績表はどんなものでも100%提出しなければなりません。わたしはわたしの指導の効果を確認しながら、次の指導をどうするか選択している。わたしの指示を母親の裁量で流すなどはありえない。また成績表を見ていろいろ判断することも多い。情報をすべてわたしに見せなければわたしの指導はない。
 合否の結果というのは、掲示板にあなたたちの力を評価した結果である。あなたたちが、習い事、稽古事に時間をそれなりに費やしたのなら、その余の時間で勉強したことが評価されている。答えを見て理解する勉強をしたのなら、そういうやりかたでどれだけついたかわからないが、その力が掲示板に示される。大手塾に通い時間を過ごしたのならそのことが掲示板に示される。
 掲示板は、神の裁断である。あなたたちが、勉強にどれだけ悩みどれだけ集中し努力してきたかは神さまは知っている。あなたたちが勉強しない時間がどれだけだったのかも神様は知っている。

 教えてもらった解き方は、思考力には何の足しにもなっていない。
 大手の授業形式のスタイルは、思考力には、最悪の方法である。
 家庭教師は、わかりやすく教えるのを仕事としており、まさに思考力を芽から摘む最たる方法にほかならない。
 解き方を習ってノートにとる。今度はそのノートを見ながら解く、これは勉強ではない。すでにわかっていることをドリルのようにやることに何の意味もない。
 図をかかない、式を書かない、単位をつけない、こういう子は、思考の証しがない。わたしには先の見えない子たちである。
 算数なら問題をよく読んで理解する。事実関係が全体的につかめないときは、図に表してみて全体図を鳥瞰する、というのが普通なのだと思う。
 記号言語で考える数学にしても、まず図にかくということは当然の前提である。図にかくというのは、算数、数学に共通の問題理解のための、脳が自然に求める行為である。何事もまず「事実関係を理解しなければ判断のしようがない」。この問題の意味理解を飛ばして、問題が「わからない」というのは問題を考えるということが何たるかを理解しない、可哀想であるが知的なレベルにないというだけのことである。

 事実を確かめろ、それから判断しろ、というのは、世の中の如何に処するかの判断においても、変わらない。人生というのは、いつも三叉路に立ち判断を求められる。そのときに冷静に事実を読み取り、的確な判断をすることが求められるのも同じである。
 事実関係を読み取って、判断する。その事実関係を鳥瞰的に把握するために、図をかくのである。あるいは事実を時系列にならべかえたり、表にしてみたり、とにかく意味ある整序を試みるわけである。まず事実は整理する。それから考えるのである。混沌とした事実に整序をつける、これが思考の正体である。
 事実を正確に、偏見なく読み取る。これがすべてなのだ。
 算数を解く、とは、事実の見定めのことにほかならない。数学も同じだ。
 基本とは、結局事実を偏見なく、正確に認識することにほかならない。
 解き方を習って覚えるという勉強のやり方には、事実の読み取り訓練が完全に抜けている。算数なり、数学なりを考える、というのは、この事実の読み取りをしている、ということなのである。
 こう述べてきて、大手の横並び授業方式の悪魔性が見えてきたと思う。事実の読み取りのところを軽視して、どう解くか、解き方を熱弁する。どころか事実の微妙なところはすべて講師が説明してしまうから、子どもたちは悩むこともない。
 「わかりません」とやってくる子どもは、99%事実を正確に捉えていない。わからないのは事実を捉えられないのだ。解き方がどうのこうのという以前の問題なのだ。
 解き方なんて、事実さえ構成できれば、自然と出来上がってくるものだ。
 何度も言う。考える、考えさせる、というのは、、事実を意味あるものとして整理する、ということだ。
 これをやってこなかった子どもは、はっきり言って落ちる。大手で何年やろうが同じことだ。
 竹の会でも最近7回解き直しをしたのに落ちたという例が出てきた。7回解き直しの弊害が噴き出た感じだ。これは何が問題かというと、解き方を7回やって覚えただけだからだ。7回解き直しの意味がわかっていない。解き方を覚えようとしているのだ。違うでしょ。問題は事実の読み解きにあった。事実をもう一度読み返して事実を考える、それが解き直しの意味である。つまり、事実の妙に触れることである。
 事実の読み解きの訓練をしていない者、つまり問題を適当に読み流して、わかりませんなどとやる者はできるはずがない。事実の読み取りをすぐ回避して、諦めて、面倒くさがってすぐ聞いてくる、「わかりません」という言葉には、事実の読み取りを放棄しました、という深い意味がある。言っている本人は、ただ解き方がわからないというつもりで、言っているつもりだろうが、解き方なんかどうでもいい、事実をどう捕まえるかなんだから。
 思考とは、事実を組むことだ。組む、そのためには、事実は偏見で歪んだものではだめで、ありのままの事実でなければならない。
 テレビのコメンテーターが、意見を言うのは、あれはどうでもいいのです。要は、自分の足で取材して事実を集めたかなんです。世の中のほとんどの人の意見、主張なんて、みんな誰かが言ったことの伝聞でしかない。事実を知らないくせに、意見を言う人間になってはいけない。

 算数を解く、考えるというのは、同じことなんです。ものごとを判断するというのは、正確な、偏見のない事実を読み取り、事実を分析し、事実を組み直し、事実から、事実を根拠に「意味」読むことである。

 

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