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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

合格請負人(5)

2020.01.31

 

第58章 合格請負人(5)
〜合格の報はいつも予期しない方向から突然のように舞い降りてきた!

 「もしもし、〇〇の父親ですが、阿部先生ですか、息子と替わります。」
 「先生、受かりました!」
  うわずった、興奮した声が、響く、
  平成19年2月6日午前10時過ぎ、
  竹の会初の公立中高一貫校合格、この年、二人いた女子が、東大附属に合格して、3人いた全員が合格した。合格率100%だった。
 この時から、わたしの、東京における公立中高一貫校のための、本当の戦いが、始まった。これまで高校入試のスペシャリストとして、歩んできたわたしには未知の世界への挑戦であった。道。首にしんにょう。首は生首を意味するとされる。挑戦していきなり合格を出すなんて、相変わらず、わたしは受験には強い、いや幸運なんだ、と思う。
 これまで高校受験を軸に、時々請われて中学受験もやった。そのために首都圏のほとんどの中学受験の過去問をほとんど解き尽くした。わたしのやり方はいつもそういうやり方であった。初めての公立中高一貫校の対策も制度スタートして2年目で、大手も何も策を持たない、そういう中で、私は、高校入試と同じように過去問を対策の軸とすることに迷いがなかった。
 あるときは、高校生を指導したこともあった。新宿高校や駒場高校の生徒が集まった。平成元年前後には、青山学院高等部の生徒たちを教える機会もあった。そのため、高校数学、高校英語の研究に没頭したこともあった。鈴木君は早実高校に合格後も三年間通ったし、平成11年青山学院高等部に合格したTさんも高校三年間通い、わたしは、この女子生徒のために初めて大学入試を請け負った。三年間数学と英語を指導した。大学入試の合格を請け負う、これは、合格請負人としてやや緊張した。これまでのように過去問をやっていくというやり方は取れない。いきなり志望校の過去問をやるというのは、ない。いかに素養を養うか、合格水準に持っていくか、である。わたしは、自分の大学入試で取った方法を自然と考えていた。あの頃と違うのは、今は、予備校が進化し、予備校の名物講師が特色のある参考書、問題集を出し、また市販の受験参考書もいいものがたくさんあることだ。わたしが勉強していた頃の環境とはまるで違った。わたしの時代は数学と言えば、チャート式だった。流石に英語はいろいろ出ていた。旺文社のシリーズはベストセラーばかりだった。わたしの頃には、名著と言われた参考書が、人気だった。小野圭の英文解釈とか、新釈現代文とか、古文研究法とか、胸を熱くする参考書があった。

 彼女の指導で思い出すのは、東大教養部の英語教科書を二人で訳していったこと、「大学への数学」の別冊演習を二人でやったこと、彼女は青学の英語三科目で三年間内申10点満点の10をとったこと、数学も常に10をキープしたこと、などが思い出にある。慶應に合格したとき、担任が塾に行ってないのに受かったことに驚いたこと、それは級友たちも同じで、みんなを驚かせたこと、も思い出す。彼女は竹の会に通っていることを誰にも話していなかったのだ。彼女のお母さんは、竹の会に、わたしに感謝してもしたりないと、大学の四年間毎年クリスマス時期には必ずワインを届けてくれた。あのとき、合格請負人の「請負」ということの意味がわたしには似合っている、そう思った。
 そう、大学入試の指導は、参考書に何を選ぶか、で決まる。一旦決めたらもうこれで通す。これがプロの合格請負人の、掟である。一旦決めたら変えない。これが合格する、必ず勝つための、絶対譲れない掟である。竹の会で、中学生が、勝手に、市販の参考書を買ってやるのを禁止しているのは、これが成績不振をもたらすことがわかっているからである。
 彼女は、平成14年上智の経済と慶應の総合政策に合格した。彼女は、毎日新聞の記者となった。
 それから平成13年都立西に合格した男子を三年間指導した。こちらは東大志望。しかし、慶應理工に合格。かれは今資本金27億の会社の社長である。かれはもともと「東工大志望」だった。小6の4月に竹の会に来てから都立西の三年間まで竹の会に通った。西の三年間は懇願されて引き受けた。彼は東工大志望から東大志望へと変わった。西の三年間常に学年50番内にあった。現役の時、早大理工に合格したが、東大を諦めきれず一浪して再挑戦するも数学で失敗、慶應理工に進む。彼は一浪の時、全国三大模試ですべてで、全国順位20番台であった。彼の実力は本物だった。東大をしくじったのはただ運が悪かっただけだった。慶應理工に進む人はほとんどが大学院に行くが、彼は卒業と同時に起業している。すでに学生時代にゲームソフトを開発してその才能を発揮していた。
 彼が竹の会に高校も通ったのは、平成11年青学合格の女子が竹の会に通っていたことを羨ましく思い、彼の母を通して懇願されたことからである。慶應現役合格を成功させて、わたしも気をよくしていたこともあったのだと思う。竹の会から初めて西に合格したこの生徒を今度は東工大でも東大でも合格させてやろうというわたしの合格請負人魂がその本性を現したのかもしれない。
 すでに平成10年に早稲田実業高校に合格させたことで、わたしは高校入試の合格請負を極めていた。
 合格請負人の仕事は、合格後も、つまり入学後も、わたしの手掛けた子たちがその力を遺憾なく伸ばし、成績を上げていくことに、その真骨頂があった。昔から、わたしの育てた子たちが、合格して進学後の成績がいいことは竹の会では当たり前のこととされてきた。思考から作り上げる、思考を育てるというわたしの指導は、そういうことが普通にあることを想定したものであったのだから。
 平成10年から平成20年は、竹の会は、激動の転換点に立たされた時期であった。少子化と都立高校の凋落、ゆとり教育という名の、公立中学のレベル低下は、学習不振者を大量に生み出し、竹の会には、そういう子たちが流れ込んできた。勉強習慣もなく、勉強に関心を示さない、そういう生徒たちに、わたしは、次第に嫌気がさしてきた。高校入試を止める、手を引く、そういう決意をした時であった。18年あたりから、公立中高一貫校制度がスタートした。わたしは、小学生ながら勉強意欲のある子たちに惹かれた。高校入試については、平成17年に竹の会に来た中1女子の指導に合わせて、竹の会の教材レジュメ化の仕事に没頭した。彼女は、平成20年、都立西に合格することになる。次にわたしの仕事は、公立中高一貫校のための指導教材をレジュメ化することであった。しかし、これが完成するのは、平成24年の指導の過程を通してであったから、かなり後になる。これは、大変な仕事であった。原因は、ワードか、数式ソフトか、で迷っていたことである。高校入試では、数学は数式ソフト、英語はワードと迷うところはなかったが、算数はともかく、適性問題は、ワードで作るという観念から離れられなかった。転機は、24年、渋谷教室移転の年だった。23年は忘れもしない福島原発事故の年だった。この年には、算数については、数式ソフトを使ったレジュメを作っていた。24年は、入会試験のスタートした年であった。わたしはそのために「入会試験」の試作品の制作に取りかかった。この時に、試しに、数式ソフトを使って作った。微細な図もかけた。イラストレーターほどではないが、十分だった。試作品を作っているうちに、わたしは適性問題を図でも何でも縦横に作れる技を会得していき、こうなったらすべての適性問題を数式ソフトでレジュメにしてやろうという野心が生まれた。この年は、小6は5人だった。この5人にわたしは日々完成していく適性レジュメを使った。この子たちの中の3人が、小石川、白鷗、桜修館に合格した。遂に竹の会のレジュメを使って合格した子たちが生まれた。
 合格請負人と中学入試
 頼まれて中学受験のための指導をやることはあったが、そう多くはない。たいてい0人だが、いるとしてら1人。3人という年もあったか。獨協中に合格させたのが初めてで、あの頃の算数入試はまだ数学を使えばほとんど解ける時代だった。わたしは算数に関心もなかった。ただ頼まれたら合格請負人の仕事としてやらざるを得ない。だから首都圏の中学受験の過去問を解きまくった。あの頃はとにかく図で解くというやりかただった。数学を使って解くことも教えた。速いからだ。算数の価値をそれほど評価していなかった。東洋英和や日大二中、吉祥女子とか、国学院久我山、立教などに合格させた。高校入試の傍らだったから、二科目受験のところばかりだ。理社の指導は、大手には敵わないと思った。しかし、時間があれば、いつの日にか理科や社会をと、コツコツと書き溜めてはいた。だから竹の会には膨大な量の理科と社会の教材データが使われないままにある。みないつか日の目を見るかもとわたしが書きためてきたものだ。最近配布している「教養の社会」とか、「日本の歴史」などは、その時に作られたものを編集したものだ。
 平成10年以降、東大附属の合格者が出るようになった。ここの受験者は、なるべくカネをかけないで合格したいという、つまり塾には行かないで受験するという親子がほとんどであった。竹の会からよく受かったのは、そういう親子が相手だったからだと思う。平成10年から20年は、公立中学に学力不振児が氾濫し、加えて少子化の波が押し寄せた時代であった。この時期の後半には、竹の会には受験をするということもない公立の小学生が増えつつあった。それはわたしが公立中学の指導から手を引きつつあるのと符合した。平成19年から24年は、わたしが算数という科目の真の面白さに惹かれて、没頭した時期であった。開成、麻布、早稲田、灘などの過去問を三十年分は遡って解いた。これまでと違って、徹底して、算数的思考にこだわった。鞄には常に声の教育社版の灘などの過去問が1冊入っていた。解きかけ、考え中のものだ。旅先でもよく解いた。解いたらメモしておいて、後からレジュメに起こした。わたし流の、わたしだけの算数解答だ。今竹の会で思考を鍛えるために使われる「推論を鍛える」などの算数シリーズは、そのような由来のものだ。
 合格請負人と国語
 国語とのつきあいは長い。わたしは高校受験専門だから、最初は、高校入試の問題だった。とは言っても、自分が大学受験で国語と戦ってきた経験というものは下地に常にあったと思う。あの頃は、ひたすら「読んで理解する」だった。誠に正攻法だった。わたしに誤解があったのは、国語には、筆者と出題者がいて、出題者は、筆者の意に沿って、筆者の真の意図を理解して、問題を作っている、だから筆者の言うことを理解すれば正解を得られると思っていたことだ。なんとも牧歌的な信仰であったことだろうか。違うのだ。問題作成者の理解した、筆者の書いた本文について、問題作成者の理解したことについて、答えるのだ。もちろん問題作成者は、本文の真意と離れた無茶な問いは、作れない。本文に書かれたことだけを問うしかできない。本文というのは、いやつまり国語というのは、主張の文章であり、読者に主張を理解してもらうために書いている。だから国語の文というのは、言い換えをしていく。抽象的な内容は、具体的に言い換える。具体的な内容はさらに具体的に言い換える。例示する。体験を書くのも自分の言いたいことを理解してもらうためだ。具体的に書けば、今度は、具体的なことを抽象化して言い換える。定義化するというのも抽象化ということだが、定義化というのは、自己の価値観を抽象化したものである。こうした構造を前提に、問題作成者は、問題を作る。問題作成者にとって筆者が真実、何を言いたいのかは問題ではなく、本文に書かれてあることから、つまり、抽象と具象の関係を問いにするだけなのだ。よく国語には正解がないなどと言う人がいるが、そんなことはない。問題作成者は正解の存在を前提にして、問題を作るのである。選択問題なら、問題作成者は、嘘の選択肢を巧妙に作るはずだ。正解を隠すために、正解らしい選択肢を擬装するはずだ。あやふやな表現、曖昧な言葉、正解に似せた言葉と、ありとあらゆる騙しの言葉を使って、騙しにかかってくるはずだ。しかし、正解は確かにあるのである。正解が正解として認められるには、本文に根拠がなければならない。だから、問いが抽象部分なら根拠は具体部分にあるし、問いが具体部分なら根拠は抽象部分にある。問題作成者の問題には必ず正解がある。まず正解を作って問題を作るからだ。
 受験国語のこうした本質を知らないから、国語の解答はいろいろあるなどという戯事を言うのだ。
 わたしの国語のレジュメは、受験国語のこうした本質を教えるために作っている。これが合格請負人の仕事です。

 合格請負人というのは、その仕事というのは、合格に導くために、ぶち当たる壁を取り除く仕事です。ケースバイケースに具体的な例に則してその都度難題を解決していく、そういう仕事です。
 

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