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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

合格請負人(4)/都立小石川中等/

2020.01.29

 

第57章 合格請負人(4)
〜世の中の主張は99%後付け

 福島第一原発の事故のとき、政府と東電の事実隠し、権威の象徴と言われた東大大学院教授の無能な見解、専門家と言われる人たちの素人並みの意見と行動、安全神話を振り撒いた東電、政府に同調してきた御用学者、御用弁護士、御用医者が、顕に姿を、その醜い心をあからさまにしたのを私たちはリアルな映像で目撃することができた。権威というものがいかにあてにならないものか、私たちは実体験で学んだはずであった。専門家を気取って、国民をバカにしていた連中、その多くは、東大、東工大などのトップ大学、大学院を出たエリートであったが、原発事故の最中「コンセントが合わない」などとふざけたことを言って、あたふたしていたのである。つまり、この程度だということである。
 テレビでは、コメンテーター花盛りで、気を衒った若い研究者を売りにする者、経験豊富を売りにする老境コメンテーターなどが、視聴率を意識して、視聴者受けを狙って、テレビに阿りながら、結局批判しているつもりが、テレビ局の筋書き通りにパフォーマンスしていることに気づいているのかいないのか。いるとして人気が出ればそれでよしとしている節もある。
 問題なのは、どのような社会派批判をしたとしても、それは結局ただの言いっ放しでおわる、つまりテレビという媒体を通して意見が消費されて、使い捨てられていることだ。
 コメンテーターと言われる人たちが、コメントする内容が、どれだけ意味あることを言っているのか。
 何を言っても構わない。言うのは自由である。しかし、聞く側としては、まず、伝聞は排除していかなければならない。だれかがこう云ったの類いである。私たちは、云った本人に反対尋問する機会がないからである。伝聞は、本当に事実をありのままに伝えているのかということがまず問題である。伝える者が歪曲していない恐れは否定できないからである。さらにそもそもそういうことは云っていないということだってありうる。
 事実を直接見聞きした者が伝えるのと、その人の話しを直接聞いた者が、他人に伝えるのとでは、全く様相が異なる。
 私たちは、又聞き、その又又聞き、際限のない又聞きという情報社会に好むと好まざるとにかかわらず落としこまれている。毎日、新聞、テレビが伝えるニュースが、私たちの情報のほとんどだとしたらこれほど不自由なことはない。幸いと云っていいのか、私たちには、インターネットという情報獲得手段がある。しかし、この世界は、匿名に隠れた悪意の氾濫する世界でもある。私たちは、自らの選択によって、そうした屑情報を選別し、真実性に担保された情報を手に入れる方法の安定的な必要に迫られている。
 私たちが、伝聞性を排除した中で、確かな情報を手に入れるのは、正直難しい。テレビに出てきて、自論を展開する有名人の言っていることが、そのまま信用できないのは、彼ら彼女らの脳が伝聞に満ちているからだ。要するに、確たる根拠のない風論が幅を利かせて闊歩している、というのが、世の中ということである。
 わたしたちが、いかに伝聞を排除するか、である。まず、私たちは、常識的に考えての論理というものは持ち合わせている。しかし、この「あたりまえ論」は、普段から意識的に使っていないと、あたりまえだから考えない、あたりまえだから無関心、不作為とされる危険に満ち満ちている。

 私たちの経験から検証された、当たり前という尺度を普段から意識的に使うことに慣れていることが求められている。「普通に論理的」なのかと問うことも大切である。問題は、私たちが、特別の論理、実証もされてない例外の論理に、騙されないことだ。私たちは、当たり前よりも、普通よりも、限定、制限、範囲、レア、特別、そういうものに価値を認める傾向がある。なぜ限定なのか、なぜ制限があるのか、なぜ範囲が限られているのか、なぜ特別なのか、普通ではだめなのか、当たり前ではだめなのか、そういうところを問い直して、常識の物差しで測り直してみる、これが大切なのではないか、と思う。
 私たちが、訓練しなければいけないのは、徹底して常識的を問う、常識から考える、ことである、特別を排除する。そこに意味がある。
 新聞が、福島第一原発のその後を報じないのは、やはり常識から考えて、不自然である。福島の子どもに甲状腺癌が増えているのに、原発事故とは因果関係なしとするのも常識から離れている。
 なぜか、根拠もないのに、例外、特別が、押しつけられる。

 竹の会では、入塾すると、最近では、小5の12月までは、算数、特に、割合を軸とした思考訓練に明け暮れている。もちろん入塾したときは、そのほとんどが、分数どころか小数の計算もできない。小2、小3ならこれは当たり前かもしれないが、小4はともかく小5でもそういう子が多いとなるとこれは世の中の塾というもの、そしてそういう塾に通わせてきた親たちの行動がはたして正解だったのかと問うのが普通である。少なくとも2年通って、計算もできない、割合も理解していない、というのは、異常であり、能力的な原因か、そうでなければ塾に問題がある、と考えるのが、普通の思考ではないかと思うが、驚くのは、そういう親たちが全く塾を信頼していることである。この親たちはまず自分の子がいかに基本的なことができていないかということについて気づいていない。その鞏固な大手崇拝姿勢に驚かされる。大手に行っているから安心しているとしか見えない。大手恐るべし。
 この親たちは、異常さに慣れてしまって、根拠もないのに、塾と自分の子の力を頭から疑わない。子の内申がまあまあいいと尚更である。わたしから見れば、騙す方と騙される方が見事に調和している。
 わたしはまず子どもができるとか、勉強第一にするとか、信じないから、とにかくいちいちチェックする。常に、根拠を求めている。できるかできないか自分の目で確かめる。内申を見せてもらうのもその根拠を確かめたいからだ。竹の会の、わたしの指導は、常に、子どもたちに根拠を求める姿勢で貫かれている。わたしが中学生に定期試験の結果報告を求めるのは根拠をチェックしたいからであり、内申を報告させるのも同じである。中3になると遅くとも8月からV模擬、W合格模擬を受けるように指示しているのも、少なくとも5回、多くて8回前後。その結果をそのたびごとに仔細にチェックして事後策を講じるためであり、特に、都立入試では、模試は、血液検査と同じ意味がある。この時期に成績が伸び悩むとしたら、それは自分の判断で、自分の裁量で勉強を進めたり、模試を受けなかったり、模試の結果を自分限りで処理しているからである。特に、自分の裁量という場合、竹の会の指示を仰ぐのではなく、自分の考えで参考書や問題集を買ってやったりすることが多い。これをやると早晩破綻することになるのは目に見えている。この実例は事欠かない。わたしの指示を無視して父親が書店で買ってきた問題集をやらせていたことがあった。知能は比較的高い中3の生徒が伸び悩み、わたしが父親と会って原因を訊しわたしの指示に従ってもらったら途端に90点を超えたということもあった。市販の参考書は絶対にやってはならず、竹の会の指示を「やっている」と言うのに伸び悩んでいる子は、おそらく市販の参考書、問題集をやっているはずである。かつて英語が伸びないと悩んでいた中1が、得意な数学の成績まで下がったので、わたしに相談してきたことがある。わたしはいつ見てもわたしの知らない問題集を開いていたので、竹の会の指示を守らないからだと強く叱責したことがある。その生徒がわたしの、竹の会の指示に専念した途端に英語も数学も90点越えをした。これは実話である。決して話を盛っているわけではない。
 竹の会というのは、わたしの指示だけを実行していれば成績は自ずとよくなるのが普通なのである。竹の会は常に子どもに証明を求めている。わかったというのならその証明を求める。実際にそうなのか根拠を求める。子ども言葉は信用しない。なら実際に解いて見せてくれ、これである。
 竹の会では、子どもの判断はもちろん、親の判断も時として仇となるのはわたしには通常ありうることで、よく親がああしたいこうしたいと言ってくるときはもちろん、何々をしないという申し出も、わたしから見れば結局は自分の子の未来を下方修正していることになっているのがほとんどであり、親はその誤判断に気がつくこともないし、気がつくのは、我が子の失敗を知ったときであるかと思うが、実際は、自分の数か月前の誤判断に思い当たる親などいない。こういう親に限って、塾で失敗したと他人のせいにするものだ。
 竹の会の子たちは、わたしのこの考え方から、毎回毎回根拠を求められている。毎回指導の初めに計算4題をやらされるのは、わたしが根拠を求めているからであり、レジュメを自分で考えて解いた結果をいちいちチェックされるのもわたしが根拠を求めているからである、
 あなたたちは常に「できる」という、「わかる」という証明を求められている。だから式を書けとうるさく言うし、式には単位をつけろとも言う。わたしがどういうつもりでそういうことを言っているのか、わかっていない子が多い。あなたたちが本当に分かったのか、分かっているのか、確かめているのだ。それが合格請負人の本音である。
 
 

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