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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

夏期指導終盤へ

2017.08.12

 おはようございます。久しぶりのブログの更新となりました。夏期は連日の指導でブログの更新は無理と思っていました。連日の7時間指導はわたしにはかなり過酷な日程と体に異変の生ずることを畏れての日々でした。案の定木曜日あたりから歯茎が腫れ、目も元気なくしょぼついているのがわかり不安でした。とにかく後半の3週のうち1週目を無事終わったことにほっとしております。

 今日は懸案の過去問のデータベース化に取り組み先ほど予定の紙資料をすべてパソコンに取りこみました。資料は、都立西過去問、都立日比谷過去問、都立新宿過去問、都立国立過去問、都立青山過去問(西、日比谷については平成13年から平成28年まで分)、2016年度全国適性問題、2017年度全国適性問題、2018年度全国適性問題、2018年度私立適性型問題などです。高速スキャナー、裁断機などを使い、紙データのデジタル化を一気に終えました。かつての牧歌的なスキャナーによる取りこみ作業が嘘のようです。

 夏期の塾生のみなさんの勉強姿勢は7時間みっちりと勉強に集中していることに満足をしております。渋谷Bの指導は渋谷Aに比べて手がかかります。これは指導内容が初級ないし導入段階の子たちが多いことによります。いちいち細かく指導しないと前へ進めないということです。ですから渋谷Bの指導は正直かなり疲れます。ただこんなに熱心な子どもたちはいないのではないか、とにかく夢中でわたしのレジュメを進めようとしていることだけは伝わってきます。

 前回の早稲田進学会の模試はわたしの予期したとおりの結果になりました。わたしの指導についてきているという子は問題なく成績優良者に名前を載せました。現小6では1名だけです。他の子たちの遅れは深刻です。熱心な割には成績のとれなかった子もいました。これは指導レジュメで合格はんこをとれないことが原因と思います。解説読んで「わかった」ことにしても力にはほとんどなっていないということがわかります。また、過去問レジュメをやっても成績はよくならない、推論系のレジュメをやった子ほど伸びている、ということもわかってきました。

 夏のメインレジュメは「算数をクリアーにする」です。ところが、現在これに取り組んでいるのは、2名だけです。そのうちの1名はなんと小5です。いずれも合格はんこを取りながら進めています。小石川、桜修館に合格するには、推論系レジュメを合格はんこをとりながら終わらせることが必要です。富士、白鷗については、28年合格者は推論系レジュメをやれませんでした。合格はんこがとれなかったのです。九段合格者は、「推論算数」だけやりました。竹の会の過去の指導記録からは推論系や算数系のレジュメをこなしている子ほど合格していることがわかっています。25年に桜修館に合格した子(小6の11月退塾)は当時竹の会ではもっとも難しいとされていた「受験算数」を終わらせていた子でした。28年に富士・白鷗に合格した子たちについては、作文で合格したと見ています。

 現在の進捗状況を見ていますと、他の小6の子たちが夏期中に「算数クリアー」に入れるのか、甚だ疑問です。夏期は来週からもう終盤に入ります。なぜ息切れするのか、なぜ遅れているのか、よく考えみてください。勉強を先送りして他のことにエネルギーをかけてこなかったか、勉強というのは日常的な勉強最優先の生活を少しでも疎かにするればたちまち振り出しに戻る性質のものです。今息切れしているのは、勉強を先送りして、他の何かを優先してきた結果の典型的症状です。恐いのはそういうことの連鎖がもたらす勉強からの逃避行動、現実を直視できないための、日々の回避的な心性です。怠ける者が当然のように陥る行動パターンというのがあるのです。

 作文で苦しんでいる小学生が多いですね。夏期から毎回作文を制限時間内に仕上げる訓練をしておりますが、合格作文を書く子というのがほとんどいません。流れるような文が書けてない。理由を書かない。作文というのは、いちいち理由を書くことでしょ。それから体験例というのは具体的でなければ意味がない。これに対して、主張というのは、抽象的な形にして書く。定義化するといってもいい。「・・・とは・・・である」という形で価値判断を抽象化する。来週からは小5も作文テストを小6といっしょにやってもらいます。最初はダメかもしれませんが、とにかく書き直して合格作文というものがどういうものなのかをつかんでください。

 ◎受けて見ればわかる、竹の会の指導の真価

 夏、集中して訓練するということ、これがもたらす効果は計り知れないものがある。大手塾のつまらなさは大手に行く人にはわからないでしょ。ただ大手に通っているということに満足している、多くの親子には、真の勉強というものがまずわかっていない。それでも大手に通いながら漠然と「このままでいいのか」という一抹の不安を抱く親はいる。それが大手に子を通わせている、ある程度良識のある親の実際なのではなかろうか。わたしが出会った大手経験のある子は例外なく為すべき訓練を施されてこなかったことからくる不完全燃焼で完結していた。いったい小4の1年間を大手では何を教えているのであろうか。竹の会の小4なら為すべき基礎を徹底して繰り返したたき込む、勉強に対する姿勢、精神的ありようというものを徹底して訓練していく、勉強のスタンスを作り上げていく、なのに大手出身の子たちというのは甘えに満ちた勉強姿勢にどっぷりと浸かり込み、どうしようもない。すぐに「わからない」と投げだし、丸投げしてくる。こういう丸投げに慣れた子には真の思考スタイルというものがわからない。「考えたけどわからない」という丸投げもある。「ちゃんと考えたの」と言われるのを予め封じたわけである。大手の子たちは勉強というものをほどほどにしかやらないのか、親も使い勝手よく大手を利用しているように見える。

 7時間の指導が苦にならない。竹の会の指導とは、華々しい謳い文句だけの大手の授業の内実とは全然違う。子どもたちは指示された段階の課題に真剣に取り組み、確実にマスターしながら前へと進んでいる。そのことは子どもたちにもよくわかっている。基本ができていないということの意味が具体的にわかっている。小4ならまず小数の計算をマスターし、分数へと進める。難度の高い四則演算をこなせるようになってから逆算を訓練していく。逆算をマスターしたら計算の訓練は毎回の指導で継続するのは当然として、割合の導入へと進む。大手がちょっとだけしかやらないところだが、竹の会では最低1年はやる。竹の会では割合の理解度のステージがあり、子どもたちは「割合とは何か」から始めて高度な中学受験の算数の問題をこなせるほどに上達していく。その上達は同時に思考訓練段階のステージを上げていくことでもあり、勉強というものに対するスタンスを形成していくものでもある。さらに高みに進めるかは大いに個々の子どもの能力の如何に左右されるものではあるけれども、少なくとも竹の会では小学生が中学生になって勉強しないなどということのない、知的基本資質だけは涵養されることになる。

 ◎読むの定義

 読むということは、勉強の基本中の基本である。教科書を読む、参考書を読む、新聞を読む、すべて読むが基本である。わたしはかつてこのブログで読解力をつける読み方について、論説文を音読することを薦めたことがある。音読というのは時間のかかるものである。例えば、高校の現国の教科書を読むとして、かなり難解な文章ということもあり、1回目はかなりに時間のかかる仕事ではある。2回目の音読は1回目ほどではないけれどそれなりに時間はかかる。書かれてある文章の意味を取りながらの音読はかなりにスピードが遅い。3回目、4回目と次第に読むスピードをあげる。7回目あたりになると読むと意味取りという2つの仕事がまるで同時通訳されるかのように頭に入ってくる。この段階からはもうできるかぎりスピードを最速化して読むことに挑戦する。わたしはこのようにして現国の教科書を単元事に毎日10回音読することを続けた。それがよかったのかどうかはわからないけれど、高3の時の全県模試で現国が3番だった。わたしは現国の問題集や参考書などいっさいやったことがない。ただやったのは音読だけであった。

 山口真由氏がその著書で「7回読み」ということ書いている。氏は音読は時間がかかるので薦められない、と述べている。氏は主として国家試験などにおいて、1冊を7回読んでマスターするということに関して、持論を展開している。その中で、音読はだめで、黙読も実質音読ならだめと述べている。とにかく早く読むことに主眼をおくから、じっくりと読むのはだめだと言っている。黙読とは声に出さないで読むのか、と思っていたが、氏は、そういう黙読はしないで、そうではなく、いちいち文字を読まないで、目で追う、という。心の声で決して読んではならない、という。頑張って読もう、としてはならないという。がんばって理解したいという気持ちに駆られて、なんとか頭に入れようと心の中で音読してしまうことがいけないとする。要するに、流し読みしろ、というのである。ただ目に写していく、それでいい、というのである。

 だから一頃東大生の中で流行したカラーペンで線を引く、色分けするなどというやりかたもしてはならない。とにかくひたすら読むことに徹するのである。ノートにまとめるというのはしてはならない。そんな時間があったらとにかく読むことである。特に、初めて勉強する科目だと最初からノートをとると全部うつすことになりかねない。勉強というのは時間が限られた中での知的作業である。そしてノートに頼るのは限界があり、試験場にはノートは持ち込めないのである。

 1冊をマスターするという場合の「読む」勉強法は実はわたしが高校受験と大学受験において、実践したものである。わたしは7回どころか、十数回、中には50回も読んでものもある。赤と青の色鉛筆もよく使った。流し読みというのは最後はやったけど最初から流し読みという山口氏の方法はそうかもしれないと思わせるものがある。そして徹底して理解しないで読むというのも逆説的でこれもそうなのかもしれないと思わせるものがある。

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