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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川、両国、桜修館、白鷗、九段合格設計図/最低でも都立戸山、青山に合格するには/繋ぐの考察

2019.04.08

 4月8日になりました。新学年の始まりです。公立中学、都立高校の入学式は今日、明日が酣(たけなわ)ですね。竹の会の卒業生のみなさん、ご入学おめでとうございます。生憎今日は雨模様ですが、みなさんは希望に燃えて、新しい学園生活に期待と夢で心は一杯のことと思います。これから3年後にみなさんがどういう立ち位置にいるのか、それを差配できるのは、みなさんだけです。わたしからはひとつだけ、先送りするたびに破滅へ一歩近づく! ということです。

4月補充募集、対象 小4 小5
都立中をめざす、小5について、2名を募集します❗️ 仮合格者の退塾に伴う補充募集です。
小4につきましては、7月まで受け入れの予定です。
お問い合わせは、HPのお問い合わせフォームから、
予定数に達した時点で、募集を終わります。

新学年募集状況
小3 申込受付、入会試験L基礎
小4 受け入れ中。入会試験L中級
小5 4月補充募集中! 都立中受検は入会試験α
小6 高校受験 入会試験β

中学生についても、受け入れることがあります。お問い合わせくださればスタッフが対応します。

8割基準を満たす小学生は竹の会へ!
竹の会が、合格へ道案内いたします!
8割基準とは、小学校の通知表の3段階評価のうち「よくできる」が、全体の8割以上あること、を言う(これは、竹の会の造語です)。
8割前後が、竹の会入会の目安となるかと思います。

●繋ぐの考察

 私たちは、「つなぐ」ことを忘れているのではないか。 意味とは、つなぐことから、生まれてくるのではなかったか。 一文、一文が、繋がれて、意味ある文章が、生まれる。文に生命が吹き込まれる。 勉強は、継続して、初めて効果がある、というのは、繋ぐ、ことを、別の表現で、言い換えた、ものである。 「繋ぐ」ことを忘れてしまった中学生については、前に書きました。中学生の多くは、部活で、「繋ぐ」という、生存を「繋ぐ」ことにつながる行為を放棄します。 昨今は、親が子との繋がりを忌避することも多く、年老いた親の介護が繋ぐという行為の意味を改めて問い直す契機となる。繋ぐが、生存にかかわる行為だとすれば、介護は自己の生存に必ずしも必要な行為ではないからです。しかし、親への返せぬ恩は自己の命さえ顧みぬ献身的な行為となって表れる。人間は、「心」を繋いできた、不思議な生き物です。心は生存とは別次元で、意識という認識装置の中で、感情を支配する。感情こそが人間を人間たらしめる特質に違いない。

 徳川家は、血を繋ぐことで、徳川政権を繋いだ。 繋ぐのは、難しく、断ち切るのは、簡単である。 生命を繋ぐ、のは、種の保存のためである。 繋ぐというのは、何かを保存のためである。 勉強を繋ぐのは、突き詰めれば、あなたの生命(種)の保存のためである。 何事も繋ぐことによって生命を吹き込まれる。なのにあなたたちは、いとも簡単に、糸を切る。一旦切れた糸は、ただの糸切れになる。あなたたちは、簡単に、糸を切る。そしてその意味を悟らない。 あなたたちは、習い事、稽古事、部活、なんでもいい、とにかく簡単に糸を切る。 糸を切ることの意味を悟らない。 あなたたちは、生きるということを忘れて、種としての、あなたの生命の保存を顧みないのです。 ある人は言う、勉強勉強の人生なんて味気ない、もっと人生を楽しんで生きるべきだ。特に、中学、高校は、自分の経験からもスポーツなどの部活にのめり込んで青春を燃やしてもらいたい、それが人生なのだから、二度と来ない青春時代なのだから、と。 至極もっともな主張のように思われる。

 ここで私はマルクスの資本論を思い出す。 マルクスは、経済を下層構造において、その基盤の上に、法律、文学、その他を置いた。経済こそすべての価値の基盤となる価値と規定した。考えてみれば、私たちが、生存する、つまり生きるというのは、すべての価値の前提となる基礎である。生きているから、文学も芸術もその存在を主張できる。生きるとは、食べる、ことであるのは、もちろんであるが、衣食住満ち足りて初めて人間らしい生活ができる。社会で生きていくことができる。経済は、生きるための基盤そのものなのである。 私たちが、生き方を語る、人生を楽しむというのは、経済という基盤があってのことなのである。私は、自らの経済的基盤を切り拓いていく、造り上げていくのが、小学、中学、高校、大学の過程であると言っているのである。あなたたちは、自分の将来の経済的基盤をどのように築いていくのか。生まれたときから、すでにして生存のための競争は始まっている。子どもが可愛いからといって、子どもが喜ぶように遊ばせて、欲しいものはなんでも買い与え、子どもが嫌だといえばすぐ言うことを聞いて、子どもの我儘をなんでも認める。子どもは親のペットではない。ただ可愛がるのでは子どもはずっと親の保護がなければ生きていけない。習い事、稽古事は、何のためにさせるのですか。スポーツごときになぜにそんなに親まで一緒になって夢中に燃えるのですか。将来の素養のためですか。精神、根性を養うためですか。あなたたちは、そうしたものが、将来生きていくための、経済的基盤とどのように関係してくると、寄与すると考えているのでしょうか。ただ一点、そうしたことが、勉強しないということ、あるいは勉強の糸を切るということ、は顧みられることもない。その選択であるということの説明は全くありません。

 勉強は、子どもたちが、将来の経済的基盤を築くための、ほとんど唯一の選択である、のが、現状です。家業があるとか、農家を継ぐとか、職人になるとか、将来の職業がすでにある人を除き、普通の家庭に生まれた子には、しっかりと勉強することで、自らの生きる道、を切り拓いていくしかないのです。習い事、稽古事、スポーツを子どもに課する親は、将来の子どもの経済的基盤について、何も考えてないか、漠然と楽観しているとか、慌てて独り立ちしなくてもいいとか、まあ、いろいろ目算があるのでしょうけれど、それにしては、多くの、そういう小学生、中学生を見てきたけれど、みなさしたる考えもなかったようで、私立の単願推薦とかかなり安易な選択をして、高卒、専門学校、よくて三流私立大などに流れ落ちていく。経済的基盤などないに等しい人生を決定づけられていく。

 もちろん勉強という選択は、遺伝子的な影響は避けられない。進化論からすれば、生存競争に遺伝子の優劣が、決定的に、影響するのは、避けられないのである。これは、道徳的な是非の問題ではない。生存競争というものの本質からはそうなるということである。 勉強というのは、遺伝子的生存競争と生き残りをかけた意志、実行力という、本質をもつものである。この生存競争の視点が、欠落した親が、能天気に、子どもを、教育的とか、人間性とか、生存の視点の欠落した綺麗事、絵空事を並べて、子どもの将来の生計の芽を摘み取って行く。 勉強が、ほとんどの子どもたちの生計(たつき)獲得のため手段だとなると、この生存競争に勝つのは、知能遺伝子と勤勉性遺伝子の優れた者に有利となる。生存競争は、遺伝子の優れた者には最初から有利な戦いなのである。子どもたちには、最初から不平等な戦いであり、これが生存競争の本質であり、人間の知恵では、何ともできない、神の差配である。

 生存競争は、生命ある者の宿命である。競争をなくすという政策が、愚策であったことは、歴史の証明するところである。かつて受験競争の弊害を正すとの正義を旗幟(きし)として、都立高校に学区制、グループ選抜、学校群制などが導入され、たちまちかつての受験名門校であった多くの都立高校が、凋落していったのは、記憶に新しいところである。そもそも生きるというのは、厳しい生存競争に晒されるという、当然の前提がある。すべての生きる生物にとって、生き残りをかけた戦いが日常だったのであり、それは人間も変わらない。生存するというのは、生き残り競争であり、このことをすっかり忘れた親たちが、子どもをペット化し、あるいは過剰保護して、競争の外におき、本来生き残り競争で獲得していくはずの生き残るための、知恵をつけないままに、年齢だけは、大人で、親に依存してでしか生きられない、アダルトチルドレンを量産していくのである。 「繋ぐ」とは、生存競争に打ち勝つための知恵であり、先人の教える、優れた戦略にほかならない。

 勉強とは、繋ぎ目のない、糸であることを理想とする。初めからある糸ではなく、毎日糸を紡ぐというのが、わかりやすい。勉強を、3日休めば、次に、始めるときは、また最初から紡ぐというのが、勉強の特質である。これまで紡いだ糸に繋げられないのが特質である。 勉強は、繋ぎ目のない糸ほど優れた糸である。 繋ぐというのは、極めて人為的な行為である。

 文章は、文を繋ぐことから、生まれる、この時、時系列に従って繋ぐのが、普通である。論理的に「繋ぐ」とは、前の文が、後の文の前提になっている、場合である、通常、「したがって」で、繋がれる関係である。因果関係で繋ぐとは、原因と結果の関係で繋ぐことである。刑法学では、この因果関係について、因果過程の錯誤というのがあり、社会観念上相当な範囲内の因果過程は、錯誤にならないとされる。 作文は、「したがって」で繋ぐのが、いい。この「したがって」の流れを、断ち切るのが、「しかし」である。「しかし」の後に、自分の考えを書く。だから、「しかし」の多用は、避けなければならない。切々と「したがって」で繋いできて、最後に、「しかし」で、自分の考えを述べる。それまでの「したがって」の繋ぎが、論証の機能を果たす。 私たちは、本を読むとき、勉強するとき、繋ぎということをやる。少なくとも勉強に優れた者なら繋ぎこそが勉強の方法ということになる。

 法律学の体系書を読むとき、クロスレファレンスという技術を駆使する。これは、関連する語をいちいち参照しながら読む技術である。この技術で、立体的理解が可能になる。記憶の成否は、繋ぎの巧拙に規定される。秀才も多用する語呂合わせも、中身はないが、言葉と言葉をつなぐだけなら、記憶の糸としての意味はある。記憶は、通常意味の糸で紡ぐ。意味で繋ぐのである。 反復繰り返すことで、感覚的に「繋ぐ」ということもやる。 思考法が、繋ぎとして、はたらく、高度な繋ぎの技術がある。 具体的事実から、抽象的な体系、法則にまで、遡る思考の方法を、帰納的方法という。数学の証明法に、数学的帰納法というのがありますが、あれは、まず、n=1のときに成り立つことを確かめて、次に、n=kのときに成り立つと仮定して、n=k+1のときに、成り立つことを証明する、これで、すべてのnで成り立つ、とする方法です。具体的な事実から、一般的な命題へと遡るわけで、帰納的なわけです。 法学で、帰納的というときは、事実から、共通なものを上位概念として、抽象化していくもので、最終的には、シンプルな法則、体系へと抽象化される。 これに対して、演繹的というのは、まず抽象的な体系というものがあって、そこから具体的な事実を確定していくという方法である。これはすでに体系が確立しているときには、有効な方法となる。 よく理科で、現象を説明するときに、すでに確定した法則、原理などから、説明するのが、これにあたる。だから、理科の勉強では、演繹的に「繋ぐ」ことが、すなわち勉強である。社会でも、例えば、元禄時代の定義を覚えたら、この定義から、演繹的に、個々の事実を評価する、推測して、判断する、ということが、勉強となる。だから理社の勉強をただの暗記と考えるのは、誤解も甚だしい。まず定義を覚える。これには、反復繰り返し法が、有効である。 定義を正確に言えるようになったら、個々の知識について、定義から、演繹的に、説明する。これが、演繹法における「繋ぎ」にほかならない。 こうして、科目の勉強というのが、演繹法における推論過程を繋ぎにしていることが明らかになる。 国語の読解は、論説文の構造が、演繹と帰納から成ることがわかっていれば、そういう目で読むことで、飛躍的に、読解力が身につく。 筆者の主張は、抽象的な言辞に収斂される。通常は、そのようなものものとして、定義化された、抽象的言葉で語られる。筆者は、そこから演繹的に、具体的な事実へと、言い換えることによって、自分の抽象的言葉を説明することを試みるであろう。具体的な事実は、事実から共通したところを取り出し、これを抽象化というのだが、抽象的な言葉で言い換えていく。もう気がつかれたことと思いますが、帰納的に、事実から抽象に遡ることで、自説を定義化しているわけです。 国語の問いは、以上の構造を、前提にして、抽象的な言葉についての問いは、具体的に言い換えた言葉を答えとし、具体的な言葉についての問いは、抽象的に言い換えた言葉を答えとする、ように作られている。 国語の問題を解くときは、このことを踏まえて、言い換えた言葉を探すことが、その方法になる。

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