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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川、両国、白鷗など/都立戸山、都立青山標準合格塾/早稲田進学会の模試の怠慢/その他

2019.07.02

令和元年七月二日 火 梅雨 雨がち

◎早稲田進学会の模試の末期

 竹の会が早稲田進学会の模試に参加したのは、平成22年からであった。当時小石川志望の子がここの模試のお世話になった。直前1月の小石川模試には、受検者が480人以上はいたと記憶している。竹の会の子はその中で5番だった。22年から25年あたりが最盛期だったのかもしれない。ここ最近は、受検者が200人に遠く及ばない。模試というのは、受験人数が多ければ多いほど信頼にたる資料を提供してくれる。その早稲田の模試であるが、今年の受検者から、去年とほとんど同じ問題だった、という報告を受けている。特に、適性Ⅲにいたっては、去年の同時期に出された問題と全く同じであったらしい。あれだけ高額の受検料をとっておきながら、新しい問題作りを怠り、これまでの問題を使い回して、商売するなどあってはならないことだ。これだと、早稲田進学会に通っている子たちは、当然そのことを知っていようから、過去の問題をやっていれば高得点をとることになる。去年の成績優良者の中にありえない高得点をとっていた者が散見されたが、そういうことなら納得できる。

 早稲田進学会の怠慢は早稲田進学会の模試の権威、信頼性を自ら毀す、自滅行為であり、今後ここの模試を受ける子がさらに激減することが予想される。竹の会としても、合格の目安を得るために、多くの受検生の中の客観的位置を知る必要は否定できず、信頼できる模試というものが「ない」中での、合否判断の道を探らざるを得ない。

令和元年七月

目次

第1章 「新 心の指導」 「心の指導」より転載

第2章  待つ

第3章  わからない、という前に、考えよう!

第4章  自分の中の思い込み、勘違い、先入観、バイアスを常に意識して、判断する、行動する!

第5章  課題の真の意味

第6章  選択したら変えない、頑固さが、成功の真理

第7章  見えない部分  未稿

第8種  競り合って抜けていく子、競り合いに弱い子

※※※※※

第1章 「新 心の指導」 「心の指導」より転載

   Q 指導とは、 教えるとは違うと日頃から言われていますが、どういう意味なのでしょか。竹の会の指導の方法は独特と聞きましたが、 具体的にどのような指導方法がとられているのでしょか。

A   単にわからないところを教えるだけならだれでもできます。 指導とは自ら参加する意思のある者に指針を与え導く技術であると思います。 一方通行では成り立たない関係ととらえるべきです。 主体的に参加する意思のない者には、 真の意味の指導は成り立ちえないと考えます。私は指導クリニックのド クターみたいなものです。 生徒は患者みたいなものです。 私には生徒一人一人のカルテがイメージされています。 私はあたかも病気を診察する医師のよ うに原因をあれこれ考えます。 そし てそれぞれの原因に即し て適切な処方を施すのです。 病気が治癒するのは患者が病気と正面から向かいあう強い意志が必要です。 もちろん病気には本来の自然治癒力というのがありますから、 全く同列に論じるつもりはありませんが。こうした私の考え方から、 竹の会では、 皆個々人が私から与えられた指示にしたがい勉強を進めていきます。 もちろん私のオリジナルの教材が使われます。 私は、 生徒が主体的に勉学に取り組む最高の「 場 」を心の中に作り上げていくのです。 私から与えられた指示を無心に実行する、 こういう風景を理想とし ています。

Q   現在、 巷では様々な塾の形態が宣伝されていますが、 先生の提唱されている「 主体性」の視点からは、ど のような問題点があると思われますか。

  まず、 家庭教師について問題点を指摘し ておきたいと思います。 家庭教師について、 致命的なのは、 家庭教師が生徒の「 主体的な 」問題解決能力をほぼ完全に消滅させてしまうという点です。 生徒はまず説明を聞く癖がほとんど習性になってしまうのです。 彼らは家庭教師が十のうち八、 九まで解いた問題の残り一、 二を解くことで自ら解いたと錯覚するのです。 これを何年か続けているとほとんど家庭教師の介護なしには問題を解決できない完全依存型の生徒ができあがってしまいます。

 次に、 最近はやりの個別指導型の塾について、 一言。 問題は「 勉強のしかた 」で能力の問題がクリアーできるとする点です。 すべては方法が悪いというわけです。 これは子の成績不振の原因が能力にあると考えたくない親たちにとってはまさにバラ色のの提言です。

 しかし、 勉強のしかたを「 教える 」という言葉には「 主体性 」という不可欠な学習の段階がないような気がします。 それに私は能力の問題は経験則上解決困難な問題と認識し ています。 最後に、 個別指導型の塾は入試期に矛盾が噴出するはずです。 授業についていけない子を個別的に教えるというのが看板ですが、 学校の授業そのものが入試レ ベルとかけ離れているのですからうまくいくはずがないのです。

 大手塾の問題性については、 紙面の関係で、 とくに中学入試に一般の「 大手病 」について一言触れておきます。「 大手だと安心できる 」。 これは私が何度となく耳にした言葉です。 大手の派手な合格実績の宣伝。 多くの人が「 私も 」と考えるのはごく普通の思考回路でしょう。 が、 合格実績そのものの疑義は置くとし て、 合格数の何十倍、何百倍もの不合格者の存在はなぜだか問題にはなりません。 大手で三年間やったが失敗したという人はおそらく夥しいい数に上るでしょう。 失敗は個人の資質の問題とし て片付けられ、 成功は大手のおかげとする不可解な思考、 自分だけは例外だという奇妙な論理等々、 私にはとうてい理解できないものばかりです。 安心できるはずの大手のカリキュラムが主体性を呑み込んでしまうのです。

Q   勉強ができるようになるトラの巻があったら教えてください。

A   松下幸之介はこう言っています。「 どんなに賢く生まれついたと言っても、 熱心さがなかったら、 その賢さが賢さとし て、 自他ともの恵みにはならない。 賢いと言い愚かと言っても、 人間におけるそのちがいは、 神の眼から見ればたかが知れている。 」「 寝てもさめても一事に没頭するほど の熱心さから、 思いもかけぬよき知恵が授かる 」と。 また、 大道芸でも有名な数学者、 ピーター・フランクル氏は、「 僕は問題がなかなか解けないとき、この引き出し( ベッドの下にあるたんすみたいな引き出し )の中に入って、 暗やみの中で一生懸命に問題を考えた。 解けるまでは、 そこから出ないと決心していた 」と述懐し ています。 勉強ができるようになるトラの巻は勉強に「 夢中になること 」だと思います。

Q   いわゆる「 やる気 」のない子にど う対処したらいいのでしょうか。

A   やる気というのは「 自覚 」という人間独特の性質に基づくものです。 自覚というのは、自分自身を客観的に見つめる力のことだといっていいと思います。 人間には自由意志があります。 この自由意志はほかのあらゆる影響に縛られること無く自覚に基づいて行動する能力のことですから、 自覚こそが主体性を制御し ているのです。したがって、 この自覚にいかにはたらきかけるかが、 重要です。 責任感のある躾けのいき届いた子供に育てたければ、 親は毎日子供たちと接するとき、 その目的を明確に意識し ていなければなりません。

 決し て子供の自制心を弱め、 自尊心を害し てしまうような行動をとってはならない。 子供に自分は責任のある人間だということを悟らせなければなりません。 そのためには、「 約束をし、 それを守ること 」を生活の中心に置くべきです。 自分自身や人に対し てする約束とそれに対する誠実さこそが、 主体性の本質です。 主体性こそが人間成長の基礎です。 私が指導において主体性を尊重する根拠がここにあります。 親が子供にきちんと責任をとらせることは、 逆にその子供の主体性を肯定し ているのだということがお分りでしょうか。よく、 親が子供をかばうのは( 責任を他人に転嫁するのも同じ )子供の責任を否定するものであり、 実は子供の主体性の芽を摘み取っているのだということを自覚し てほしいのです。 子供が自分からは何もしないでだれかが問題を解決し てくれるのを待っているような日常があるとすれば生活の中心を主体性ある( 裏から言えば責任をとる )生活に転換しなければなりません。 なお、 主体性については「 目的を持った生活習慣 」の形成という重要なファクターがあります。 これについてはまた別の機会に詳論します。

Q   反抗期にある、 特に受験期の子供が勉強を怠けがちな場合、 親とし てど のような対応をとればいいのでしょうか。

A   もちろん反抗期そのものは自我の確立の過程とし てなくてはならないものです。 問題は主体性が育たないままに自我を主張した場合に生じます。 主体性とは責任をとるということと表裏ですから主体性の欠如したままの反抗は結局は責任をとることを知らない我の主張にほかなりません。 過保護がもたらしたものの一つに「 何にでも楽をして済まそう 」という心的傾向があります。 真の感動を知らずに、 コッコツと努力することを嫌うのです。過保護は子供の他者依存性を助長し、 自分自身で考える能力を弱め、 子供の独自性および独創性を減じていきます。 過保護は、 子供を支配したいという親の欲望に根ざ すものといえますが、 過保護が子供の主体性の否定にほかならないということは明確に認識する必要があります。

 「 怠惰 」の本質は「 当然の苦しみ 」を逃れたいという欲求にあります。 責任をとりたくない、 あるいはとりたがらない、 だれかに代わってもらいたい、 という苦痛からの逃避です。 主体性が育たないままに思春期をむかえた子供たちは責任をとることを知らず、 自分がうまくいかないのは、 状況や環境あるいは条件づけのせいにしがちです。 主体性のない子供は周りの物的環境によって大きく反応しがちです。 このような反応的な生き方は、 自分の能力とかけはなれた他者の評価に敏感に反応します。 反応的な子供の自尊心は高く、親の「 怠けないで勉強しなさい 」という言葉が深く彼らのプライ   を傷つけるのです。

以上、 私の拙い文章から親とし てのとる べき道を探し てください。

※学校の進度って何?  学校の進度に合わせた塾の悲劇

 中学入試を経験したことのない母親の多くが「 学校の授業に合わせてやってくれるのか 」という。 学校の補習だととにかく安心できるらし い。 が、 学校の進度に合わせてやっても らえてニコニコし ていられるのはせいぜい中 2までだろう。 これを中 3まで続けるとど う  なるか。 入試を無視して教科書レ ベルで通せば内申は別論とし ても実力はゼロである。 せ いぜい通用するのは都立英語ぐ らいか。 学校レ ベルと入試のそれとは違いすぎる。 入試に 対応するには遅くとも中2の秋から手を打つ必要がある。 高校入試は避けては通れない(  中学入試は必須ではない。 だから、 学校の進度でも問題は深刻化しない )。 中3の2学期 になると学校でも入試レ ベルを意識した問題を出さざるをえない。 すると途端に成績が落 ちる。 当然だ。 入試直前に偏差値55レ ベルの入試問題に手も足もでないという現実を知 っているのか。 私は世の母親たちに言いたい。 学校の進度でやってくれる塾が安心だなど とはとんでもない誤解だということを。 中3の入試直前に悲惨な現実に直面したとき初め  てその誤りに気がつくのだ。 私は、 教科書を軽視しろといっているのではない。 基礎レ ベ ルの知識はきちんとやるべきだ。 問題は学校の進度に合わせていてはとても間に合わない ということなのだ。中3の最終内申にし ても入試レ ベルまでやって初めて納得のいく点が とれるのである。 実際にも本年度のデータがこれを証明し ている。

注釈 中2の秋では遅いですね。当時のわたしがかなり遠慮して書いているようすがわかります。

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第2章 待つ

 人間には、自分の力ではどうにもならないことがある。天の配剤に待つほかない、そういうことばかりかもしれない。人間が、コントロールできる範囲なんて知れている。人間は、機械を発明し、機械に代わりをさせることで、範囲を広げてきた。人間の代わりをさせることで、人間は時間を手にしたし、機械は、人間にはとてもできないことをやってくれた。そして確かに、これまで不可能と思っていたことが、可能になった。人間は、可能な範囲を広げてきた。科学の 進歩は、まさに日進月歩で、昨日できなかったことが明日にはできるようになる、ということも珍しくはない。
待てば海路の日和あり。果報は寝て待て。これに対して、先んずれば人を制す。しかし、急いては事を仕損じる。急がば回れ。しかし、先手必勝。これに対しては、後先の先。剣の極意とされる。先に手は出さない、敵の先手に、後を取りながら、先手を打つ。機先を制す。ボクシングでいうカウンターのことか。獅子は傷の癒えるまで洞窟で体を横たえて待つ、という、獅子奮迅の活躍をしたのなら仕方ない。傷ついた狼は洞穴に潜み飲まず食わずで、ひたすら傷の癒えるのを待つという。待つというのは、運命にしたがう、すべてを天の判断に委ねること、己の非力を悟り、天に全て任せること。だから、待つというのは、自分の支配でコントロールできるときを、想定していない。
人事を尽くして天命を待つ、これこそ、待つの本懐である。

第3章 わからない、という前に、考えよう!
 「わからない」という子を診るのは、体の不調を訴える患者に似ている。原因を探る。もともとのDNAが原因なら、打つ手はない。患者を診る、観察する、ひたすら観察する、冷静に心静かに、時には冷酷に、断を下す。助けたいという親の情は痛いほどわかる。が、DNAなら、わたしの手には負えない。
「わからない」の診察、治療、処方をもうどれだけやってきただろうか。塾を始めたちとき、まず、最初に、この問題に直面する。最初は、どんな子でも、教えれば、なんとかなると、楽観するものである。が、世の中には、わたしの想定を遥かに越えた知能の子がいる。定義を理解し、定義から考えを進めるということができない子がいるのである。操作を見様見真似で覚えるしかない子というものがいるのである。仕組みとか、原理とか、そういうものが、全く受けつけられないという子がいる。まず、この現実から目を逸らすことはできない。塾が、できることの範囲は、限られているのである。それでも親というのは、自分の子が酷いとは認めたくないものである。教え方によってなんとかなると考えたいのが、親である。
 しかし、なんとかならないのが、少なくともわたしの本音である。
 わたしは、これまで、どこまでの「わからない」という子たちを救えるのか、その限界のところで鬩ぎ合い、時には失望し、落胆し、また時には、喜びを勝ち得たりもしてきた。子どもたちの「わからない」症候群に、DNA的なものに怯えながら、なんとか「わかる」という術の開発を研究してきた。
「わからない」の段階は、それこそ千差万別、患者に必要な治療が何か、その度に考える。処方とは、その患者に必要とされる、レジュメの創作に他ならない。

第4章  自分の中の思い込み、勘違い、先入観、バイアスを常に意識して、判断する、行動する!

 日常生活は、選択、判断、行動の系列、多分時系列を歩む過程にほかならない。時系列だから、後戻りはできない。私たちは、樹形図のような迷路を分岐点に立つ度に選択し、判断し、行動しているのではないか、人間というのは、判断に際して、バイアスから逃れられない本質を持つのではないか、と思う。価値観、世界観などというものも結局は、バイアスにほかならない。突き詰めればそうなる。私たちは、バイアスから逃れられない。私たちは、自分の傾向が、よしとする、情報を、無意識のうちに選別し受け入れる、最初からバイアスがかかったのが、人間なのである。だから、重要なのは、自分のバイアスを分析し、常に、検証することである。強いバイアスを分析することは実は不可能に近いかもしれない。それでも自分の判断が、バイアスにかかっているのではないか、と疑うことは、軌道修正する機会となるかもしれない。
私たちは、バイアスから逃れられない。バイアスが、間違った判断を導き、取り返しのつかない結果となるかもしれないのである。だから、バイアスを自分の世界観などと開き直って精神を安定させることもできない。もともとバイアスも、精神を安定させるために、生存本能から、生まれたものである。人間というのは、常に、精神を安定させる、方に流れて、落ち着く。それが、生存には都合がいいからだ。複雑なことは、考えない、簡単に考える方が、ストレスがない、からだ。バイアスというのも、そういう方向性に即して生起する。私論だが、結局バイアスというのは、人格、性格の輪郭線なのかと思う。偏屈な人間は、偏狭なバイアスに支配され、自尊心の過剰な人間は、自分を制御できない故の、歪みに支配される。劣等感を持った人間は、アンバランスな見方しかできない。嫉妬や妬みは、バイアスの源泉であり、悪意のある人間は、自らのバイアスを悟ることはない。会社は、利益本位のバイアスがかかっているし、政治家は、利権と選挙が、バイアスの源泉となる。昨今は、医師、弁護士などが、利益バイアスに感染していることは、周知である。こうなってくると、人間というのは、バイアスから逃れられない、救い難い存在なのではないか、
 人道的とか、民主的とか、価値あるとされたイデオロギーさえも、真実を、歪めるバイアスとしてはたらく危険性があるのである。
 この深い闇については、さらに思索を重ねなければならない。

第5章  課題の真の意味
 あなたたちの誤解、理解の水準を知ること、というか、あなたたちの脳の状態を、間断なく、把握する、そういう、つまり検査機能といったものがあると思います。課題の出し方、課題に対する真面目度、几帳面さ、書き殴り、乱雑な字、そういうものから、その子の勉強に対する姿勢、家庭学習の姿勢、親の姿勢も、読み取れます。
 親御さんの立場からすれば、課題は、子どもに勉強の姿勢を確立する、いい機会であることもあろうかと思いますが、何よりも課題を果たすことによる、達成感、そこから生ずる責任感、勉強習慣、そして教養人へ一歩近づく、一歩でも近づける、そういう思いがあるのかと思いますが、課題が、このように使命を発揮するのは、なかなか厳しいものがあります。
 余程子どもの精神が、大人でないと、課題をきちんとやるのは難しいことなのかな、と思います。
 母親が、管理してない、しきれてない、という場合、課題は、いい加減になる、というか最終的に、やらなくなる、そういうことだ、と思います。
 子どもが、親に見ていてほしいという幼さがある限りはそうです。逆に、親に見て欲しくない、という子どもの都合、つまりそれだけずるい、大人になったということなのだろうと思いますが、素直に大人の言うことに従わなくなる、これなどは、反抗期ということで、一過性のはしかみたいなものと考えるとしても、素直さが、受験というか、試験には、実は決定的なファクターとなるとすると、反抗期は、受験には、深刻な阻害要因として、はたらくことになる。反抗期にある、つまりただ抑えつけるということに反射的に反発するという子の不利益は傍目にも「損をしている」とわかるほどにマイナスな、厄介な病ではある。
 反抗期という波に翻弄されながらも、本人の中にある、正常性補整本能、それは生存本能から発する危険察知であり、「バカなことはするな」という補整がはたらいて、勉強へと向かわせる。 本人の中に、強力な生存への意志がある限り、そしてその意志は、知能の高い人間ほど強力と思われるのであるが、これが、自身を守ってくれる、ことになる。
 そもそも競争を否定する社会、世論の見識というのが、おかしいのである。そのことは、都立高校入試行政の長い歴史の変遷を見ればわかるであろう。手を加え過ぎて、結局都立に優秀な生徒は来なくなり、都立の凋落を招いた。馬鹿みたいに、学区制をなくして、都内ならどこでも受けられるようにした。かつては、学区外からの受験は絶対だめと怒った都庁の職員を思い出す。バカか。

 人間というのは、生存競争を宿命づけられて生まれるのである。受験競争というのは、生存競争の一つの表れに過ぎない。都立中高一貫をやめて公立に行くと言っても、競争から逃げることはできない。逃げるのは、生存からの脱落となること、それはいずれわかる。いつわかる?  高校受験に失敗すれば、大学もない。二流大は全入だろうが、生存は厳しい。高校受験だって全入です。私立は少子化で、日大系列でも定員集めるのに苦労している。とにかく推薦で定員確保に躍起だ。どんなに遊んだって、高校は入れる。だから高校入試の失敗とは、わたしの考える失敗とは、生存競争から脱落する、実質的に、しかし、相対的なものであるが、生存のレベルが、三角形の底辺層に属する選択となる場合を考えている。
 人は生まれた瞬間から、生存競争を宿命づけられている。親の保護、社会の建前、人権論者、教育論者、政治家、みんな口当たりのいいこと、喉越しのいいこと、ばかり言う。教育的見地、人道的見地、そんなのは、嘘っぱちだ。人類は、みな平等に生き残るのではない。生存をかけた戦いを忘れてはならない。わけのわからん建前の価値で、本質を見失ってはならない。食うか食わずの未開発の国の子どもは、生存の意味が身をもってわかっている。受検が食うことにつながるなら、絶対必死で勉強するだろう。日本の恵まれた、食うに困らない子どもたちが、難局から逃げる。受検させてもらえる境遇なのに、受検なんかしたくない、なんて言葉は出てこないだろう。親の庇護が、当たり前と思い込むのは、幸せなことだが、生存を忘れて、庇護者に反抗する、反抗期などという贅沢を抜かして、当たり前の生活と錯覚して、あたかも当然のように、まるで「生きてやっている」みたいな態度をとる、勘違いした子が多過ぎる。
 親は子どもの将来の独り立ちを考えて、生存を助けているだけである。それは無償の愛である。お節介だとか、余計なこととか、言うのは、生存の厳しさを知らないからだ。親はまさに生存競争の真っ只中にいて、子どもを嵐から守っているのだ。親が守ってくれてるから、無風で何もない、平和で、なんでもない世の中に見えるのだ。もし親がいなければたちまち社会の寒風の中に放り込まれることは明らかだ。親は生存競争をオブラートに包んではならない。子どもには、生存の厳しさを教育するべきである。受検は、子どもに生存の厳しさを教える、いい機会である。私は、子ども時代、学歴のないことを悔しがる父親の姿を見て育った。どんなに努力しても、学歴のある人間が、いきなり課長とか、部長になる姿を見て、父はいつも悔しがった。父は旧JR、つまり国鉄に16歳で、就職した。小卒である。その父は、大卒が、昇進する姿を見ながら、コツコツ努力して、最後は、連区長格の大きな駅の駅長となり、勲章までもらって、悠々自適の余生を送ることができた。私は、父のそういう生き様から、人生というものを学んだ。人生が、生存競争であるということを骨身に染みるほど叩き込まれて来た。
子どもというのは、親の必死に生きる姿から、感じ取るのである。親はそういう影の部分を隠して、子どもを甘やかし、過保護にして、世の中の見えない子どもに育ててはならない。親は教えなければならない。人生は生死をかけた戦いであることを。

第6章 選択したら変えない、頑固さが、成功の真理
 最後まで「変えない」。選択とは、それだけの重みのある行為だということをまず認識していただきたい。一つのことを選択するということは、他の、もしかしたら重要なことを捨てたのかもしれない、いや捨てたのだ、ということをはっきりと自覚しなければならない。選択とは、捨てることでもある。時として人は選択を回避しようとする。逃避である。あるいは、逃避の一つの亜型と思われるが、選択しないで、両方を選択する道を選択する。それで選択する葛藤から逃れ、二つのものを手に入れる。が、単なる物ならいい、実はよくないのだが、世の中には、一つしか、選べない、ということもある。高級な壺なら二つ買うこともできよう。経済力があればそれでいい。しかし、結婚相手は一人しか選べない。英和辞書はどうか。二つ選ぶということは、使い慣れるという利益を犠牲にすることになる。将来の道を選ぶときは、どうか。就職か、進学か、という選択。これはもちろん二者択一である。就職の場合、A社か、B社か、の選択も二者択一である。
 こうして、選択、本来の意味の選択とは、前に進むことを前提として、究極の選択をする場合に限られる、ことになる。
 一見複数選べるように見える、場合がある。
 大学受験、難関国家試験などにおいて、一科目に複数の基本書を選ぶかどうかがまず問題になる。
 二者択一の時、選択の後の覆しは、これは絶対やってはならない。この点については、後で、詳論したい。
 世の中には、二者択一に近いものがある。それは、結局、使うのは、一つという場合である。二つは選べる。だから二つを手に入れてもいい。しかし、使うのは、一つということが、世の中にはたくさんある。
 二者択一ではないが、一つの選択はしたのだが、その一つが、使えなくなったときのために、予め予備を用意しておくというのは、よくやることである。中には、大量に予備をストックしておくという人もいる。物には、寿命があるから、物ならそういう対応も選べる。もちろんその一つにこだわらない人なら、使えなければ次の何かを選ぶに違いない。
 ただこれは消耗品の場合に限る。
 さて、前振りが、長くなりましたが、 人生には、後戻りできない選択というものがある。そして選択には、失敗のリスクが、常につき纏うということも確かなことであるのは、結婚、離婚の例を挙げるまでもない。当面は、子どもの進路の選択ということがある。選択は、時間の経過によってその成否が検証されることにる。ただ本人が失敗したと思っていても、実は、失敗ではない、ということがある。本人が過信していると、過信した自己能力かは、失敗と感じるが、他から見れば、実力の結果ということもある。また、失敗したというのが、実は、失敗ではなかったということもある。だから、そう単純ではない。

第7章 見えない部分 執筆中

 問題とは、見えない部分を想定し、その見えない部分を定義と原理から推測して、知る、という作りになっている。

第8章  競り合って抜けていく子、競り合いに弱い子
 落ちこぼれる、毀れる、潰れる、こういう子を大手に入れてはいけない。大手の横並び、授業形式では、DNAの優れた者が、勝ち残っていくに決まっている。一を聞いて十を知る、理解の速い、理解の深い、そういう子が、抜きん出てくるのは、わからきっていることではないか。大手の授業についていけない、そういう子が、ついていくために、家庭教師をつけたり、大手のための補習塾に通ったりすること自体がおかしいと思わない親や子の感覚が、すでに鈍磨し、麻痺しているのである。
 大手の怖いところは、かなり知能の高い子でも、この競り合いに、潰される可能性が、あるということだ。内気な性格、共感性に乏しい子というのは、この危険性が高い。
 竹の会で、中学3年間指導して、早稲田実業学校に合格した鈴木君は、中学でもトップクラスの成績であったが、彼は、受験失敗組であった。慶應志望であった。日能研に小4から通い、日能研では、3クラスの中のクラスの中の席順であった。ご存知のように日能研では能力別クラス編成を徹底させて、成績順に席が決まる。彼は共感性にも優れて、知能もかなり高かった。そのような子がなぜ日能研で芽が出なかったのか、未だに不思議なことである。竹の会の指導の緩慢とした流れ、それでいて受験には、滅法強い竹の会の水が余程合っていたに違いない。そういえば、大手四谷大塚に子を通わせていた母親が、竹の会の子どもたちの勉強振りを見て、「受験生ではないみたい」と揶揄したことがあったが、そう言われた子たちが、平成10年2月には、華々しく合格した。早稲田実業高校普通、商業、立教新座、日大二高、都立駒場など、それぞれに志望通りに合格していった。世の母親たちには権威病が蔓延し、教室に漂う緊張感、子どもたちの真剣に取り組む姿、講師の熱血授業、そういうものをあたりまえにあるべき姿として、竹の会の笑い、楽しそうな子どもたちの姿を見て、皮肉を言ったもの、なのであろうが、竹の会の凄さは外面だけからはわかるべくもない。

 わたしは、子どもたちの心に仕掛けている、のだと思う。自分で考える、基本スタンスは、常に、そこにあった。そこから必然的に生まれてきた、レジュメ指導。これには様々な利点があった。問題レジュメと解説レジュメに分けた。後者は、わかりやすさをポリシーとして、そこから必然、シンプル、簡単というポリシーが生まれてくる。さらには、図解という伝家の宝刀が切れ味鋭く、難所を捌いていった。色彩豊かな図は、百聞は一見に如かず、を見事に実現した。
 わたしのレジュメは、百の講義に優る。それは、自ら考えるという精神を壊さない、至上の策であった。
 わたしは、自由自在に、レジュメの中に、仕掛けを組み込むことができたのだ。竹の会の子どもたちが、楽しそうに見えるのは、「わかる」からなのだ。ゆとりがあるように見えたのは、「わかる」という精神的な余裕がもたらした、人間の自然な姿であった。
 わたしは、子どもたちに、覚悟を持ってもらいたかった。習い事、稽古事、スポーツに時間を費やすのは、それだけの覚悟を持って欲しいと思っただけだ。課題をやらないのなら、そのもたらす影響について、覚悟して欲しいということだ。そうしたことが、原因で落ちても、それは覚悟の上だ、と肝を据えて欲しい、のである。落ちて、なぜ泣く、なぜ悔む、覚悟もないのに、習い事などに現を抜かすな、わたしは、そこを言っているだけでおる。
 そういうことを是認してきた親たち、いやむしろ積極的に進めてきた親たちには、さらに言いたい。自分の子どもが、習い事などをやりながらでも、受かると踏んだ見通しの根拠はなんですか、と。倍率8倍、それでも習い事は普通にやる、つまり受検に集中しなくても受かる、と踏んだ根拠は何なんですか、と。実家帰省、家族旅行、様々なイベント、そういうものを普通に楽しんで、それでも受かるとする根拠は何ですか、と。

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