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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川、桜修館、九段にロック/遅ければ受からない、解けなければ受からない、それが受検のあたりまえ/世の中に特別意識が蔓延する

2018.09.22

 お早うございます。季節の変わり目なのでありましょうか、ぐずついた長雨の後に予想されるのは急に気温が下がること、秋は一気に深まり初冬もすぐ、今年は7月の酷暑の反動なのか、寒気の季節に突入するのが早まる気配です。子どもたちが何かと体調を崩し、発熱することも多くなります。

 台風24号が発生したようですが、列島の気温が下がれば、よもや列島を直撃することはあるまいと、思うのですが、気象庁などは慎重です。10月は「秋」を感じ、11月は秋深まる、紅葉は今年は早いと云われていますが、さてどうなりましょうか。季節を体感し、しみじみと物思いに耽る、しかし、いつまでも感傷に浸ることも許されない、これからの時期の指導が受検の成否を左右する、わたしの指導の質が問われる、そういう意味では厳しい季節に突入です。

 ◎竹の会にこだわることはない

 もう少し軽く考えていいのではないか。竹の会という塾でうまくいかないこともあるのは当然で、だったらさらりと退塾するがいい。子どもさんのようすから進捗の状況はおわかりのことかと思いますが、3か月ほど前には、ある小6に退塾勧告をしたけれど、親御さんが「もう少し続ける」と子どもにだけ云ったようで、わたしが問い糾さなければ何も云わない子から聞き出したわけで、スタッフから退塾通知をして一件落着したばかり。わたしもそろそろ潮時かな、と思うことはあります。そういうときにまず子どもにそれとなく言う。「退塾したほうがいいのでは」と決して強制ではなく自由意志でそうしたらいいのではと勧める。が、これがなかなか功を奏さない。竹の会の中学生は、たいてい部活やスポーツを優先させたつけか、とにかく母親ないしは当人のやりたいようにやったつけか、塾本来の指導は皆無に近いままに、成績が正直に現状を説明して、退塾の運びとなる。竹の会の中学生が、3年間やりぬくのはなかなか困難なようです。小学生の場合、仮合格というのがありまして、仮に入会を認めて指導ができるか暫くようすを見て、無理なら退塾してもらう、こういう約束で入会を許可することも増えております。小3や小4早期だと緩やかな入会基準での入会を認めてもいます。早期入会の場合、仮合格でも、成功する場合が多いのですが、小5前後の入会では、逆に、うまくいかないことのほうが多い。退塾については、本人にそれとなく「退塾したほうがいいのでは」と話しますが、これで退塾の運びとなればお互いにストレスがなくていいのですが、退塾の運びとなるのはほとんど中学生で、小学生については、親御さんの意外な抵抗に遇い、当初の仮合格の際の趣旨はどこかに吹き飛んでしまい、「なんとかお願いできないか」と懇願され、わたしにはストレスを抱えての指導に苦悩することになるのが現実です。

当たり前を根拠にする 特別は根拠にならない、当たり前を極める

  都立中高一貫校と「あたりまえ」の視点のこと。 試験では、どんな試験でも、そう、かつての司法試験でも変わらない。あたりまえのことを勉強して、あたりまえのことを書いてくる。これはどんな試験でも同じである。ところが頭の悪い人は、このあたりまえのことが理解できない。そして頭のいい人はあたりまえのことをバカにして、特別のことばかりをやる。いずれも勉強というものに対する、畏敬、恐れ、それは半端なものではないという特別なものとして、彼岸に置く、高尚なものとして、あたりまえでは、通用しないものとして、常に、自分からかなり高くて遠いものとして距離を置く。ここに勉強との付き合い方の失敗の真因がある。 勉強というのは、そんな大層なものではない。 よく司法試験を受けるというので、難しい専門書を揃えて「やる」というのが、昔の指導者が推奨したものであったが、だから昔は、合格まで何年もかかるのが普通のことだった。権威主義的な、司法の世界が、司法試験を特別なものとして、啓蒙した結果、 難しい専門書を読んで理解に苦労しながらやるものということになった。 たまに若い人が合格する。専門書も読んでいない、大学受験と同じノリでやって受かる。真実は時折真実の姿を垣間見せていたのである。 まるで中世のギルド社会を思わせる、中世の腐敗した教会を思わせる、19世紀の天才数学者がロアを握り潰した梗塞した大学を思わせる。真実は、真理は、いつも実にシンプルで、単純なものである。あたりまえのことをあたりまえにやればいい、それだけなのに、世の中の権威をふりかざすバカが、話しをややこしくした、捻じ曲げた。 適性検査試験というと、特別なこととまた巷の塾が、特別に仕立てて、騒ぎ立てる。桜修館対策専門塾などというものがあるらしい。桜修館は特別だ、特別だから特別の方法がある、そういうことなのだろうが、本当にそうだろうか。わたしには眉唾にしか見えない。よく親たちが、作文が特殊だ、と知ったかするが、わたしから言わせれば、桜修館が、普通で、他の学校が、特別に見える。小石川などは、まず文章を読ませて、一番言いたいことは何かを問う、そして、それを前提に作文を書かせる。だから最初の問いを外せば、作文は死に体となり、終わる。桜修館は、題目の意味、定義、背景、由来さえ、押さえれば、後は体験を絡ませて好きに書ける。こんな楽な作文はない。あたりまえのことをあたりまえに書ける。何が特別なのかさっぱりわからない。何が、桜修館専門なのかさっぱりわからん。 それからよく大手が、小石川対策とか、両国対策とか、学校ごとに対策が違うかのような体で、商売やってますが、頭に血の上った母親や父親がまた見事に引っかかる。小石川も両国もない。そんな胡散臭い対策やる暇があるなら、もっとやるべきことがあるでしょ。

 それから小石川は、知能が高くなければ無理。これもあたりまえでしょ。かつて、わたしが、「小石川は無理だ」と言ったら、「小石川に受かる塾に行く」と言って退塾した親がいたが、小石川だけは、努力でどうにかなることはない。天才が努力して、受かるかどうかというところである。桜修館も似たようなところがある。知能が、わたしの考える水準になければ無理である。まず対策以前の問題がある。それなのに桜修館専門塾が、そうした本質的な問題にはまるで「ない」かの体で、対策で合格するようなことを云う。 桜修館対策とか、桜修館専門塾とか、そういうことで、問題が解決するわけではない。そもそも専門塾だから、バカでも受かるということにはならない。世の中で専門などと言う奴が一番信用ならない。まあ、世の親の皆様は、よく騙されて、金を出す、これだけは確かです。 お疲れ様。 わたしは、勉強のあたりまえを、このブログで説いてきました。スポーツに夢中で勉強を後に回す、それで両立させるなどと平気で言う親がいる。そういうのは、あたりまえではない。スポーツを勉強に優先させる、そこが特別です。わたしは、特別なことに価値を見る人間は、失敗する、 そう思っています。受験、受検すると決めたのなら、何を置いても勉強するのが、あたりまえのことです。習い事、稽古事、スポーツ、そういうものをやりながら、受検さる、それは特別なことです。受検は特別なことをやった人間から脱落していく。それから 問題を丁寧に読むのは、あたりまえのことです。 小数第2位を四捨五入と指示があるのに、平気で、四捨五入を無視するバカがいますが、不注意なことが、特別なのです。 夏休み、1日7時間以上勉強するのは、あたりまえです。やらないのが特別なのです。 さてです。あなたたちは、大手に行くのが、特別なこと、大手から特別の何かを得られると思っているのでしょう。特別意識があなたたちの行動基準です。特別なものを求めようとする。それは自分が特別だという意識、そして自分の特別を満たしてくれる、特別を与えてくれるのが、大手と考えてぶれることがない。かつて竹の会の入会試験に受かって、大手に行くという父親、母親がいたが、今は流石にそんな親は来ない。竹の会を舐めていた、見くびっていた。竹の会の国語のレジュメを見て、それは読解文でしたが、その母親は、「ふーん、こんなのもあるんだー」と、なんとも舐めきった言葉であった。もちろん大手に行ったのでしょう、竹の会に二度と連絡してくることはなかった。無名でしたし、とにかく舐められても仕方なかった。 特別意識、特別モード全開の母親、たいてい母親です、たまに父親。あたりまえが、通じない、特別を語り、特別で終始する。 あたりまえだから、勉強は 生活の一部になる。勉強するのは、あたりまえのこと。サッカーやるから勉強しない、バスケやるから勉強しない。それはサッカー、バスケがあたりまえで、勉強に時間を割くのは特別だと言っているに、等しい。習い事、稽古事に時間を使うのは、あたりまえと考えている。親も勉強を特別視している。人生を豊かに生きるのはあたりまえで勉強はさまざまな選択肢の一つ、ただ大切な一つ、しかし習い事、稽古事も大切、こういう人たちである。子が、習い事、稽古事が好きだから、一生懸命にやることで人間的に成長できたなどとしたり顔で言う。わたしには理解不能の特別の人種である。

🔵もったいないは本末転倒のリスクを背負う

 時間と労力をかけたからという思いが、本末転倒を招くこともある。ものを大切にするという考え方は、正当なものと思います。しかし、あるものを大切にすることが、別の、目には見えない何かを犠牲にしていることがある。そしてその犠牲は、本末転倒の結果の犠牲なのだという、話しである。 実際にあった話しである。休みを取って家族とヨットに乗る計画を立てた。もう何か月も前から計画を立てていろいろ準備してきた。費用もかかった。会社の休みも無理してとった。それでようやくその日がやってきた。しかし、生憎台風が近づいていて、海が荒れて、漁師も船を出さない。そういう中で、せっかくここまで準備してきたのに、という思い、今日しかないという思いがあったかどうかは知らないが、家族を乗せて沖に出た。あっという間に船は波にさらわれて転覆した。家族は死んでしまった。 別の話しもある。河原で四駆を乗り付けてテントを張って家族がキャンプしていた。市や消防が、台風の影響で川の増水の危険を呼びかける。再三呼びかける。しかし、聞く耳を持たない。やがて本当に増水し、テントも車も流されて、家族の命も奪われた。なぜ呼びかけにしたがわなかったのか。ここでも、せっかく休みを取って、費用を使ってここまで来たのだからという思いがあったのかどうか。 もったいない、という心のはたらきが、本末転倒をもたらす仕組みをわかっていただけたであろうか。人間というのは、手間暇かけたこと、そしてカネをかけたこと、そういうことを、もったいない、と判断を鈍らせる。 バイアスがかかる。バイアスがかかると、判断が鈍る、狂う。 そんなことはわかっている。もったいないなんてのは、完全なバイアスでしょ。 純粋に、比較衡量でしょ。それは、 裁判の世界では、これはもう実質 、結果の妥当性が先にあって、これはもちろん比較衡量をやっての話しだが、後から、理論的辻褄合わせをやっている。 ただ比較衡量というのは、知らず知らずのうちにバイアスがかかる。だから天秤の一方の皿には、バイアスという主観的重りがかかっているということもある。つまり比較衡量も完璧な方法ではない。だから、比較衡量の技術を磨く、 もったいないというような主観的なものを強力秤にかけないようにする。ただそうは言っても、時間の節約とか、コストの削減とか、労力の軽減とか、形而上的なものを秤にかけるのが、判断の常ではある。だから感情的なものを排除する。 人間だから感情の影響なしに、冷静に比較衡量するのは、難しいことはわかっている。裁判なんかでは、当事者と関係のある裁判官は予め外される。忌避申立もできる。 話しは脱線しました。もったないという近視眼的な価値は、鳥瞰的視点、視野を広げた見方、そういうものからは、一蹴されなければならない。危機管理というけれど、わたしたちは、バイアスに支配されて、正常性判断を誤る癖があるのである。

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