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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川、桜修館、九段の研究と対策/都立高入試のセオリー/11月というかけがえのない月/小3募集中

2018.11.10

 おはようございます。今日は久しぶりの好天にめぐまれ照り輝く眩しい太陽が青空を白く染めているかのようです。秋の縮れ雲か薄らと空に張り巡らされている光景は幼き頃に見た故郷の空を蘇らせます。竹の会の小6のみなさんが、11月という、最後に残された、大切な時間をどうか無為に過ごすことのないようにと願っております。秋から冬にかけての日の足は速く、日の短いこともあるのでしょうが、一日が短く、あっという間に11月も中旬へ突入してしまいました。わたしの今年の小6にかける思いは強く、疲れた体にむち打って休むことなく最新のレジュメを製作することで、細心の注意を払いながら来年の本番を警戒しております。今年の小6は、小4早期に竹の会に来た子たちが多く、そのことがわたしに一層の力をかけなければという思いにつながっているのかもしれません。

🔵小3を導くこと

 小3の全く、何もないところから、真っ白、空っぽの状態から、まずは、計算マスターにまで一気に仕上げるのが竹の会のやりかたです。計算マスターとは、小数の和と差、積、商を求めること、小数の割り算では、小数点という定義の理解、余りのある割り算の小数点のはたらき、などをマスターする。小数を分数に直すこと、四捨五入、切り上げ、切り捨て、概数、小数と分数の意味、帯分数、仮分数、分数の意味、繰り下がり、繰り上がり、最小公倍数、通分、約分、分数を小数にする、小数を分数にする、かっこの扱い、計算の順序、逆算など、計算マスターへの道は遠い。それでも2から3か月もすれば、中学受験の小6が解くような、複雑な四則混合演算をこなすようになる。早い子で1月でマスターする。この段階では時間のかかる子は見込み薄である。分数の計算がスーパーになったら、いよいよ割合の手ほどきである。今、定番として使われるのが、「割合ドリル」、それから割合概念を理解させるための、様々なレジュメが、試される。小4だと1年間は、これだけで過ごすことができる。だから思考は鍛えられる。いや1年はかかる。だから小4を終えたとき、まだ小5の1年間があるというのは、この遊びの期間があるというのが、効いてくるのである。小4から来た子には、小5は遊びの期間になる。車のハンドルにいう遊びと同義の遊びである。いいですか、これが5年入会だとどうなるか。4月に来たとして、たいていは小数の余りのある割り算からできない。分数はできても通分がやっととか、逆算まではとてもという子がほとんどなのが現実です。さて、それで計算マスターするのに3か月、それで7月になる、それから割合を始めて、夏休みまでにどこまで行けるか。小4の1年を竹の会で過ごした子なら、竹の会で、いわゆる割合5部作といわれる、「算数の魁」、「思考の鍵」、「小学思考の素割合問題編」、「新小学思考の素」、「小学思考の素その他の問題編」、を小4のうち終わらせ、さらに、「推理の素」、「1%下巻}さえも終わらせてしまう子もいる。いや中には、小4から来ても、小5ぎりぎりまでで、なんとか「推理の素」まで、という子もいる。しかし、小5前後(小4の2月〜)以降に来た子たちには、その余裕はない。「その他編」を終わりきれない子たちが続出する。小6になって、夏休みに、「その他編」をまだやっているというのは、確実に受検には間に合わない。敵前逃亡する子というのはそういう子の中から出る。何かと勉強を避ける行動ばかりとる、それが敵前逃亡の兆候である。要するに、勉強しなくなる。といってもそれまでも特に勉強してたわけではない。勉強の体を取っていただけなのであるが。
 小5で成功するのは、努力家であることは当然として、特に、向上心が高いこと、知能がそれなりに高いこと、が上げられる。よく竹の会に、小5の終わる頃に、「子どもが受検したいと言い出したので」という母親が、メールしてくるけれど、全く、能天気なものである。どこかの大手に行って、しっかりカネ取られて、結局地元の公立中に行くのがオチだが、こういうのに限って、小石川だ、桜修館だ、などと、平気で言う。無知ほど恐ろしいものはない。竹の会の経験からは到底理解し得ない。大手に行って「頑張れば合格する可能性もないわけではない」などと玉虫色の回答をもらって、「それなら」と喜んで、可能性はいつしか超主観的合格確実に拡大され、夢は広がり、いつしか現実から目は逸らされ、あらぬ方向ばかりを見つめることになる。目立ちたがり屋のバカ息子、憧ればかりのアホ娘に振り回されて、過保護で受検に無知な親の「もしかしたら」と合格するのかもと、なんとも便宜で都合のいい理屈、「大手だから」とまた期待をかけて、短期決戦だからと、かけられるだけの、大手の言われるがままのカネを出す気前のよさである。これで受かれば安いものと思ったかどうか。こういう親は、もちろん小4からカネかけたくないという本音ありありで、小5の終わりから、ひどいのになると小6から、動き始める。

 これと違うのは、小4から大手に入れる親。子どももそんなにバカではない、が、こういう家庭の子というのは、いろいろ気が多くて、いろいろと稽古事などやっている。子は熱心で、親も熱心、大手に通いながらも、稽古も熱心、バカなのは、勉強と稽古事を秤にかけて、適当に塩梅してること。こういう家庭、親が竹の会などに目を向けるわけもない。最初から竹の会を鼻にもかけてない。よく「竹の会は昔から知っていたけれど大手に行った」という親が小5になって懐疑心を秘めて、それでも竹の会を否定しきれなくてやってくる。そして入会して竹の会の凄さを思い知る。すぐに遅くに来たことを悔いる。親も子も悔いる。みなそうだった。「もっと早くきていれば」と一様に同じことを嘆く。私は、そんな光景を幾度見てきたことであろう。みんな竹の会を知ろうともしないで、頭から否定して、そういう人たちばかりだから、竹の会はいつも閑古鳥が鳴いていた。
 竹の会は、そんな大手で失敗した親子などには来て欲しくはない。最初から竹の会をという子に来て欲しい。だから小3、小4早期にこだわった。小5からの問い合わせは、スタッフに、お断りしてください、とお願いしてある。
 今年の小5には、小4の2月、3月入会の子たちがいて、閑古鳥が鳴いていたこともあって、仮合格者を複数入れてしまった。仮合格者ないし入会試験免除者について、予め6か月を目安に、指導継続の可否を判断し、退塾の判断も快く承諾していただくということを約束していただいて、入会を認めることとした。注意すべきは、入会試験免除者についても、含めていることである。入会試験の免除は、特に、小3早期に認められることのある、特例である。小3では、能力未開という事情がある。結局伸びない、芽が出ない、そのままダメというケースも多々あるけれど、後から能力開花というケースもよくあるからだ。仮合格者が、6か月経っても私の想定する域に達しなければ、退塾、いや指導できないということだ。わたしの能力の限界、いや本音は、子どもには本人にもどうにもできない、悲しいほどに本人には理解不能な問題である。そしてわたしには、何もしてやれない、それが現実なのだということはどうにもならない。だからそうするしかない。
 わたしは、知っている。どんなにできないという子でも、わたしの指導にかかれば、とにかく前へ進んでいくことを。しかし、わたしの想定する、つまり、受検を成功に導くそれではない。そうであるならば、わたしは、たとえ、私の指導で伸びるとしても、そういう子らの指導を受け入れることはできない。
 仮合格の子が伸びるかどうか、は、小4早期入会なら、80%以上、小4後期なら10%か。これは、学校で「できる」と親が安心している子、こういう子であっても、小5からでは、失速する蓋然性が高いということを意味している。 
 子どもの勉強へのスタンスがない、ということの意味について。これは、勉強というものに対して、曖昧な概念しか持たない、「遊び」の範疇にない、ただそれだけで、子どもたちからは敬遠の対象になる、ということである。子どもたちにとっては、楽しいこと、遊びが本質であり、勉強は楽しいことではない。むしろ苦行に属する。ただ昨今の勉強は必要なもの、大切なもの、遊びより上位にあるもの、という価値意識の浸透が子どもたちの意識にもかなりの影響を及ぼしている。だから勉強に価値を見出す子どもたちも出てくる。それでも家庭あってのことで、家庭の教育方針が子どもたちの意識を規定する。スポーツも大切と考える親の子が、勉強にスタンスをとれるか、もし持って生まれた才能があれば、自ら学問に目覚めることはあろうが、通常はない。習い事、稽古事に熱心な家庭の子が、勉強にも関心を向けるということがあるのは、やはり学校の優等生の場合だろう。しかし、これとても根本のコンセプトのところで、不徹底であり、学業で成功する可能性は低い。
 竹の会には、勉強のスタンスがない者が来るべきではない。家庭学習がほとんどないという子が、竹の会に来て欲しくない。小6で、失速した子、敵前逃亡した子というのは、勉強量が絶対的に足りない、というかやってない。家庭学習時間がゼロという日が結構ある子だろう。だから課題はやらない、やっても極端に遅れる、遅い。余りに遅いのは、やらないに等しい。様々な理由、事情を口実に勉強を先送りする、回避する行動をとる人たち、こういう人たちは、本質的に、楽をしたい、楽して暮らしたい、遊びに惹かれる本心というものがあり、その心の叫びに逆らわないように生きているのではないか。勉強の大切さを高らかに言行で示しながら、盆正月の実家帰省はどんなことがあっても最優先させる、発表会とその準備に費やす何日かも譲れない、時として、試験直前まで、稽古事を制限的にではあるが、続ける、このような勉強との接し方に、わたしは勉強へのスタンスというものを見ない。勉強へのスタンスとは、勉強と正面向いて向き合う、決して、遊びの本質のある、さまざまなことを持ち出して、勉強先送りをしたりしない、そういうところにしか、勉強へのスタンスは見て取れない。
 さてである、竹の会には、わたしのそのような基本理念から、勉強姿勢に疑義のあるお子さんには、それとなく退塾の道がある、ということをほのめかしているが、つまり、「退塾した方がいいのではないか」ということを子どもに直接言っているのだが、そのわたしの言葉が親御さんに伝わり、それでは退塾します、ということにはならない、のが、現実である。
 これには、またひとつの現実がある。ある親御さんは、「塾を探したけれど、竹の会のようないい塾がない、なんとか竹の会で見てもらえないか」と、また、ある母親は、「竹の会を知ってしまったら、もう他所の塾には行けない、子どももほかの塾は行きたくないと言っている」と、わたしを困らせる。そう、わたしは困っているわけです。仮合格から6か月経って、わたしの目からは、想定した進捗がない、しかし、親御さん、子どもには、出来るようになったという実感がある、その齟齬です。わたしは当初の約束通りもう指導を打ち切りたい、しかし、親御さんや子どもたちの予想外の抵抗にあうことになる。

竹の会の指導コンセプトについて
 まず数を知れ、数と馴染め。これは、小3から、ないし小4早期から、勉強の手ほどきをするときに根幹となる、指導コンセプトだ。哲学だ。まず子どもたちには、数という、抽象世界に誘うこと。ここで、数というものの、変幻自在な諸相を、一定の法則で捉えていくこと、そこから、数とのつきあい方を知っていくこと、数概念という、おそらく子どもたちにとっては、最初の抽象世界の中に思考という、子どもたちの中核的存在の、分身を放つこと、そういうイメージである。計算というのは、あるルールで成り立っている。そこを捉えて形式的という。数そのものは、抽象的存在である。頭の中で、繰り上がり、繰り下がり、約分、最小公倍数などの抽象的操作を繰り返す。思考というのは、抽象思考のことを言う。算数、数学の世界は、抽象思考の世界であり、事実の世界である。国語のような価値観の世界ではない。算数と国語を学ぶということは、事実と価値の違いを学ぶことであり、いずれも共通するのは、抽象世界における、自分の分身たる思考を巡らせることである。
 小3、小4早期の皆さんは、わたしのこのような方針から、入会したらそれはもう計算に明け暮れます。小数の計算、分数の計算、どんな難しい計算でも、速く正確に解けるまでやります。早い子で2か月、普通は3か月でそうなります。そしたら割合です。この抽象世界で、1年間は、あなたたちの思考、分身を生活させる。これがわたしの指導コンセプトです。わたしは、既にして、数の扱いをマスターした子たちを、抽象世界に放り込み、あなたたちの分身たる思考という、目に見えない、形もわからない、大きさもわからない、だから、わたしは、あの皺に刻まれた大脳のようなものを見ているのですが、小さな卵のような、まだ皺もない、だから物事を理解するほどの受容力もほとんどない、そういうものとして、あなたたちの思考の形を考えている。
わたしの作る課題は、あなたたちのそういう脳の状態を知っているから、あなたたちをなんとか抽象世界で生活できるようにしなければとの思いから作っているのです。
 竹の会に入るということは、勉強といものと正面から向き合うということなのです。家庭学習がないのなら来てはならないのです。わたしが、退塾した方がいい、と言うのは、そういう子に対してです。勉強に重心がないから騒ぐのです。おしゃべりをするのです。それは、わたしの以上に述べた思いから自然に出てくる言葉です。
 わたしが、親御さんに退塾の旨を申し出るのは、よほどの覚悟をしてのことです。当の子どもの心を気遣うとしても、塾の存在にかかわる危機感からは、譲れないという場合のみです。
仮合格から6か月経過という形式的要件に、もはや思考を伸ばすことは無理という判断が加われば、退塾はやむを得ないと思っています。入会試験免除者ももちろん同じです。また入会試験合格者でも、勉強へのスタンスがなければ退塾相当です。

◎物にこだわる奴は失敗する、手段にこだわる奴は失敗する
 弘法は筆を選ばず。しかし、テレビに出てくるプロの流儀とかなんとかいう、そして一流と紹介されている人は、道具、材料もこだわりがあり、一級品をそろえている。
 さて、わたしが、これから述べるのは、勉強に関しての手段についてである。塾選びも「選ばず」というわけにはいかない。弘法大師は、書に優れていたから、どんな筆を使っても書けたと いう話しかと思うが、しかし、実際に、名人、達人と言われる人たちは、例外なく、筆を「選んでいる」。
 さて、である。大学入試の例で言えば、受験に何を使うかということが一つの問題になる。参考書である。わたしのように、予備校にも行かず、とにかく独学で受験した者には、参考書がすべてであった。そうとして、今度は、一冊主義か、いいものはなんでもやるか、という問題がある。わたしは、前者の立場である。最近よくテレビに出る山口真由氏は、その著書で、わたしと同じようなことを述べている。わたしは一冊を7回まわすことを基本としてきた。実際には、20〜50回は回してきた。この一冊主義に立つというのは、なかなか難しい。一度一冊に絞っても、次から次に「さらに良さそうな参考書」に出会うからだ。その度に、乗り換えてたら、その度に最初からやることになる、これは、性格にむらのある人に多い、気まぐれな人に多い、一つのことにすぐ飽きる人に多い、失敗のパターンである。
 一度決めたら、後からどんなにいいものが出ても、最初のものをやり抜く、やり通す、これが大切なのである。
 勉強にむらのある子はだからだめなのである。気まぐれな子も、すぐに飽きやすい、一つのことに集中が続かないから、挫折する。
 問題集でもなんでも、むらのある子はダメである。つまみ食いする子もダメ。コツコツと途中投げ出さないでやる子でなければ大成しない。
 飽きるというのは、勉強には、大きな欠陥となる。むらのある子というのは、飽きっぽい性格ということである。勉強には天敵となる性格である。

 やり始めたら脇目も振らずやらなければとてもものにはできない。なのに、世の中の親は、サッカーなどと両立させるなど、と公言して、目一杯サッカーなどをやらせて、しかも受験も成功させる、ことを当然のように言う。わたしには、到底理解できない人種である。習い事、稽古事をやりながら、「受かる」というのも、わたしの中ではありえない。少しくらいは許されるという、親もいる。しかし、その甘い考えは、いつも木っ端微塵に打ち砕かれてきた。それでもそういう親は後を絶たない。
 さて、弘法は筆を選ばず、とは、いったん選んだら、という限定つきで、私は、真理と思う。ここには、もう一つの真理も隠されている。「迷い」である。「迷い」は、受験では、確実に、マイナスとなる。失敗に直結している。だから、迷わない勉強こそが受検では大切なのである。試験直前に方法で迷うなどはありえない。わたしは知っている。去年の12月、当時の小6の中には、腰の浮いた子らがいた。その原因は、来し方の勉強回避のつけが、払いきれないほどに溜まってしまったから。そういう子たちが、まだ時間のある頃に、稽古事、習い事に時間を費やし、暇があれば勉強ではなく、他のことに時間を使っていたことを忘れてはならない。一冊主義の精神がこの子達、いやその子たちの家庭には伝わらなかった。
 こうして竹の会の精神は、一冊主義であり、その一冊をひたすら繰り返すことである。この精神の実践こそが、迷いを寄せ付けず、勉強の先送り、回避という、自己破滅から身を守る手段に他ならない。

 

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