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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川、桜修館、九段を思い気を抜かない生活を/11月はあと11日、がんばれ/漢検結果/その他のお知らせ

2018.11.19

 おはようございます。今日はうっすらと雲のかかった狭間から薄日が差し込んでまいります。日の光も感じ取れるほどに明るい空模様です。だいぶ寒くなってきました。どうか体調管理には十分お「気」をつけください。

 今日は、2、3のお知らせです。

 ◯冬期指導申込は11月で終了

   11月中のお申込を期限としております。お申込のない場合、退塾の意向として処理します。お気を付けください。

  なお、竹の会特製カレンダーは、冬期申込の際に、お渡しするものです。

 ◯来年1月をもって、退塾とする場合について

 受検目的で入会されている場合で、仮合格者については、所定の指導計画に大幅に遅れているために受検指導が困難、ないし合格を期待できない場合の退塾を勧奨しております。竹の会の過去の例では、A合格者についても、竹の会所定の進捗がないために、不合格となった例が複数あります。もちろん所定の進捗を果たしても不合格となることがあるのは試験の常として当然でありますが、所定の進捗がない場合については、ほぼ99%合格することはないと思います。本年落ちた子たちを振り返ってみても、指導レジュメの第3ステップ「小学思考の素 割合問題編」を不十分に、つまりは不合格はんこで終わらせて、適性訓練に入った子たちは軒並み落ちました。また第5ステップの「小学思考の素 その他編」を結局終わらせられなかった小6たち3名中2名が落ちました。落ちた2人はA合格の子ですが、小5以降の入会です。受かった1名も小5以降入会ですが、「その他編」は完全には終わっていません。この辺の分岐点は、勉強に専念した程度如何にあったと見ています。習い事、稽古事などに現を抜かしていた子は落ちたということです。必死に勉強に食らいついた子が奇跡的に受かったということです。

 退塾該当対象者は、自分でわかっていることと思いますが、今後の勉強への姿勢、受検に対する情熱、進捗などを勘案して、冬期を終わったあとの1月の指導ぎりぎりまでに見極めたいと思っております。どうしても竹の会で勉強したいという子らの心を無下にはできないからです。ただし、竹の会が1月に下した退塾相当とする判断には熟慮の結果であり、どうか快く承諾くださることをお願いいたします。

 ◯漢検結果

  準2級 1名 渋谷区中3女

  5級  2名 荒川区小4男 杉並区小6女

  6級  6名 全員合格

  以上

  合格証等は26日着予定です。

🔵世の中は、甘いヤツが負けることになっている

 甘える子どもになんでも買い与える底なしのバカ親。幼児性だけ肥大化した子どもは、飽きっぽく、物珍しいものを見たらすぐに欲しがる。だいたいガキでなんでも欲しがる、つまり自制の効かないというのは、もはや親の手に負える限界を越えている。甘えの最大の罪は、他人依存という本質から規定されている。いやもう定義といってもいい。甘えの本質は、他人依存、それも完全依存であろう。自己というものがないから、自己抑制というものは最初からない。つまり、自制が効かないのである。子どもを甘やかすというのは、未来の破滅を選択することにほかならない。子どもには、自制心をまず躾なければならない。自制心が、自立心、つまり自分を律する、制御する心の芽を醸成する。
 中学生になって、自分を律せない。だから、部活に流される、ゲームに耽溺する、うるさい親に反抗する。反抗というのは、根に親、社会に対する甘えがある。「甘えられないから」反抗するのである。心の底には、「甘えたい」という本音がある。「甘え」というのは、いや正確には、自制心のない「甘え」というのは、言い換えれば、わがままということだが、とにかくブレーキの壊れた、いやもともとない自転車みたいなみのだ。こういう人間にはもはや教育の必要性を説いてみても虚しいばかりだ。わたしは、字をまともに書けない子らにも「甘え」を見る。制御するという心のはたらきが乏しいからである。歌舞伎役者の子は幼い時から厳しく芸事を仕込まれる。これなんかも、自己を律するということを訓練しているわけであるが、やはりそれ以外のところでは甘い、行き過ぎた過保護なのではないか。だから大人になっても甘さばかりが目につく。それを親が、周りが懸命に庇っている図なのではないか。御曹司の不祥事なら腐るほどある。
 私は「甘え」が、悪だと言っているのではない。それどころか「甘え」は、人間の本質的な、もしかしたら生存に関わる心のありようかもしれない、とさえ思っている。人間は、甘える、甘えられることで精神が安定し、成長していくものではないか。幼児は母親に甘えることで、自分の甘えを許してくれる母親に満ち足りた、安心感を覚えるのではないか。
 「甘え」が、許されないとき、人は、もはや甘えられない、と悟ったとき、人はひとつの転機をむかえる。
 人にカネを借りる、何かを頼む、当てにする、みな甘えである。甘えというのは、人間に本質的に備わった、心性なのではないか。甘えは、確実に人間が、情緒的に成長するのに、必須なものと言えるが、この甘えが、また人間にとって破滅に導く両刃の剣であること、これである。甘えたいだけ甘えさせてやれば、それが確実に破滅をもたらす。「甘えの構造」の土居健郎は、「とらわれる」に注目した分析で、何かに「とらわれる」心理を、「甘えたいけど甘えられない」という心境にあるために、不安が胚胎していることを鋭く指摘する。「甘えたいけど甘えられない」というのは、大人には、よくあるシチュエーションであるが、わたしは、あの高学歴のオームの信者たちを思い浮かべた。子どもたちが、ゲームに「とらわれる」のは、甘えたいけど甘えを許してくれない環境での不安を少しでも忘れようとする行動か。部活に「とらわれる」子どもは、勉強の不安というものを抱えて苦しむ子たちである。「とらわれる」というのは、民間療法であったり、新興宗教であったり、趣味であったり、迷信であったり、とにかく心に不安を抱えている人たちに突如として湧き起こる感情である。ある考えに「とらわれる」というのも根に不安がある。私たちは、生きている限りさまざまな不安の中にある。だから私たちは常に何かに「とらわれる」危険がある。危険の中にある。あるときたまたま出会った広告、テレビの中のだれか、家に来た勧誘の人、偶然見た物、そういうものに飛びつく。不安というのはいつか何かに飛びつきたい、頭から信じたい、そういう心理に追い込んでいく。
 さて、わたしは、子どもたちが、不安につつまれていることを知っている。そしてお父さん、お母さんが、必死に、守っている。わたしは、そういう不安を相手にしている。だから不安を直視して戦っている子どもが好きだ。不安から逃げる、回避しようと画策する、そういう子どもたちは、わたしの手に負えない。本番が近くなれば逃げる子は、不安に敏感であり、それなりに頭がいい。頭がいいだけに不安が読める。だから逃げる。自分が傷つく前に逃げる。自分の評価が下される前に逃げる。不思議なもので、頭が悪いほど、不安に鈍感だ。だから敵前逃亡もないことが多い。しかし、それでも不安と戦う子もいる。頭は悪くはない、しかし、特にいいわけではない、そういう子が戦う。強い意志力で戦うことがある。不安と戦う様を見るのは心地よい。不安から逃げる図は、甘えを露骨に見るほどに気分を害する。騒ぐ子は不安の正体を悟ることもなく、楽しいことをばかりを追い求める。欲しがる。習い事、稽古事、スポーツ、盆、正月、クリスマス、誕生日、法事、家族旅行、なんでも、不安から逃げる子には楽しみだ。苦しみを忘れさせてくれるすべてが楽しみだ。勉強するというのが、苦しみに分類される。不安の原因と同範疇にされてしまう。不安症候群の子たちには、つける薬はない。
 子どもたちに、勉強を苦しいものと仕分けさせること、その根は不安回避の癖、習慣を親の「ま、いいか」で、子の心に植えつけたことではないか。考えてみれば、習い事、稽古事に熱心な母親というのが、「ま、いいか」「悪いことではない」程度の気楽な判断であり、子が、幼児性の甘え、裏からいえば不安に包まれた心を保温していく機会を無意識に提供しているわけである。 
 幼児的甘えから、子どもを解き放つこと。まず、これが親の役目ではないか。それは「たちむかわせること」から始まる。逃げるみと、困難を避けること、厄介なことから逃げることを容認する包容は、子の不安回避に力を貸すことだけである。もし、習い事、稽古事、スポーツが、気を楽にするならば、たちまち勉強は、不安回避の対象として最たるものとなる。「気」というのは、根本的に、「快楽志向的」なものと土居健郎は言うが、習い事、稽古事には気は向くが、勉強に気が向かないのは、そのためである。
 幼児性からの、甘えからの脱却は、容易なことではない。それは親が甘やかしで、助長するからだ。ペットは、いくら甘くしても、甘えて人は満ち足りるのだからそれでいい。しかし、子はペットではない。いずれ親から離れて社会的独立をしていかなければ生きられない。子をペット扱いにする親が子を本物のペットにしてしまう。
 勉強というのは、立ち向かう精神が、甘えを抑える。すぐ解答を見る甘え、すぐ人に聞く甘え、勉強をするからとゲームを買ってくれと甘えるバカ息子、これはまるで勉強は親のためにやっていると言わんばかりだ。とかく「気」は、快楽的志向に流れる。気楽な方へと流れる。この「気」をコントロールするのは、簡単なことではない。「気楽に生きる」「気ままに生きる」「気落ちする」「気に乗ずる」、とまあ、「気」というのは、土居によれば、瞬間瞬間における精神の動きと定義されることになる。瞬間的な、刹那的な、心を捉えたもの、である。
さて、甘えから瞬間としての気が自由になるためには、どのように気を支配すればいいのか、
 「気がすまない」という心の状態がある。これは、土居によれば、「自分が決めたようにことが運ばないときに起きる感情」とされる。勉強しなければ「気がすまない」、わからなければ「気がすまない」。「気がすまない」というのは、「相手よりも自分の気を重んずる場合」と土居は説明する。こうして「気がすまない」人の性格は、幼児的な甘えを一応卒業している、と結論づけられよう。日本人は、「気」という形で精神活動を客観視した。そこに精神の主体性、自由を確保している。もちろんこれは土居の分析である。こうして「気がすまない」と感じるのは、ある程度の精神の動きを統一的に自覚できているということが言える。
ようやく一つの結論に到達できそうです。
 子どもが、自分で決めたことを終わらせる、この習慣づけです。そしてそれを終わらせられないことに「気がすまない」と感じる精神を培うことこそが、大切なのです。自立とは、「気がすまない」精神と言い換えてもいいでしょう。「気がすまない」人は、自分の精神の動きを統一的に理解している人です。この人は、自分の気として自覚することを満足させようとします。つまりある意味、精神病質である。自立とは、そういう本質のものである。これは私見です。気のすまない人が強迫的観念に追い詰められということもあるのである。しかして、「気がすまない」人、子に育てるのは、悩ましいことではあります。だからこそタフな精神を培わなければならない、ということです。

 

 

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