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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川中等、両国附属、白鷗附属の研究/都立戸山、都立青山の研究/小学生低学年脳が、原始脳の原型

2019.05.28

5月28日 火

 

◯小学生低学年脳が、原始脳の原型
 小学生高学年になっても、低学年脳のままの子も多い。
 低学年脳とは、未分化で幼い脳と言い換えてもいい。思考よりも、正確には、論理的な思考とか、合理性とか、比較とか、そういう複雑な思考というものはなく、感覚的反応、好き嫌い、短絡、二つのことを同時に考えることはできない、1つの刺激で1つの反応しかない、言葉は、幼児語、こういったスペックで特徴づけられる。
 こういう子たちの脳は、具体的な世界であり、抽象語はない。具体的な物しか存在しない世界に住んでいる。
 さて、小学生低学年、すなわち2年、3年というのは、概ねこのような脳の状態にあると考えられる。
 低学年脳の開発は、如何にして、このような具体脳を抽象脳に転換していくか、にある。それを可能にするのが、計算である。計算というのは、様々な約束、定義の上に成り立っている、極めて、抽象的な知的操作である。数そのものが、具体的な物、特定した物とは、遮断された、それ自身が、形を約束されて個別化された、抽象的な存在である。確かに、3なら3という数字はあるから、完全な抽象概念ではない。例えば、自転車と言えば、具体的に物としての自転車がある。だから具体的なのである。民主主義という概念は、対応する物のはない。抽象概念とは、対応する具体的な物がない。だから数は完全な意味での抽象概念ではない、が、抽象概念に近い。特に、様々な数の約束は、まさに抽象世界である。ただ繰り上がりといい、通分といい、数の約束は、数が具体的に変化するから、具体的性質も兼ねている。だから低学年脳の抽象化訓練には、最適なのである。
 こうして、わたしたちは、まず、数の、計算の約束、定義といった抽象的なもので、脳を耕す、柔らかくする。そうなのである。計算を習得する過程というのは、指導如何によれば、如何にも、抽象脳を作るには、これ以上ない方法なのである。考えてもみて欲しい。複雑な四則混合演算をマスターするまでに、どれだけたくさんの多様な約束、定義を脳で咀嚼していかなければならないか。最小公倍数、通分、帯分数、真分数、仮分数、繰り下がり、計算の順序、約分、逆数、分数で割る、かける、カッコの意味、小数⇄分数。
 逆算は、抽象脳への進化を測るバロメーターである。一通り計算の約束をこなせるようになって、計算の最後の締めくくりが逆算である。これまでの計算の順序は、通用しない。計算の中の数字が、1つ抜けているのだ。虫食いである。子どもたちの脳は、パニックを起こす。これまでの計算の順序は使えない。さて、どうしたものか。
※逆算の考え方
 ある計算式を計算した結果はわかっている。ところが、この計算式の中の数字が1つ、わからなくなってしまった。その数字は何という数か?
 基本的な考え方は、単純である。答えの数と式の最後に計算する予定の数から、その前段階(最後の数を計算する前の計算段階)の計算結果を逆算する。
 一度の逆算で、不明の数が分からなければ、わかるまで逆算する。
具体例
(🔲+2)÷2=5
答えの数…5
式の最後に計算する予定の数…2
最後の数を計算する前の計算段階…(🔲+2)

🔲+2 を計算した結果出てくる数を予測する…その数を、ある数、とする
ある数÷2=5
ある数=5×2=10

これで、🔲+2=10とわかる。
🔲=10−2=8

逆算をマスターしたら、いよいよ割合です。
低学年脳には、いよいよ抽象の第2ステージです。
小学生のほとんどが、ここで躓く。
 私の経験では、学校の優等生、つまり、通知表の「よくできる」が、8割以上ある子でも、割合をよく理解できていない、ということがわかっている。このレベルにある子たちは、指導の仕方さえ間違っていなければ、確実に伸びていく子たちであり、適切な指導がなされないことのマイナスは大きい。こういった子たちが、大手進学塾で落ちこぼれるのは、内申制度が必ずしも知能に比例して評価していないことを教えている。さらには、進学塾よりもレベルが落ちるとされる公立中高一貫校型の大手塾でも、伸び悩む子が出るのは、内申制度が、かなり恣意的なことを窺わせる。大手進学塾でも、開成や筑駒などに受かる子というのは、さらに別格の、天才脳の持ち主である。DNA、つまり遺伝子的にもともと恵まれた子なら、進学塾でも公立中高一貫校塾でも、できる。大手に行ったから失敗したという話しにはならない。こういう子らが大手で成功したからといって、大手はすごいということにもならない。
 やり方が、よかったから受かった、と考えるのではなく、DNAが、違ってた、ということである。そういうことは、スルーして、大手で受かったと、大手側は言い、親側は、それを信じる。
あの子ども3人を東大医学部に受からせたという母親が、マスコミに乗せられて、テレビに出たり、本まで出した、という話しは、やっぱりおかしい。騒ぐマスコミも救いようがないが、やり方で受かるか、猫も杓子もやり方真似すれば受かるのか、違うだろ。まずDNAが、違うとは、なぜ考えないのか。まあ、世の中の親の都合のいいというか、調子のいい受け取り方の方が問題なんだろうけれど、冷静に考えたら、鳶の子は鳶でしょ。
 確かに、東大首席で卒業して、現役で司法試験に合格した山口真由氏の書いた、「私の」勉強法というのは、ためになった。ただ彼女は、類い稀な天才脳の持ち主であり、その彼女が、選択した方法であるということは忘れてはなるまい。
 受験指導家としては、ベストセラー「数学は暗記だ」の和田秀樹が有名である。彼は灘高から東大理Ⅲ(医学部)に合格した、もともとの天才であり、自称落ちこぼれに、騙されてはならない。その彼の方法論を信じて、失敗した生徒が、私の教え子にいた。和田氏推薦の数学参考書寺田の鉄則シリーズを暗記して受験勉強をした。天才が、自分が成功したという方法を一般的にも有効なものとして世に広める話は、昔からあったけれど、確かに面白い、ためになる話しではあるが、万人に通用することはない。
 難関国家試験の合格体験記というのが、エール出版から出されているが、合格体験記は、額面通りには取れないという本質がある。合格した者は、ほとんどが、自分はそれほど勉強していないのに合格した、ということを強調しがちであるからである。本当は、自分は頭がいいのだ、ということを物語化する傾向がある。なんでもないのに受かったという言い方をする人もいる。ほとんどの人が、合格直前に取った方法が良かったという傾向がある。初学の頃と実力がついた頃の勉強方法は自ずと違うものであろう。つまり、難関国家試験の合格体験記ほど惑わされるものはない。虚実綯い交ぜに、つまり、嘘と真実が混沌とした中から真実のみを嗅ぎ分けるのは至難なことである。その方法がよかったから受かったというより、なんのための方法だったのかを、考えてみるといい。
 低学年脳に割合のしくみを理解させる、というのは、世間の親が、考えるような、単なる方法で方がつくわけでもない。DNA的限界は常にあるからである。割合概念を理解するには、ある程度の知能が前提になる。計算をマスターした者がみんな割合をマスターできるわけではない。ただ計算が遅い、いつも間違うという子は、割合もなかなか理解しない傾向はある。
 理解が、表面だけ、というのがある。言われたことをただなぞるだけの子、真似をする、操作を真似するだけという子もいる。学ぶには、本質的なものが欠けている。これは低学年脳だからというわけではない。学年にかかわらず必ずそういう子がいる、ということである。
 割合の定義を聞いただけで、何もかも悟る子がいる。こういう子は、塾に行かなくてもできる、塾に行けばさらにできる。
 授業の手順から言えば、まず、概念なりの定義を述べて、その説明をする、ということになります。例えば、1パーセントというのは、100等分して、その1つ分のことです、と定義する。そうすると、牛肉500gの15%は何gですか、という問いにも、この定義から答えられる。定義から、500gを100等分して、1%が5gなので、15%は、15×5=75gとわかる。これは、定義をきちんと考えて解いている。ところがなぞる子は、全体に%をかける、と覚える。
 よく考えろ、とは言うけれど、どう考えるか、は、教えない。
 考えるとしたら、まず定義を想い出すこと、頭の中で復唱すること、次に、問題に、定義をどう適用するか、活かすか、を考える。これが考える内容である。私は、竹の会で、割合の定義を図式化した。定義を視覚化した。子どもたちは、割合の問題を考えるときに、視覚化された定義を元に考える、ようになった。
 考えるとは、定義を覚える、理解する、分析する、定義について考える、図にしてみる、図解する、定義と問題を比べる、定義を問題にどう適用するか、考える、定義から論理的に出てくる準定義、さらにその準定義から導かれる孫定義、考える根拠はいくらでもある。
 子どもたちに、抽象的な定義を教えて、そこからその定義に即して問題を分析できるか。これは多分にDNA的な能力が、左右する。
 知能とは、定義から問題が、解けるか、に関わる。定義とは、抽象を本質とする。小学生の脳がこの抽象性をどこまで受け入れられるか。多くの小学生が、拒否反応を示す。概念そのものを受け入れられない。わたしはこの突破口として、概念の構造化、図式化を図る工夫を凝らしたこと、その上で、反覆練習、訓練を重ね、概念に慣れさせることを試みた。これで成功した子たちも多い。が、それでも定義から考えるという習性が身につかないままに、中身は変わらないのに、外見で騙されて、翻弄されて、思考停止すると子も出てくる。問題は、こういう子の指導が、可能なのか、成功裏に進められるのか、ということに尽きる。定義を理解して進めていくということができないのは、DNA的な制約のための可能性もあるからである。問題を教えるのに、よく定義はこうなのだから、問題はこうして、解けるでしょ、という説明をすることほど虚しいものはない。問題が定義から解けるのに、わからないと思考停止、思考放棄する子にわたしは複雑な思いを抱かざるを得ない。これから独り立ち、すなわち定義を適用して問題を解いていけるようになるのか、不安が募るからである。
 この基本の基本、すなわち定義を用いて問題を解く、というスタイルが、身につかない限り、受験、受検は無理と断言できる。定義を理解し、問題に定義で対処できる、これが基本の基本を成す能力、最低限必要な能力である。竹の会が、わたしが、全力で、つけようとしているのは、つまるところこの能力にほかならない。
 定義通りの問題、定義を使えば済む問題を、「わかりません」という子、思考停止する子、思考放棄する子につけるクスリはない。
 いいですか。勉強というのは、定義を覚える、定義を理解する、定義を使える、定義を使いこなす、これに尽きるのです。できない子、解けない子、わからないという子に、それではと、定義を尋ねると、曖昧、漠然、いい加減、つまり一言で言えない。当たり前である。解けないのは、定義から考えていないから。
 割合というのは、2つの数を比べて、一方が他方の何倍あるか、を言っているだけなんです。ある数を基準にする。つまりこの数を元にして、他の数と比べる。比べられる数は、元の数と比べられる。つまり、比べられる数÷元にする数  これは倍率です。比べられる数が、元の数の何倍か、を出しているだけです。通常、比べられる数<元にする数 ですから、倍率は、小数になる。
 ここで、割り算の定義の話しなんですが、割り算というのは、割る数を1としたら、割られる数が、どう表されるか、を計算する装置なんです。
これは、割り算には、2つの意味がある、1つは、倍率の意味、もう1つは、包含算と言われるやつで、割る数が、何個分含まれるか、の意味です。この2つ目の意味から、例えば、8÷2=4
で、 2が4個分含まれる、ことがわかります。これが、2÷8=0.25だと、8が0.25個分とわかりにくいですが、意味は通っています。
すべての割り算は、割る数を1とする割り算に還元される。
例えば、8÷2=(8÷2)÷(2÷2)=4÷1=4
    2÷8=(2÷8)÷(8÷8)=0.25÷1=0.25
 つまり、割り算をするというのは、割る数を1として、割られる数が、どう表せるか、を計算しているということなのです。
 あなたたちは、知らない、そうとは知らない。しかし、割り算をするというのはそういうことなのです。ですから、割り算をすれば、割る数を1とした時の割られる数の値が出る。単位が同じときは、そのまま倍率、つまり割合を表す。単位が違うものどうしの割り算なら、割る数1あたりの割られる数の値が出る。
以上の話しは、定義論です。
子どもたちを指導するというのは、定義論の段階で、如何に子どもたちに、定義を植えつけるか、定義から発して思考するという姿勢を定着させるか、という話しなのである。
 世の親たちが、自分の大切な子を大手なり、そこら辺の塾なりに、入れて、さて一年経って、子の脳はどうなのか、ということであるが、わたしの経験は、かなり悲観的なものである。何かの縁で、そういう子どもたちを診断する機会があり、大手に1年、2年通ったという子たちの、荒い脳に驚かされた、ものである。この子たちには、何もない。確固たる理念で、指導されることのないままにきた子たちは、計算を技術として教えられ、割合を教えられていても、定義から解くという理解はない。すべてに通じる思考形成のためという理念もない。ただやりかたを学生アルバイト講師に教えられて、操作を断片的覚えてきただけなのである。
 あなたたち親のやったこととは、そういうことです。あなたたちが、漠然と大手に抱いている思いとは、大手なら、規模も大きく、何百人という子たちも通いら、ノウハウもあり、合理的に作られたテキストもある。講師は、頭の良さそうな先生(実は学生アルバイト)だし、教え方も大手だと違うだろう(ネクタイと背広に騙される)。うちのバカな息子、バカ娘も、なんとかしてくれるに違いない、と大手のある大きなビルを眺めながらさらに信頼も強まる。間違いない、こう確信したことでしょう。
 しかし、残念ながら、あなたたちの期待は悉くが裏切られる。あなたたちの子が、もともとの天才でない限り、あなたたちの子が、大手で伸びてゆくことはない。
 進学大手は、天才のみが受験に成功することを当然の前提としている。しかし、その他大勢の凡才が、大手の経営維持のために不可欠であることも、わかっている。だから、嘘もつく。社会観念上許容の範囲内の嘘である。公立中高一貫型の大手塾にしても、天才を求めている。しかし、公立中高一貫をめざす子が天才であるのは稀有で、それではと優等生をほしがる。しかし、大手のカリキュラムで、伸びる子はそれでも限られる。優等生の一部である。特に、優れた優等生である。ここでもその他大勢は落ちこぼれることが前提である。
 何がいけなかったのか。
 それは、この文章を読んでこられた、皆さんには、すでに答えの出ていることでしょう。子どもにまず何が必要なのか。子どもが、具体脳から抽象脳に質を変えるには、何が必要なのか。計算という抽象思考の入り口を5分とか、10分とかの単元テストで、済ましてこなかったか。割合という思考過程を、定義から問題を考えるという、思考の基本姿勢を身につける機会を、何の問題意識も持たない、学生講師に、説明好きの、そして自分が一番教え方がうまいと自己評価だけは高い、学生に、教えられて、わかった気になって、一年、二年と、一番大切な時期を、無為に過ごすしてこなかったか。
 思考の基盤も持たないままに、知識ばかりを詰め込まれて、思考不全が高じて、思考不在人間と成り果てて、待っている未来は、もう見えている。先はわからないというのが、人生の言い草だが、これだけは、つまり転がり落ちる人だけは、外れがないのが、人生の現実である。

 

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