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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川中等、両国附属、白鷗附属/都立戸山、青山標準/その他

2019.06.14

6月14日 金 晴れ 夏空

久しぶりにブログをアップします。長文をお詫びします。

 

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「草枕」

目次

第1章  塾の無責任

第2章  わからないの研究

第3章  読む勉強と書く勉強、の どちらが、いいのか

第4章  特別の研究〜なぜ当たり前ではいけないのか

第5章  算数ができないなら、受検は考えるな!
 数学ができないなら、都立は諦めろ !

第6章 消去法の研究

第7章  抽象的言葉で言い換える

第8章  特別講義  割合

  第1節 分数と小数

  第2節  割るの意味

  第3節  割合で、何がわかるのか 謎を解く

  第4節 「オイ、米を20%くれ」

  第5節 

第9章 九州大学への道 私は高揚気分というものを知らない

 

第1章 塾の無責任

 塾屋は、教育をしているわけではない。そんなものに興味はない、あるのは、カネ儲けだけである。塾屋は、自己の店が如何に優れたものか、虚実ない交ぜて喧伝する。上げ底、巧妙な嘘は、商売上の許容範囲逸脱すれすれの危ない橋である。商売だから、どんなバカでも可能性はゼロではない、という一騙しの手口で、呼び込む。試験というのは、失敗する可能性のあるものは失敗するのが真理である。しかし、その逆はない。逆は必ずしも真ならず、というのは、数学の公理である。つまり、成功する可能性のあるものは、必ずしも成功しない。
 失敗する可能性のあるもの失敗する(マーフィーの法則)。塾屋は、生徒、つまりお客様がなくなるのを極端に嫌う、怖がる。当たり前である。塾屋は、サービスを提供して、対価を獲得することを生業とするからである。どんなにか自分のサービスが他より優れているかを口角泡を吹いて説きあかすであろう。だからどうしても真実を隠し、上げ底は当たり前で、客がいいように誤解するように売り込むことであろう。
 塾屋は、仕入れにカネをできるだけで使いたくないから、学生講師を安く雇い、マニュアル授業をやることだろう。が、集客しなければ、利益は上がらない。そこで合格実績を出すためには、優秀な生徒を集めることが、必須ということはよく心得ている。また、そうした優秀な子たちには、本物のサービスを提供しなければ、彼らが離れていくことも熟知している。だから塾屋のやることは、天才を集めること、そして天才を受からせることに特化していく。ここに資本をかける。かけた資本は回収しなければならない。それを担うのは、その他大勢の凡人諸君である。天才などというのは、ほんの一握りだから、その他の生徒は、9割以上に及ぶことであろう。凡人の皆さんは、天才の出した実績をあたかもだれでも勉強すれば成功するかのような塾屋の宣伝文句に乗せられて、カネを注ぎ込む、お客さんである。凡人の中から一人でも受かれば、たちまちそれは一般化されて、一人歩きし、凡人諸君を「おれも」「わたしも」と勇気づけることであろう。
 塾の無責任とは、その他大勢、つまり9割の凡人の皆さんに対して、あたかも努力すれば合格するかのようなことを平気で言いながら、心の中では明確に否定していることである。塾屋は、そういう商売をしても、決して責任を問われることはないということを知っている。受験の失敗はすべて受験した者の能力が足りなかった、力が及ばなかったこととして、自己責任として片付けられことであろう。入塾するときは、あたかもここで勉強すれば受かる、責任を持って受からせるとまで断じていたはずなのに、いつしかできないのは、個人の問題として、雲散霧消していく。騙された親が騙されたとは思わない、これっぽっちも騙されたとは思わない。不思議なほどに恨みを残さない。これが個人塾だとまず落ちたら塾のせいにされることは必至である。
こうして塾の無責任は、多くの親たちにとっては無責任として糾弾されることはない。

第2章  わからないの研究
 読んでもわからない、教えなければわからない、教えてもわからない。塾の先生を30年以上もやってきて、塾というのは、子どもたちの「わからない」との闘いであったと思う。その闘いの中から、次第に、「わからない」の正体を掴みかけてくる。なぜわからない、子どもたちのことを考え、自分の無力をどれだけ責めたことであろうか。
 塾を始めた頃は、頭の悪い子は、教えても無駄だ、と切って捨てた。バカは、断った。何かのきっかけで、自閉症の子を引き受けた。なぜか、わたしのことを気に入って通ってくる。長い付き合いだった。根気よく、本当にミリ単位の進捗だったが、辛抱強く教えた。ある時期、竹の会の先生は、できない子を教えるのがうまい、とか評判が立って、電話で、そういう子の専門の塾だと聞いて、電話した、などという人ばかりになった。学校で、ビリから一番、二番、三番とかが、喜んで通ってきた。オール1などというのが、珍しくなかった。高校受験では、そういう子たちを中以下の都立や低偏差値の私立に受からせた。本当に手のかかる子たちであった。騒ぐ、喧嘩する、トラブルばかりだった。代々木公園で、ペンキ屋の息子が持ち込んだシンナーを吸って、竹その中に会の子が二人いて、警察に補導されたことがあった。少年鑑別所に送られた。母親が、二か月で、出てくるので、高校入試を頼むと頭を下げられた。わたしはそういう子らの気持ちがよくわかった。自分の中学、高校時代のことを思えばたいていのことは理解できた。荒れた高校時代、喧嘩もしたし、家出もした。わたしは不良の気持ちがわかったのだ。だから、どんな子でも、受け入れた。彼らの心の中が、手に取るようにわかった。無法をはたらく者は、断固として、身を張って、制した。わたしはこういう子らが心を許して、わたしを心から慕ってくれるのがわかった。自分が、ワルと言われる人間たちと付き合ったきたことが、そういう子らの心を理解できる、ことになったのだろう、と思う。中学時代の番長は中3の時に少年院に行ったが、わたしの幼馴染みであった。いつかドスを預けられたこともあった。小学の頃、誰も付き合わなかったが、わたしは普通に友達として接した。彼はそのことを随分恩義に思ったようである。そのことを後から聞いた。中学時代の不良が誰もわたしに手を出さなかったのは、そのためだったらしい。勉強ができてしかも不良に顔が利く、それを中学の担任は嘆いた。「これがうちのクラスの秀才か」と嘆いた。血の気の多い性格は、進学校に行っても災いをもたらした。進学校といっても一学年605人もいて、2割はスポーツ推薦で入学した、できの悪いのが混じっていた。傲慢な態度をとる奴もいて、わたしと激突するのは宿命だった。とは言っても、衝突は二度だけ、一度は、巨漢と柔道場で、柔道で戦った。朝の通学のとき、自転車が接触して、喧嘩になる。一緒にいた級友が中に入り、柔道で決着つけろ、ととりなした。わたしと巨漢のKは、昼休みの柔道場で戦った。わたしは柔道着に着替えて、巨漢も柔道着で闘った。級友が審判、開始、わたしは相手の左袖を引き、右手で、相手の襟を取り、首を絞めた。巨漢が苦しそうに顔を真赤にしてのしかかるように襲いかかってきたところを、相手の右襟を右腕で巻き込み、体落とし崩し、右足を相手の右足にかける、勢いで巨漢の体は回転しながら、道場の羽目板にめり込む。級友が、もういいだろう、というところでお互いに引いた。巨漢は、「おそれいいりましまた」と頭を下げた。以後、巨漢とは仲良しになった。巨漢は、明治大学からNHKに就職した。
 もう一度は、わたしより背の高い不良だったが、180ほどあったか、体育祭の日、わたしの背中にボールを投げつけてきた。普段から何かと衝突していたのだ。振り向いてそいつとわかった瞬間、もう体当たりしていた。すぐに畏れたのか謝って、頭を下げてきたところで、体育の教師に見咎められて、「なにしてるんだ」。「いや、ふざけてただけです」と難を逃れる。
 こういう子たちの指導の仕方は心得ていた。理解させるのではなくて、操作を覚えさせる、のである。言わば、運転技術を覚えさせる、のに似ている。こういう子たちを高校に受からせる中から、合格最低点合格法が生まれた。今でも、最悪、合格最低点ギリギリで合格する子がいるのは、私の最悪の場合を予想した、指導が、功を奏した結果である。
 わたしは、「わからない」という局面、事態に遭遇するたびに、子どもたちの「わからない」を分析し、その対応を考えてきた。
 秀才や天才の「わからない」なら、わたしは高度な思考をめぐらせて、低度の低い「わからない」から解放された。高度な数学、難解な英語、の指導は、わたしには楽で、楽しかった。低度な知識が、わからない、というのは、教える側にはストレスである。わたしはいつの頃からか、そういう子たちの指導が嫌になっていた。どんなにわかりやすいと言われてもわたしの中には、高度な知能を相手に指導したときの、充実した気持ち、心地よい疲れ、充足感がわたしを癒したことを忘れられなかった。わたしは天才を教えるときに、プロフェッショナルなのだ、と実感できた。しかし、小塾に天才が、来ることはほとんどない。それにしても私が入会試験を課したのには理由があった、ということはみなさんに伝わったであろうか。

第3章  読む勉強と書く勉強、の どちらが、いいのか
 中学1年生になったばかりの頃、ようやく勉強に目覚めた私は、学年1番、2番といった連中に憧れた。彼らができるのはなぜなのか、きっと何かいい方法を知っているに違いない、と授業中彼らの勉強の様子を窺い、その方法を盗もうとした。彼らが、もともとの頭の良さからできるのだ、と考えなかったところが、私のあさはかなところである。地理100点取った奴を観察してたら、何かやたら地図帳をめくっているのを見て真似した。そしたら次の定期テストで地理90点台を取った。英語のできる奴が何かと赤ペン使ってノートに書き込んでいたけど、流石にこれは生理的に真似できなかった。あの頃はなんでもノートにまとめた。首都は国と対照させてまとめたり、箇条書きに凝ったり、表にしたり、図をかいたり、とにかくまとめて覚えた。この方法は、中2の終わりまで続いた。つまり「読む」よりも、「書く」勉強が、軸だった。ところが、中3になって、壁に突き当たる。範囲が広過ぎるのである。高校入試の出題範囲は広い。書いてまとめるというのは不可能だった。わたしの中学時代は、学校が、各科目について、三年間の知識をまとめた問題もついたテキストを配った。そして学校は補習までしてくれた。ある時、能力別クラスで、他のクラスの学年2番の子が隣の席になったことがあった。そいつのテキストを見てショックを受けた。問題は全て解かれていた、丸だらけの自己採点も終わっていた。わたしは、基本問題だけやって、A問題もB問題も白紙だった。この時、わたしは悟った。「読む」勉強に切り替えるしかないことを。それで、最初から、丹念に読んでいき、問題も全て丁寧に解いていった。わたしは、頭に入るまで何回でも読む覚悟をした。7回目になるとテキストの内容がほとんど頭に入っていた。17回回ったところで、わたしは最後の学年末の実力テストに臨んだ。あの時は、返ってくる答案が、100点、また100点と、クラス1の秀才が、びびっていた。そして、わたしは学校の長廊下に張り出された自分の名前が、学年一桁にあるのを見つけた。一学年556人の中の一桁である。クラスでも常に私の前にいた秀才を抜いた。あの時、わたしをショックに陥れたやつが、なんと自分と同番数に載っていた。そいつは、大分県で二番目の進学校に進み、大分大学に進み、大学を首席で卒業し、公認会計士になった。やはり名より実をとる、合理的で、頭のいい天才だったのだ。
 わたしは、この時の経験から、サブノートをとる勉強をしなくなった。大学入試も「読む」勉強であった。ところが、国家試験を受けたとき、何を狂ったか、サブノート、つまり「書く」勉強をやってしまった。後年、東大首席卒業の山口真由氏が、「読む」勉強をこそ、と書いているのを見て、自分の迷う性格が、呪われた。
 さて、あなたは、どちらを選びますか。

第4章  特別の研究〜なぜ当たり前ではいけないのか
 力がないことを内心ではわかっている、だから特別を言う。
 魔球とは、結局普通の能力がないから、魔球が必要ということではないか。普通に力があれば、何も魔球など必要ないはずではないか。
 わたしたちは、何かというと特別なことがなければだめだと思い込むようである。かつての司法試験は、合格率3%、最終合格者480人、今と比べると毎年1500人、一時期は3000人も合格者を出した年もあったから、雲泥の差である。当時の風潮は、指導する側も、スポ根並みに根性論を説き、合格するためには、特別の勉強が必要ということで疑問はなかった。やがて予備校が、次第に、合理的なやり方を先導し、試験界は大きく変貌していった。かつての弁護士は、難しい試験を背景に、権威を謳歌した。無能な弁護士もただ弁護士というだけで、威張っていられた。
 さて、予備校によって、「特別」な勉強が、否定されたかというとそうではなく、昔流の徒弟的な勉強が、合理的な勉強にとって代わられた、というのが、正確である。予備校が天下を取ってからも、「特別」性は、予備校によって、受け継がれた。そうしなければ、予備校の存在意義を顕在化できないからである。
 さて、ここで「特別」化することが、もたらす影響について、触れておかねばなるまい。「特別」なら「特別」の勉強が必要となる、と考えるのが、普通の発想であるからである。
もし特別でないのなら、大学入試のときにとった勉強となんら変わらない。特に、構えて意識する勉強をすることもない。わざわざ大学の先生の書いた、難しい体系書なんか買ってきて頭を捻ることもない。いやむしろ普通なら、易しい入門書とか、概観を取りやすい概説書なんかで済ませて、できるだけ深入りしないのが、成功のコツだということを普通に考えるであろう。特別という意識が、手段の特別性まで求めずにはおかないところが、特別の最大の罪である。
 世の中には、そんなに特別なことはないと考えて丁度いい。かの司法試験でさえ、そうだったのである。今は、その司法試験も易しくなり、弁護士になっても食っていけない時代になって、世の中も変わった。
 人は、特別に惑わされ、特別に我を失い、特別で、平常心を失い、理性も吹っ飛び、特別に囚われて、普通のこと、当たり前のことを疎かにする。

第5章  算数ができないなら、受検は考えるな!
 数学ができないなら、都立は諦めろ !
 都立とは、トップ都立とは、数学の才のある、才能豊かな人にだけ用意された、大学へ続く道の一つである。誰でもが行けるところではない。数学ができないと言って、塾に行けば解決できる問題でもない。ましてやこのレベルの子が、部活なんかに現を抜かして受かるわけなどないのである。数学がとにかくできる、これがトップ都立に入る、最低の条件である。話しはそこからである。英語はできて当たり前。英語なんてのは、できないのは、頭が悪いからではなくて、怠け者だからに過ぎない。英語という科目はとにかく毎日やってなければものにならない。真面目に努力する人が、できる奴になる、これが英語という科目の特長である。だから部活やってる奴はだめなんだ。奴らが、英語ができないのは、当たり前なんだ。部活で疲れて家に帰ればバタンと寝る、そんな奴に英語なんてもともと無理な話しだったのである。英語を舐めているとしか言いようがない。
 都立の本番で、落ちる、失敗するのは、数学ができない奴である。数学のセンスがない子は、たいてい理科もできない。だから、理科が、できないという生徒は、かなり危ない、と見ていい。
 都立中高一貫校でも、事情は、本質的には、変わらない。算数のできない子は合格は期待できない。算数が、できてなんぼである。塾でなんとかできるということではない。塾は、才能、知能に恵まれた子をなんとかするのである。
 中学というところは、数学の才能のある子が、トップ都立なり、難関私立なりに、入るだけのことである。英語はできて当然。英語というのは、もう一日でも勉強を休んではならない。それどころか、長文を短時間に読み取れるようになるには、ある時期には、英文読解に何時間でも没頭する時期が必要である。だから怠け者には到底無理な科目である。わたしは、中3になって、都立レベルの英語でさえ、50点も取れない、英語失調症に罹った生徒をたくさん見てきた。栄光とかいう塾に中1から通っていた子や筑駒の生徒もいた。英語で失速するのは、中学では、ありふれたことなのである。なに、英語ほど簡単なものはない。とにかく中1の時が勝負であり、初動の勉強が中学三年間の英語を決めると言ってもいい。だいたい子どもにスマホを持たせて、当の子どもは、スマホ中毒、部活やゲーム、恋愛に夢中で、そんな子がまともに勉強できるようになるはずがない。いいですか。中学生で成績落ちたら、そこへんのところを疑うことです。子どもは、「勉強の仕方がわからない」などといくらでも親を騙すことを言うものです。親が子どもの言い訳を鵜呑みにして、心配する、アホらしい。だいたい理科や社会が、下がった時点で、子どもがスマホ熱病、恋愛ウィルス、部活降下症、ゲーム脳症に罹っていることをまず疑うのが筋でしょ。わたしはこういうバカを相手に決してしたくない。時間の無駄である。勉強時間を居眠り時間としか扱っていないのだ。竹の会で、中学生が、三年間いる、のは、ほとんどいない、それは例年受験生が、一人ということでわかると思うが、たいてい一年も経たないで、やめていくのは、中学というところが、中学生というのが、たいていはそういう仕儀に至るということを証明したに過ぎない。

第6章 消去法の研究
 問題を考える時に何が正しいかと考えるよりは、正しくないものはどれかを消していくのが脳経済に即する。
してみると、普段の勉強は、知識を獲得するのではなくて、消去の手がかりを蒐集していく、そういう勉強でなければなるまい。
 これは、中学生の勉強に対する取り組み方にも関わってくる。
 中学と言えば、暗記事項が多い。小学ですでに中学受験を経験した人にはすでにわかっていたことであるが、多くの中学生が、暗記で苦しむことになる。部活なんかやってる中学生は、普段は部活で疲れて勉強などしないでしょ。それで試験一週間前になって試験勉強に取りかかる。が、暗記の壁が立ちはだかる。とても間に合わないと悟る。だいたい数学なんてのは、今更勉強というものではない。英語は普段からやってる生徒にはなんということもない。理科や社会は暗記することがワッとある。ただ中1になって間もないと、範囲も少なく、覚えることもあまりないから、こんなものかと舐める、甘く見る、油断する、それで範囲も広くなる、中1の後半あたりから、不勉強が祟り、失速する。全くアホとしか言いようのないお粗末な頭である。
 さて、中学では、というか、勉強というのは、まあ、受験勉強ということであるが、とにかく如何にして覚えないで済ますかということが、勉強の醍醐味であり、面白さということなのである。頭からなにもかも覚えようとするから、考えるから、おかしくなるのだ。
 覚えなくていいものを覚えようとするから能力の限界みたいなことになる。
 どうしても覚えなければならないとき、まず反覆繰り返しに勝る方法はない。語呂合わせというのは、暗記の妙薬であることは間違いない。
 暗記の極意はとにかく口遊むことである。
 そういうことを弁えていたうえで、一過言ある。
 まず、知識は、論理的に「繋ぐ」ことが、定法である。さらに理解の方法にも関係するが、知識というのは、抽象的に置き換えることで、頭に書きこめる、のである。具体的な知識は、抽象化する。知識は、クロスさせる。具体的には、関連づける。勉強というのは、知識を如何にして関連づけるか、である。専門書を読むときは、例えば、手形の裏書について、理解を深めるには、索引を見て、裏書の使われているページを片っ端から読んでいき、繋ぐことをやる。憲法で、二重の基準の理論というのが、判例でよく使われるが、これなども経済的自由と思想表現の自由で、制限を分けて、まあ、とにかく政府の規制を結局は正当化する理論なわけであるが、考えたのが、アメリカの最高裁というのも示唆的であるが、日本の学者が、借用して、憚らないのもいつものことであるが、とにかくわたしはクロスさせて理解してきたものである。
 思考経済に徹する。これも大切である。
 理科だと、酸性、アルカリ性の判別が、消去法で、消すというのがありますが、この時、リトマス紙なら、酸性→アルカリ性の変化だけ覚えておけばいい、これが思考経済ということです。とにかく覚えないで済ます、これが勉強ということです。部活にかまけて不勉強を託つ者は、普段からこういう思考経済の蓄積がないから、その時になって慌てるのである。とても覚えられないと観念するしかないのである。そして親には、自分の不勉強を、棚に上げて、勉強の方法がわからないなどと親に心配させて、親の非難の矛先を躱そうとする。親は、子どもが、真面目な顔をして嘘をつけばころりと騙される。そして本当に心配する。要するに、子どもに手玉に取られている。振り返れば、子どもというのは、幼い頃から、そういうかけひきをやって欲しいものを手に入れてきたのである。何か欲しいと思えば、親に甘える、泣いてねだる、暴れる、駄々を捏ねる、そういう中から、親を心配させれば、つまり親が自分を愛してくれているということを逆手に取って親と駆け引きすることを覚えてきたのである。それが最も親を征する効果的な方法であることを経験的に学んできたのである。だから、子が、泣きそうな顔をして、「勉強の方法がわからないからできない」と言えば、親の習性で、たちまち心配モードに突入してしまう。子というのは嘘をつくものである。しかも親の心配するように嘘をつく。それが、子の唯一使える戦略だから仕方ない。問題なのは、親がコロリと騙されることである。たいていうちの子は悪くない、悪いのは他人だ、という論理で、親は、正当化する。
まあ、これくらいにしておきましょう。

第7章  抽象的言葉で言い換える
 抽象化というのは、諸事象の共通点を抽出することに他ならない。わたしは、よく因数分解を引き合いに出すのだが、あれは、共通因数をカッコの外に括り出す、ということをやります。括り出すのが、抽象化であり、括り出された因数が、抽象語である。カッコの中のものは、捨象される。つまり捨てるわけである。これは見事に抽象化というものの成り立ちを説明している。
 抽象化というのは、共通要素、すなわち本質的属性の抽出に他ならず、この抽象化の思考が、思考のそもそもの原点であった。子どもというのは、思考がない。それはすべての事象を具体的にしけ認識しないからである。概念はたいてい物の名前であり、必ず物との対応で子どもの頭の中には、組み込まれている。思考というのは、具体的なものをカッコに、残して捨てることに他ならない。カッコから括り出した共通なもの、これのみを頭の中に組み込んでいく、インプットする、これが思考ということである。頭の中でこのようにして蓄積された抽象語が、増えていき、抽象語を、操るようになることを考えるというのです。
 国語の読解も、この抽象化の過程が、関係している。読解力がないというのは、まず頭の中が、具体的認識しかできないということに帰因するのがほとんどである。抽象語を認識できないのである。読解できない、つまり意味が読み取れないのは当たり前である。まず子どもの頭を抽象化訓練によって抽象化していくのが、先でしょ。
 ところが、論説文というのは、抽象と具体の波でできている。つまり、抽象的に言ったものは、読者にわかってもらうために、必ず具体的に言い換えていく。読者が、それでわからないと思えばさらに具体的に言い換える。例示をあげていくのも具体化のひとつである。そして具体的な記述が続けば、抽象化していく。自己の価値観は、定義のかたちで示す。例えば、「人生とは、苦難のリストである」のように、自己の価値判断を定義する。
 こうして、国語の読解というのは、頭の中が、抽象語を認識するプログラムがなければもともとできない相談のものであった。
 これを、巷の塾の先生が、「読書が足りない」とか、言うのは、何も考えてない、何が先生だ、ということになる。

第8章  特別講義  割合
第1節 分数と小数
 例えば、1/8と0.125というのは、どうなのか、ということがあります。
 まず、分数というのは、意味を語る分数と、単なる量を表す数に過ぎない分数がある、ということを知っておく必要があります。
1/8というのは、1を8等分したという意味があります。また、1/8倍という意味もあります。さらに、1の中に8が、1/8だけ入るという意味もあります。
小数の0.125とは、ただの数です。ですから、1/8もただの数のときは、0.125と同じです。1÷8=0.125
ですから同じ数、大きさです。
もう少し理論的に言うと、
1/8の分母8を1としたとき、分子1は、0.125と表せるということです。
つまり、0.125というのは、1を元にした数を表しているということです。小数というのは、1と比較している数のことです。
0.01を最小単位として、考える、
つまり、1を100等分して、大きさを測るわけです。

1000円の1/8をあげる、と言うのは、1000円を8等分して、そのうちの1つという意味ですが、1/8を数として、考えて、1÷8=0.125ですから、1000円の0.125倍をあげる、というのも、同じ意味になります。
このように、小数倍というのは、実は、何等分かしてそのうちの何個という計算を密かにやっているわけです。

第2節  割るの意味
 割り算というのは、割る数を1としたときに、割られる数が、どのような小数になるか、を計算するものです。割る数が、1より大きいときは、割られる数は、 縮小されます、1より小さいときは、割られる数は、拡大されます。
例えば、25を500で割れば、25は1/500に縮小されます、0.125で割れば、0.125=1/8ですから、8倍に拡大されます。つまり、割る数の逆数倍される。

割り算とは、全体を1と見ると、鳥瞰できる、ということを暗にやっています。
地球を見ることはできないが、地球儀にすると、俯瞰できる、そういうことです。
算数とは、「1」を使って、考える思考の方法のことです。
%というのは、分数を表している、あるいは、○÷○を表している、
パーというのは、「何々あたり」の意味、セントは、「百」の意味。
パーセント(percent、%)は、割合を示す単位で、全体を百として示すものである。百分率ともいう。”ラテン語: per centum”が語源であり、perは「毎に」、centumは「百」を意味する。

第3節  割合で、何がわかるのか
謎を解く
 洞窟に閉じ籠められた少年たちを救出した事件がありましたが、まず、3人が、救出された、そしてその3人は、洞窟の中にいた少年たちの、15%だった、とする、
そこから、洞窟の中に何人いたのかが、わかる、
15%というのは、全体を1として、そのうちの0.15が、3人ということです。
全体を1とするとは、そのうちの0.15が、3人にあたる、つまり、3人を縮小して、0.15にした。縮小倍率は、3÷0.15=20倍ですね。
つまり、この割り算をすることで、全体を20分の1に縮小したということがわかります。
全体の1というのは、20分の1に縮小された結果だということがわかるわけです。

第4節 「オイ、米を20%くれ」
 これでは、量がわからん。20%というのは、量ではない。いわばただの目盛りだ。ただ、この目盛りは、ただものではない。メモリのつけ方が、特殊なのだ。とにかく測ろうとするものの全体を1として、メモリをつける、ことになっている。
例えば、125mの長さをこの物差しで測るとき、まず125mを1の目盛りとする物差しをイメージする。目盛りの付け方は、簡単で、125÷125=1で、125にあたる目盛りは1となる。
他のメモリのつけ方も簡単。
例えば、25mは、この物差しでは、何メモリか、25÷125=0.2

つまり、25mはこの物差しでは、0.2のメモリにあたります。
これは、要するに、全体を1/125に縮小したということです。
先程の洞窟の問題も、この縮小ということを知っていれば、簡単です。
つまり、3人を縮小したら、0.15になったというのですから、縮小率は、3÷0.15=20から、20分の1倍とわかる、だから、全体1の縮小前の大きさは、1×20=20人というわけです。
大切なことは、割合という物差しは、オーダーメイドだ、ということです。測る物ごとに縮小率が変わるからです。だから、通常は、例えば、20%+10%などとはやれない。縮小率が違えば、メモリの質が違うからです。例えば、1000mの20%は200m、500mの10%は50mですが、20%+10%=30%とやってみても意味がない、のがわかりますか。オーダーメイドなので、同じ目盛りでも、内容が違うということです。
このように、割合のメモリというのは、常に、元の数とのからみで、大きさを考えなければ、実際の大きさは、わからないということです。

第5節
 元にする量が、米1000kgとするとき、割合の物差しで、20%というのは、何kgを意味していますか。
 割合というのは、常に、縮小率を念頭において考えなければならない。
 この場合は、全体が、1000kgだから、縮小率ば、1/1000です。つまり縮小率というのは、いつも変わる。つまり、0.2というメモリは、1000分の1に縮小した結果、だから、元に戻すのは、反対に、1000倍する、だから、1000×0.2=200
つまり、200kgのこととわかる、

第9章 九州大学への道 私は高揚気分というものを知らない
 人間というのは、それはさまざまな制約の中に生きている。勉強ひとつとってみても、能力的制約、体力的制約、経済的制約、環境的制約、人的制約、とそれはもう尽きない。人間は、こうした制約の中で、なんとか折り合いをつけて、生きている。様々な制約のために、どれだけ失敗を、重ね、失望し、諦めてきたことか。限られた自由の中でなんとか夢の実現に努力してきたことか。
 わたしに高揚気分というものがあったのか。いつも陰に隠れるように、遠慮がちに生きてきた。何か選ぶとき、いつもマイナーなほうを選ぶ習性が染み付いてしまったのは、やはりマイナスに働いてきたように思う。損をしたかもしれない。そう思うことがある。
 家は決して裕福ではなかった。鉄道員の父が、安い賃金で、一家六人を養っていた。父は29歳の時に、実家となる地に家を建てた。私たち家族は、裕福ではないが、つましく生計を立ててきた。わたしが、中学3年生になったとき、わたしは、初めて、九大という名前を聞いた。九大と聞けば、誰もが畏敬の念で、思いを馳せた。行きたくても行けない、とてつもなく難しい大学として、わたしの中に九大は位置を占めた。いつか行けるだろうか、淡い夢としてわたしの中に九大は聳えていた。
 いつか級友に言った、「俺、九大に行くよ」。返ってきたのは、「阿部、無理だ、お前は受からないよ」だった。九大が、難しいというのは、教えられてきたけれど、現実感のない、話しだった。ただ、この中学の中で、一学年550人の中から、一人、二人出るか出ないかなのだろうなとは思った。自分がその中で、10番くらい、受かるわけないか。高校は、当時大分県の御三家と言われた進学校の一つに進学した。完全に落ちこぼれた。九大なんかありえなかった。中学の時の級友の予言通りになった。私の高校からは、九大は毎年30人前後受かっていた。浪人を含めてである。わたしは、級友たちが思い思いの大学へ進んでいくのを横目に見ながら、一人ぽつんと取り残された。一人ぽっちだった。経済的制約、宗教の強制、日常的に世間体を気にする父親の干渉、世間の目、家出するように東京で6トン車の運転をしたり、ダンプの運転をしたり、19歳にしては、大金を稼いだりもしたが、諦めきれずに、大学受験という定位置に戻っていた。あの時は、もうこれ以上はできない、というくらいに勉強した。その辺の件は、別のところでも、書いているので、興味のある方は、見つけて読んでいただければと思います。
 九州大学法学部法律学科合格。

 わたしには、一つのけじめであった。旧帝大に入ることは、わたしなりのけりであった。父親から、国立しか、出せない、といわれていたこと、わたし自身も親に迷惑をかけたくない、という意識が強かったこともあった。当時の国立大学の学費は、入学金6000円、授業料年1万2000円であった。
 倍率6倍の難関。マルAの秀才たち、進学校のトップたちが競う6倍であった。マルAとは、内申の段階が、AからEまであるうちの、最高ランクAにマルのついた超最高ランクである。入学後誰に聞いてみてもみなマルAだった。そういうわたしはDランクであり、全県模試の成績は番外であった。誰が考えても受かるわけはない。ただ内申は、高い点数をとれば関係ないのが、国立大であった。出席日数は、ギリギリ足りた。学校をよく休んだのだ。学校サボってパチンコ屋に入ったときはさすがにドキドキした。ヤケクソだった。一度だけだったけど、やはりわたしはワルには徹しきれなかった。親に対する反抗心を抑えるのに苦労した。岡山に家出したときも結局帰った。本心は勉強したい、旧帝大に行きたい、という心で燃えていたのだ、受験勉強期間は、わずか六か月、予備校など行かない、カネをかけたくないこともあったが、わたしの成績では笑われるだけで、どこかの国立二期校を進められるだけだと思うと煩わしかった。
 わたしは最悪の状況で、旧帝大の受験に臨んだ。このわたしの状況を父と母がどれだけ理解していたのか、おそらくそこまで酷いとは思ってなかったのではないか。私は九州大学法学部の赤本をめくって、難解なことを再認識した。時間がない。私は、各科目1冊に絞った、英語は、赤尾の豆単と原仙作の英標、数学はZ会の通信販売で手にいれた問題集、この問題集は、数学IIBを中心に、数学Iも含めて200問について、1ページ1題で、問題と解答、かなり詳しい解答が載ったものだった。国語はなし。あ、正確には、古文と漢文はやったか。古文研究法という有名な参考書と古語2000、漢文のコンパクトな参考書を読んだ。日本史と世界史は、山川用語集の丸暗記、生物は、数研出版の薄い問題集、これは結局例題だけやっただけ、時間がなかったのだ。
 英語の単語は、1万語覚えた。原の英標は、十数回読み込み、英文を見たら、誰が書いたものかわかるほどになった。ロバートリンドとか、オーウェルとか、サマーセットモームとか、19世紀から20世紀初頭の作家の名文を編集した原の英標は、私の高校でも使われていた。私は英文を読みながら日本語に変換できるまでになっていた。数学は、30回以上読んだ。問題見ただけで、A4の答案用紙に、スラスラと数式を並べることができるようになった。200題が、立体的に、組み込まれて、クロスし、ベストな解法が、頭の中に浮かんできた。山川の用語集は、事典である。厚さ1㎝ほどの何でも載っている参考書、各2冊をわたしは黒いボールペンで、覚えたら塗り潰し、何回も読んだ。50回は読んだ。そしたら参考書はほとんど真っ黒になった。今度は、解説を読んで、何が書いてあったか、想い出す訓練をした。そういえば豆単は50回は読んだと思うが、あれも最後は黒で塗り潰した。
 国立でも、一期校は、3月3日4日5日の3日間に渡って実施された。午前午後各1科目である。私の受けた年は、国語が、異常に難しかったため、全体に点が低かった。古文と漢文に自信がなかった私には幸運となった。数学は、90点は取れたと思う。九大の英語は、文法はなく、8:2で、英文和訳と和文英訳が出た。私は知らない単語がなく、直訳で埋めた。日本史と世界史は、各科目60の空欄を完璧に埋めた。ほとんどやらなかった生物は、遺伝が出て、そこだけできた。50%のできだ。
 こうしてわたしは3月15日の発表を郷里の別府の家で待った。発表までは毎日岩波文庫を一日一冊のペースで読んだ。この習慣は、結局大学入学まで続いた。合格発表の様子はテレビ中継されて、西日本全域に流された。九州では、九州大学の名声は別格であった。九州大学と聞いただけで人々は畏敬の念を持って見た。だから発表が予備校スポンサーで、東は関西、西は沖縄までテレビで中継されると聞いても不思議はなかった。西日本全域の秀才たちが受験するのだ。
 わたしは発表の日、映画館で燻っていた。正午前家に電話した。中継を観ていたのは、祖母と母。母が出て「たけちゃん、おめでとう」と言ったのを覚えている。「今、ばあちゃんと泣いたんで」。私はその言葉を胸に、大分市の映画館を出て12km離れた別府までタクシーに乗った。いろいろなことが頭の中を流れた。ずっと家に籠もり勉強したこと、毎晩温泉に弟と通ったこと、温泉の帰り道、綺麗な星空を見ながら、いつか赤い糸で結ばれた、誰かにあえるこのろうか、と密かに思ったことなど。母の、祖母の喜ぶ顔が嬉しかった。わたしに辛くあたってきた父が喜ぶ姿を、見て驚いたこと、入学式には、二人が博多まで泊りがけでやってきたのも、今では懐かしい思い出になった。嬉しそうな父と母の顔、晴れがましい父と母の顔、この時だけは、暗かったわたしの心も高揚していた。
 長かった旧帝大への道を、悪条件の中、私は自分を信じて、ひたすら自分の方法で戦ってきた。
 中学時代の級友、決して親愛の情などない級友が、「阿部、お前は受からない」と言った言葉がわたしの頭の中を流れていく。

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