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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川中等、白鷗附属、両国附属、富士附属へ/戸山、青山へ/本物の塾

2019.07.14

令和元年七月十四日 梅雨酣 

 このところ新作にあてる時間がなく、ややいらついていたのでしょう。課題の添削で一日を潰してしまう日々に竹の会の危機を直感するようになりました。夢中で新作を創作するのが今までのわたしの姿であったからです。わたしの作るものは、精魂を傾けているからなのか、たちまち人を虜にしてしまう。補充として作り始めた課題レジュメもいつしか真面目にやる人たちにはかけがえのない存在になってしまっていたようです。

第2章 本物の塾を知らない人たちへ

 そもそも塾の仕事とは、何なのか。子どもたちの成績をあげること、そして受験に成功させること、至極普通の答えである。しかし、ちょっと待って欲しい。塾は、どんな子でも、そのような塾の仕事ができるのか、考えてみて欲しい。まるで勉強などに関心のない子に塾は目論見通りの仕事ができるのか。部活で、毎日暗くなるまで練習する子、土日も練習、もしくは試合という子たちに、塾本来の仕事はそもそも可能なのか。もともと地頭のない子に塾本来の仕事を全うできるのか。世の中には、普通に理解できることを受けつけない子がいるという現実から目を逸らすことはできない。 大手の塾、特に、進学塾が、そういう子を相手にすることはない。しかし、栄光やエナといった補習ももちろん可という大手なら、そういう子も受け入れるであろう。巷の個人塾、中小塾なら、経営基盤が、脆弱だから、とにかくどんな子でも受け入れるであろう。かなり危うい話しではある。
 わたしは、入会試験で、切ることにしている。正直たいていの子は経験してきた。中には、発達障害の子、自閉症の子もいた。中学で、オール1という子も何人か見てきた。記憶ができない、という子もいた。世の中には、そういう子もいるのである。塾の仕事ができるのか、わたしは、悩みながらも、少しでも前へ進めることができればと、為し得る全てを試してきた。こういう子たちには、根気よく何度でも挫折を繰り返しても続けることであるということも学んだ。受験は高望みしなければ、道があるということも分かった。ただ、塾本来の仕事はできない。少なくとも私の理想とする、やりたい仕事ではない。
 私には、仕事が可能な最低ラインというものがある。だからできるだけ最低ラインを下げる努力はしてきた。しかし、もうこれ以上は無理という譲歩できない線はある。
 まず、子どもに勉強意欲がない場合、指導は不可能である。
 能力はある、最低限の能力はある、なのに、性格が、邪魔をして、勉強に対して正直でない結果、指導ができない、という子もいる。
私は私の仕事をしたいだけである。私の想定した結果を出すこと、これをも仕事の内容と考えているが、私の仕事には、前提として、わたしの指示通りに、子どもたちが動くことが、予定されている。指示どおりに動かない子どもを導くことはできない。子どもたちが、私の思惑通りに動かないのは、親の姿勢に帰因することも多い。親の計画する、恒例の帰省は、子どもには楽しいものに違いない。親の意向なのか、習い事、稽古事、各種のスポーツに熱心な子、家庭もある。こうした価値観は、わたしの仕事の、重大な阻害要因としてはたらくであろうこと、その結果、実は失敗が、事前に予測できていたこと、それでも親子の意向を受け入れて、仕事を引き受けるというのは、相手は、それでも受かる気でいること、その真剣さの故に、もしかしたら合格もあるかもと動いたこと、これらはすべて真実であったと思うし、しかし、現実には、そうはならなかった。不合格は変わらい、という事実が積み重ねられた、だけであった。

 今、あなたたちは、竹の会史上完成域にある、指導者の最高の指導を受けている、ということ、だけは間違いない。それは、わかる人にはわかる、わかる子にはわかる。他塾を経験した者なら心から「そう思う」。遅れて竹の会へ来た者は、竹の会の指導を受けてみて、さらに先に来た子たちの姿を見て、さらにはこれまでの塾と比べて、その明らかな違いに愕然とする。これには例外がなかった。それまでの塾に通っていたことが、なんと無駄な時間、期間であったかを心から後悔することになる。竹の会に来た親子が必ずそう感じる。これには例外がない。必ず後悔する。なんで竹の会に早くに来なかったかを後悔する。それほどに竹の会の指導の歴然たる違い、素晴らしさに心打たれる。竹の会には、ごまかしはない。「わかる」かどうか、常に、これと対峙してきた。

 竹の会を疑う人たちとは、他塾に通う者、竹の会を知ろうとしない人たち、頭から否定する人たち、である。
 今、いる会員、親、子は、竹の会のことを素晴らしいと言う。卒業生たちも竹の会を素晴らしかったと言う。ところが、竹の会を知らない人間が、竹の会を批判する、これは、ちょっと何を言っているのかわかりませんね。ご存知のように竹の会は退塾を塾の側から勧めることが多い。だから短期間「いた」という人もそれなりにいる。そういう人が竹の会に批判的なのはしかたない。ただ竹の会に入塾もしていない人たちがしたり顔で竹の会を批判ではなく非難するのはまったくわたしには理解不能です。
 さて、あなたたちは、竹の会の、私の、本当のことは何も知らない。竹の会の指導の凄さを知らないし、知ろうともしない。竹の会のリアルを、凄さを知るのは、実際に、私の指導を受けた人間だけである。
 私は、ここ数年、指導の妙を会得した、と思っています。生来わたしは子どもたちの心の微妙な動き、心の綾を読み取る才能に恵まれていました。わたしは、子どもたちの脳の信号を感じとり、今、何を逡巡しているのかを、一瞬で読み取り、的確な指示を与えることができると思います。これが、私の特技です。長年の指導で、体得した指導勘が、子どもたちに、的確に、進むべき道を示し、導く、のです。これが竹の会の指導の妙です。
 竹の会の外では、竹の会を知らない人たちが、都合のいい、勝手な仮定、事実の裏づけのない虚構を根拠に非難をしますが、不思議と中からの批判はありません。竹の会に実際に子どもさんを通わせる親御さんたちが、批判するどころか、感動と賞賛に満ちているのに、関係のない人たちが何の文句があるというのでしょうか。
 もっとも内部で批判的ならやめてますよね。
 同じ塾なのに、なぜこんなにも違うのか、と思った方もいるでしょう。いやいやあなたたちが、他塾から他塾へと移ったのなら、何の違いも感じなかったはずです。あなたたちが、竹の会に来たから、なんです。塾というものが、初めての人にはわからないかもしれません。しかし、竹の会から他塾へと移ったら、よくわかるはずです。
 竹の会は、目に見える形で、力がついていくのが、わかる。たちまち力がついていくのがわかる。ただ竹の会で潰れる子もいる。やる気のない子、勉強にスタンスのない子は、崩壊する。やる気がないのが、能力に帰因するなら、わからないから、面白くないのであり、しかたない。ゲームとか、遊びとか、時には、部活も、実はあやしである。こういう親子は、オモチャを与えるというだけの、なんとも絶望的な、消費生活を送るだけの存在としてあるだけである。
 やる気がない子の中には、頭はあるのに、やる気がないという子がいる。口癖は、「面倒くさい」である。なにもかも面倒くさがる。ごろりと横になってなにもしないのを好む。こういう子というのは、昔からいたのだが、何もしないで、やる前からあきらめている。最初から挫折している。生きるという切迫感がない。こういう子の母親というのが、いつも子どものことばかり思い、心配ばかりしている、というのも興味深い、共通点である。正直に言うと、こういう子、勉強に消極的なスタンスの子の指導は、不可能である。

 何に悩みを抱えたのか、どこで君はそんなに重い悩みを抱えてしまったのか。なんとも弱々しい心のありようかではないか。頑なに心を閉ざし、拒絶する態度。それでも昔の私なら気を取り直し、何とか心の隙間を見つけて入り込もうとした。少しずつはいっていく、しだいに心を広げていく、それまでに、何カ月を要したことだろうか。ある日突然心を開く。わたしは一つ一つ、本当に少しずつ知識をそっと置くように脳に積み重ねていく。わたしのできたことはそれだけであった。

 わたしに何ができようか。卑見を言えば、母親が作ってきた、作りあげてきた、見事に母親の屈折を体現して育っているではないか。どのように育てれば、このような子になるのか。母親の力は強大である 、そのゆえに捻じ曲げられたらもう元には戻れない。
 本物の塾、これはわたしが追い求めてきた、理想の塾の姿であった。子どもたちが、勉強することに、熱心であること、子どもたちが「わかり」ながら、進めていくこと、「わかる」ということが、自他の目に見えること、子どもたちが、力をつけていく様子が、目に見えること、指導者が、「できない」、「わからない」ということを敏感に感じ取り子どもたちの状況を常に手に取るように把握していること、そういうことを第一としてきた。竹の会という塾が、本物の塾であるということ、本物のということを親御さんが「わかる」、竹の会は違うということがわかる、そうでなければならない、と私は思ってきた。
 わたしは、本物の塾を求めて、竹の会を本物の塾にすること、を常に、念頭に置いて、すべての先決条件として、最優先してきました。
 竹の会に入会された皆さんが、一瞬にして、竹の会の本物を悟る、これがわたしの喜びです。

 竹の会に子どもさんを通わせる親御さんたちはみな寡黙です。サイレントカスタマーという言葉がありますが、竹の会をどのように思われているのか、わたしは子どもたちとの会話を通して推し量ることしかできません。ただ子どもたちの言葉の端々に竹の会への信頼を感じとり、垣間見ることも少なくありません。時折何かの用事でわたしへメールなり、お手紙なりを頂くことがありますが、竹の会という塾、わたしの指導への感謝に満ちた言葉に満ちたものばかりです。サイレントの向こうが少しだけ透けて見える瞬間でした。

 このところ我が家では、竹の会をいつまで続けるのか、いや続けられるのかがよく話し合われます。脊椎の状況がよくないのです。みなさまにご迷惑をおかけしないようにと今はそればかり思い詰めております。いろいろ御心配をおかけして申し訳ありません。

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