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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

小石川中等・両国附属・白鷗附属/最低でも都立青山/生き抜く/その他

2019.05.31

5月31日 金 5月最後の日 曇り

 

◯生き抜く
 第1章 選択

 受験、受検という選択の次は、塾の選択となるのが、流れであろう。その前段で、塾に行く時期の選択ということもある。以前に、わたしが、塾に行かない子たちについて、せっかくの訓練の時期を無為に過ごすことのマイナスを説いたら、当時の「塾長日記」の掲示板に、「危険な思想ですね、うちの子は塾に行かなくても受かりましたよ」という書き込みがありました。当時、「危険な」という表現に違和感を持ったことを覚えております。事実をすべて捨象して、「受かった」という事実だけを一般化して、だから塾は要らないとか、言うのは、どれだけ荒い頭をしているのか、こういう人にまともに反論する気にもなりませんが、小石川に受かったのか、九段なのか、この辺もすべて闇の中なわけです。昨今、いろいろと主張する人がいますが、すべてに共通しているのは、事実の検証がない、ということです。事実を知らないで、勝手に、ステレオタイプではないが、こんなものだと想定して、それを根拠に主張しているわけです。わたしは、こういう輩は相手にしないことにしております。
 さて、私立受験を選択するか、公立受検を選択するか、で塾の選択も、迷うことになる。というのは、昨今は、私立難関を受験する層が、小石川などを併願先にする例が相当数に上るからです。小石川の場合、併願受検率は、80%を軽く超えると思われる。数年前の小石川の説明会では、75%と公表していました。
 しかも私立難関受検者の合格率が、高いと思われる。これは、適性問題の実質が、思考型になっていることは、私立難関受験者には、好都合ということがあります。よく作文がこういう子たちには、ネックとなるのではないか、と言われてきましたが、かつて小石川に合格した、開成合格者2名の作文の得点を当の親御さんから教えていただいたことがあり、それによるとその方のお子さんの作文点は、18点であった、お友だちのやはり開成合格の子はなんと16点であったらしい。彼らが、適性Ⅱ、Ⅲで相当な高得点を取ったということでしょう。またこのことは、難関中受験者は、学科試験では高得点が取れるということを教えています。難関私立受験の子には、思考型と言われる適性試験などなんということもなかったわけです。さて、そうなると、私立受験をするわけでもない公立中高一貫校受検の子たちが、公立中高一貫校型大手塾に行って受かる可能性というのは、限りなく低いはずです。しかし、現実は、必ずしもそういうわけでもない。私立を受験するわけでもない子たちも受かっているし、中堅私立中受験者も多数落ちているからです。偏差値試験型と適性試験型に惑わされる中間的な知能の層にある子たちには、先の論理は通用しないということのようです。

 第2章 競争社会を生き抜く
 選択社会においては、選択で吉と出た者は脚光を浴び、選択に失敗した者は、顧みられることはない、忘れ去られる。社会とは、社会の承認を得られた者とそうでないと者とを序列化し仕分けしていくしくみである。承認にも段階がある。また承認から漏れた人間を人道主義とか、博愛的思想とか、要するに、社会逸脱行動を制御するための、ガス抜きをするのも、社会秩序を破壊から守るためにほかならない。それは社会の本来の目的ではないから、本末転倒となるような、弱者重視は社会の本音ではない。
 難関私立を選択したとしても、競争社会、つまり根源的には、生存競争社会である以上、選択されるのは、能力のある者から、ということであり、選択から外れる者が、多数出ることはこの社会の当然に想定したことです。それがまた選択されることの価値を高めることになります。すなわち価値というものは、多数の失敗によって高められる構造になっているのである。競争社会というのは、本質的に、多数の敗者によって支えられている。敗者があるから、勝者の存在に価値がある。このパラドックスが、矛盾が、競争社会の本質です。
 わたしたちは、この世に生まれた瞬間から、熾烈な競争社会の中に放り出される。門閥、生まれ、家系、DNA、そうした特別の装置は、競争社会において、最初から、与えられオプションであり、スタートは最初から不平等であることを前提としています。競争社会は、すべての競争する者に平等なスタートではない。不平等が当たり前なのである。
 都立中高一貫校の選抜試験の競争倍率は、5〜8倍である。つまり、ほとんどの受検者は、落ちる。落ちた者は、たいてい区立に行く。3年後の高校入試をもちろんめざすわけである。どの程度の高校に行くかで、その人の辿る人生の中身がほぼ決まる。都立トップに行くか、私立難関に行くか、もちろんその先の大学を見据えての、それぞれの選択がある。部活に流されて、勉強しなければ、低偏差値高校に行くほかない。単願推薦という事実上の無試験入試である。ほとんど、大多数の人たちがとることになる、この選択は、すでに、この社会では、どのような人生を歩むことになるか、だれでもわかるほどに見えている。社会の底辺を世間を呪いながら、生きていくことになる。競争社会において、競争に敗れた者の人生ほど、悲惨なものはない。底辺の生活が、残酷なほど、競争の意味は重きをなし、勝者、勝ち残ることの価値が高まる。

 第3章 生きる力
 「生きる」とは、生存をかけた闘いであり、競争は、必然なのである。野生動物の世界では、弱肉強食は自然の掟であり、ひとり人間社会にだけ、この論理がない理由はない。弱肉強食とは、生き残る戦略を排除しない。力だけが許されるのではない。知能が、力を制するのは、むしろ普通のことである。人間は知恵がある。だから騙す、悪を働く、このときは、悪人が、強者であり、騙される側が、弱者となる。
 選択の度に選別がなされる。選択を回避する生き方は、敗者の選択にほかならない。今やることを、やるべきことを先送りする生き方は、敗者の選択にほかならない。生きるということは、生き抜くということである。生きるとは、力のかぎり生き抜くということである。休息は、生存を脅かす。勝利の瞬間、ほんの瞬間、安らげばいい。勝利の後に、休息などない。本来ない。生きるとは、そういうことだから。
 あなたたちは、この世に生まれた時から、生存競争の真っ只中に放り出されることになる。人間社会では、親が競争力を獲得するまで、保護することになる。が、ただ保護にのみかまけていれば、甘えしか知らない、つまり競争力のない、人間として、社会に「置く」ことになる。置物である。叩かれ、小突かれ、踏みつけられた、雑草のような競争力を強かに、血として肉として、たたき込まれた人間は、強い。学校出てなくて、なんとか、時には、悪いことをしてでも生きていく。競争力とは、本来そういう灰汁を内在するものである。
 親は、子どもに何を一番に、教えなければならないか。それは生きる力である。言い換えれば、競争力である。生きるとは、生存をかけた、つまり生き残りをかけた、この競争社会で、生きる、生き残る、ことをめざした諸活動にほかならない。親は子どもに生きるということの意味、現実を教え、生き残るには、戦うしかないことを教えなければならない。
 甘やかしというのは、子を競争社会の敗者にする、愚行にほかならない。過保護は、親の自己満足のために子を犠牲にする愚行にほかならない。親は温室であり続けることはできない。温室育ちの子の闘争力の欠如もさることながら、温室そのものの経年劣化は避けられないからである。

第4章 竹の会の指導

 さて、話しを180度変えます。
 竹の会の指導というものについての理解を深めていただくという章です。現在通われている、小学生の皆さんには、竹の会の指導というものが、わかってきた、あるいはもう十分に承知しています、という皆さんもいるでしょう。
 ご存知のように、竹の会では、レジュメと呼ばれる、わたし作成のプリントですね、これを指導教材として、いわゆる指導を実施していきます。
 指導とは、長期的な視野のもとに、ある小目標を設定し、その目標達成のために、組まれる体系的な指導手順に従った指示、思考、添削、指導、再考、添削、指導の繰り返しを指す、と一応言っていいでしょう。指導の体系は、小数から始まり、和差算、剰余算、分数の扱い、分数の最終章としての逆算、割合の概念、と竹の会では、割合習得過程を通しての思考訓練、割合という飛行場から離陸して飛び立ち、空を縦横に駆け巡る、までを想定しています。すなわち想像を自由に働かせた思考の世界を駆け巡る、すなわち自分の意思で、判断し、飛行するまでになる、それを最終目標とするのが、竹の会の指導です。指導の成功は、飛行場を飛び立ち自らの判断で操縦するまでになること、である。
 飛び立つ、いつ飛び立つか、早い子もいれば、遅い子もいる。割合指導過程なら、いつ飛び立ってもおかしくない。なかなか飛び立てない子もいる。割合指導過程の最終段階に至るまで、飛び立てなければ、残念ながら、思考世界への移住には、失敗したと見なければならない。
 竹の会の指導は、子どもたちが、思考世界へ移住するための手助けをするものです。割合指導過程は、飛び立つ、つまり自分で操縦し飛行する訓練の過程であるとともに、いつでも飛び立てる機会の提供でもあります。竹の会の割合指導過程は、最初の割合テキスト(レジュメ集)である「算数の魁」から始まり、「思考の鍵」「ようなもの」「小学思考の素 割合問題編」、「新小学思考の素」、「小学思考の素 その他の問題編」までを基本過程としております。このレジュメ集段階のいつでも飛び立てる。飛び立てるとは、自分で考えて「解くこと」だ、ということは、もうお分りですね。
 「算数の魁」に入るまでの段階を初期訓練過程と仮に呼ぶことにします。この初期課程の、最初は、「割合ドリル」から始まります。この過程では、さらに「割合感覚基礎ドリル」「割合の定義」「割合感覚訓練」「魔法学校の割合教室」「単位あたり量入門」、などさまざまなレジュメ集による訓練を重ねます。ここでは、割合の基礎概念を徹底的に叩き込まれる。
 この初期過程に入る登竜門となるのが、逆算を最終段階とする計算習得過程です。小数から始まり分数まで、さまざまな計算の約束を使えるまで、訓練します。最終的には、難関中学で出される計算問題が解けるまでになる。これに要する期間は平均3か月と見ております。竹の会の実際例では、小学3年の例では、3か月で計算マスターになった子もいれば、7か月かかる子もいる。小3でも、小4でも、変わらない。竹の会に小5に来ても、計算からです。小5でも分数もわからないという子ばかりです。親がここまで放置しておくのがわからない。なんの訓練もなしに、つまり塾に通わせることもなく、小5、中には小6になるまでほったらかしの親もいる。あるいは塾に行っていながら、計算もできない、もちろん割合もわからない、という子もたくさんいる。こういう子たちが平気で受検すると言う。親もその気になっている。
 だが、ちょっと待ってください、遅いでしょ、と言いたくなる。早くから思考作りをしてきた子たちと比べるともはや手の施しようがない。
 だから、始めるのは、早い方がいい。もちろん竹の会の訓練のことです。他の塾のことはわかりません。私が知っているのは、大手を含めて他の塾で一年も二年も無駄にしてきた子たちのことです。大手に小4から通っていて、それがよかったなどという子など終ぞ知らない。大手に行って、思考のできない、カチカチの頭、脳になってしまった子ならいくらでも見てきた。
 中にはもともとの知能に恵まれた子が、大手に通って、割合の問題もそれなりに解ける、しかし、落ちたという子もいる。もし竹の会で訓練していたならば、かなりの思考達者になったであろう、と思われる子たちであった。大手に通って、できるとされる子たち、その親たちが、その大手から、離れることはまずないでしょうから、竹の会の指導を知ることは永遠にない。
 竹の会の指導を早くに始めることこそが、思考世界への最短、最速の道となる。その信念から、竹の会は、小4スタートを推奨してきましたが、その指導開始年齢は次第に前倒しとなり、小3後期開始で成功して、さらには、令和元年から、小2の指導を視野に入れております。

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