画像
都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

常に、主語は何かを意識する

2019.02.06

 春の陽気の翌日はそぼろ雨。北海道にはロシアから大寒気団が襲来との予報あり。東京でも雪の情報が出ております。まだまだ2月に入ったばかりですからね。今年の心身の消耗はことのほか激しく、正直今は考えまいとしてきた父母のことが今になって重くのしかかってきます。とにかく今は受検も終わり、子どもたちには落ちつかない日々です。わたしはもう十年以上、受験なら33年以上、このような経験を毎年のようにしてきましたので、それなりに心の処し方というものを身につけてまいりましたが、それにしても、掲示板に番号が「ない」ということほど切ないものはない。抗えない判定に一瞬で死刑判決を受けた如く頭が真っ白になる。思考が停止する。わたしはこの時この瞬間のどうにもならない現実を受け入れて、次は、決してそのような事態にはならない、と掲示板にさっと背中を向けて、歩き出したものです。

 世の親は、掲示板の非情を知らない。小5はもちろん、小6になっても、夏が過ぎるまで、なんとも楽観的なのにはたびたび驚かされてきた。わたしはたびたび警告を発してきたけれど暖簾に腕押しでした。素人と玄人の差というのは、地獄を見たか否か、です。素人は地獄を知らないから、いくらでも楽観的になれる。九段を受けるイコール合格した気になる、のが素人です。とにかく「受かる」と思っている。そのくせそれに見合った努力はしない。

 高校入試について言うならば、もう中2の冬あたりから本気モードに入らなければだめだ。どんな理由があっても成功したかったら、すなわち第一志望に合格したければ、勉強の手を抜いてはならない。部活は受験には天敵となる。わたしは、部活に熱心で受験に成功した人を知らない。竹の会で都立トップクラスに落ちたのは、部活を中3の夏まで引き摺った子だけである。わたしの指導の見込みを悉く裏切ったのならこれも仕方ない。中学は、特に、わたしの知らないところで、勝手に「やる」ことが、結局致命的な結果になるということをよくよく肝に銘じておく必要がある。レジュメを出さなくなったらたいていは退塾の運びとなる。そもそも竹の会で中学3年間、つまり受験まで「いる」ということは難しいことであった。たいていは部活で成績を落とし、部活で疲れて竹の会で居眠りの常習者となり、退塾を余儀なくする。ここから理解してほしいのは、竹の会では、余程のことがない限り、つまり「やれる」という確信がない限り、中学での指導を受けないということだ。こつこつと努力する子でなければ竹の会は務まらない。中学というのはわたしの指導がいつしか蔑ろにされる、やらなければやらないままにやり過ごされるという例には事欠かない。それから中学で、家庭学習時間がほとんどないというのは竹の会では考えられない。わたしの希望は、5時間である。受験に成功するというのはそれに見合った努力があってこそである。3時間というなら、早晩成績は下がる。もちろん0時間は論外である。

 小学でも所期したように伸びないという事態は当然にある。当初入会試験の結果を見て「指導可能」と判断しても見込み違いというものはある。特に、小3、小4早期では、隠れた知能というものが見えないことが多いので、指導してみなければわからないということがある。さすがに、小5直前の小4だともう見えてくる、小5になると才能はほぼ確定している。それでも、受検するのか、ということがある。竹の会としては、「要相談」とするしかない。この子は合格レベルにまでいく、というのは当然にわかる。が、わたしにはその限界のところでいずれともわからないという子たちがいることは確かである。これまで合否判断留保の子たちが受かった複数の事例がある。ことはやはり知能の見極めにかかる。努力量も要素となる。国語能力というものが別に寄与したということもあった。このどう転んでも合否いずれもありうるという、「わからない」という域の子たちがいたわけである。これはわたしにも予測しきれない。伸びないという子がどうしても続けたいというとき、はっきりと拒否できないのは、こういう事例を経験してきたことがある。

●常に、主語は何かを意識する

 人は、主語で、価値の軸が分けられる、と主張するのが、「天才を殺す凡人」の著者北野唯我 である。北野は、凡人、秀才、天才がそれぞれ、何を主語にするか、定義している。それによると、凡人は①、秀才は②、天才は③ということらしい。
  ①自分、相手、家族仲間など人を主語とする人
  ②組織を主語にする人
  ③抽象世界を主語にする人

主語と責任転嫁
 北野の定義を借りて、主語と責任について、考えてみよう。
 自分を組織の一部として語る人というのは、責任というものをまず取らない。やったのは、組織であって自分ではない、というわけです。組織とは、自分の存在を曖昧にする、格好の隠れ蓑です。官僚制というのが、役人の責任を雲散霧消させる装置であることは、周知のことです。主語を組織にする人は、信用ならないということです。
 これと違うのは、自分を主語にする人、こちらは、一応責任の所在は明らかにしている。ただ責任の所在は明らかでも、実際に、責任を取るかどうか、は別の話です。

 ここで、主語の取り方として、整理してみて、自分を含めて、人を主語にする場合、がある。これは、一人称(私)、二人称(相手)、三人称(家族など)すべてあるが、とにかく「人」の場合である。
 組織は、三人称であるが、具体的な組織である。ところが、三人称でも、抽象語を、主語にする人たちがいる。これは、「わたくし」という、私小説的世界の主人公とは、もう次元の違う世界にいる人である。さらには、組織というしがらみもない。もしかしたら、組織に属するとしても、組織の中では異質の存在であろう。そういう人が、主語として用いるのが、抽象世界的な主語である。

 北野の定義を分析概念として、主語のもたらす、個人への影響について、考える試みから、何か見えてきたか。
 まず、一人称を主語にする人たち、北野の言うところの凡人、については、かれらが、私小説的世界の主人公である、という規定が、物事の構造を明確にする。 
 次に、組織を主語にする人間であるが、隠れ蓑を着た人間、自分を絶対に損をしないような位置におく人間、武士道からは卑怯者と言われる人間である。
 最後の抽象世界というのは、私の定義であるが、北野は、抽象世界を主語にするのは、天才という。
 ホーキンズ博士が、常に、「宇宙」を主語にして語る如しか。「地球は」「自然は」「野生動物たちは」「政治は」など。

 「幕府は」と武士が、語るのは、「組織」を主語にしたものだが、私たちが、語れば、抽象世界が、主語である。

 私たちは、私小説の主人公的な位置にいる限り、凡人として、自分の意見はない。常に、人の意見、いや好感の持てる人が、言ったから、そういうアホな理由で、自分の意見を決める。他人に共感できるか否か、が、基準であり、常に他人に依存する。
 凡人には意見はない。だから、街頭で、テレビが、凡人にマイクを向けるのは、世の中の大多数を占める凡人の傾向を知る以外の、建設的な意味はない。凡人は、誰が言ったか、で、判断する。橋下元知事が言ったから、小池知事が言ったから、と。
 凡人は、権威には、無条件で、降伏する。最近は、権威には、秀吉も絶句するほどに、先回りして忖度する役人が多数発生しているのはみなさんもご存知の通りです。凡人は、東大教授が言ったから、信用する。専門医が判断したから信用する。誰がいったからで、共感する。権威には無条件で共感する。
 凡人は噂話が大好きで、私小説の主人公よろしく、然として、喧しく話しをする。気に入らない人にはずっと悪口を言い募る。誰に共感するか、しないか、要は、好きか嫌いか、言い合って終わる。意見の中身などどうでもいい。郵政民営化の中身は知らないが、小泉に共感する、それだけである。今の自民党政権も、この凡人たちによって、支えられている。

 作文では、「あなたの考えを書きなさい」とある。あなたが、共感する意見を書け、とは言っていない。温暖化論に、共感できない、とか、共感できる、とか、好きだ嫌いだ、と書けとは、言っていない。「いい、悪い」という正義の味方論も、好き嫌いに還元できる。つまりは、共感である。

 私小説世界の「人」に共感する、生き方から、抽象世界を主語にした世界への、ワープをしなければならないときが、くる。
 人に共感して、人の意見を吟味しない。そういう人間が、大多数の世の中で、その大多数の気分で、政治が決定されるなんて、原発が、共感のなりゆきで稼働されるなんて、凡人ほど恐ろしい者はない。
 人が、何を言っているのか、客観的に、批判検討もしない人にはなって欲しくない。
 小林秀雄は、人間に独自の、オリジナルの意見などない、すべて誰かの意見の焼き直しだ、と喝破したけれど、確かに、私たちは、先人の知恵以上のものは何もない。誰かの意見の模倣をしている、真似をしている、だけであるけれど、ただ、意見というものを自分の頭で客観的に読み取り、理解する、そのうえで、論理的に批判をする、そういう最低限の知能だけは、譲ることはしてはならない。
 さて、私たちが、抽象世界を主語とすることは、私小説世界の主人公を否定することであり、共感ではなく、人の意見そのものの正当性を判断するためにも、必要なことである。
北野は、天才が主語とするのは、というアプローチであるが、わたしは、天才などに興味はなく、ただ、私たちが、考えるときに、思考の場での主語について、私論を述べているに過ぎない。
 小学生の作文では、「友達が」「お母さんが」「お父さんが」「先生が」と人が、主語の文ばかり。だから作文も私小説な中の出来事になってしまう。わかりますか。

ページトップへ