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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

引き付け/都立中高一貫校の攻め方/良質の都立高校へ行くには/都立桜修館/都立小石川/都立両国/都立戸山/都立青山/都立新宿/独自校と内申

2020.09.01

 

引き付けるとは、何か
 高校時代の柔道の経験ですが、わたしは鮮やかに内股を掛ける先輩に憧れていました。この先輩は、がっしりとした体格で、背もあった、大男でした。技は内股のみ。来るとわかっていても掛かってしまう、見事に相手は回転して畳に叩きつけられました。ただこの先輩の内股も次第に警戒されてか、なかなかかかりにくくなっていたと思います。
 わたしは、高校1年生になって間もない頃、この先輩に意を決して言いました。「〇〇さん、内股を教えてください」。すると先輩は、驚いた顔をして、黙って、わたしの襟と袖を取り、力強く「引き付け」て、言いました、「これをやれ」。ただそれだけでした。わたしは、内股の掛け方を教えてもらえると思っていましたので、キョトンとしていました。そういえば、先輩が、引きつけの練習ばかりしていた同学年のSに、「お前、名前は何と言うんだ」と声をかけていたことを思い出しました。
 わたしは、この当時は、まだ「引きつけ」の意味がわかっていなかった。引き付けは、技を掛ける前に、思い切り相手を密着させておいて、一気に技を掛けるために必要なのだ。引き付けが技の切れを引き出すのだ。
 これはボクシングで、相手に密着して繰り出すボディブローの威力が抜群であることと同じである。
 翻って考えてみれば、剣の闘いで、斬る、斬れる というのは、相手の懐に入ったときである。新選組の局長近藤勇は、剣の腕は田舎目録程度であったが、真剣で敵うものがいなかったといわれる。近藤は平気で相手の懐に飛び込んだ。真剣の戦いでは、相手の剣の刃尖の中に入るのは死を覚悟しなければできない。近藤は死を恐れなかった。真剣の戦いでは、死を意識したときは、斬られるときだ。死と隣り合わせの真剣の戦いでは、死を覚悟した者が勝つ。俗に胆が座るというが、これは死を覚悟している、少なくとも死をかけているという意味だと思う。「必死」というが、これは主観的には、無我夢中の様を言うのであろうが、客観的には、「必ず死ぬ」というギリギリのところを言うのであろう。
 わたしが、「引き付け」という思想に惹きつけられるのは、そこに何か可能性、光明を感じるからかもしれない。「引き付け」という態度、行為は、主観的には、冷静な精神を想定している。いきなり攻撃するのではなくて、まず「引き付ける」のである。技をかけるのは、「引き付け」た瞬間である。時間にして、0.1秒。
 話しは少し脱線するが、この0.1秒には、実は深い意味がある。記憶するとき、凡人は、時間をかけるが、これが記憶の法則に反するのだ。何かを覚えたいというとき、その事項を何分も見て脳に刻みこもうとしても逆効果だ。記憶の極意は、超短時間、0.1秒、比喩的に言えば、「ちらっ」と見る、大切なのは、これを反復することだ。0.1秒を間隔を置いて100回見る、これが記憶の極意である。0.1×100=10秒。トータル10秒だ。

 記憶の技術としては、意味による記憶も大切だ、意味は、創作ストーリーも含む。とにかく意味さえ通れば覚えられる、それが人間の脳である。逆に、無意味な事柄ほど脳に拒絶される。難敵は、英単語、年表だ。わたしは、語呂合わせで関係づけたが、英単語については、例文を通して覚えるという提唱もあるようだが、個人的には関心はない。
 脱線はここまでにしておく。話しは、「引き付け」に戻す。
 学問において、引き付けるとは、どういう意味を持つのか、というのが、これからの話しである。
 物理的な引き付けのことを、勉強にスタンスが向いている、と言うことがあります。勉強するからには、きちんと勉強と向き合っていなければならない、のは当然です。いわゆる「ながら」勉強は、この点で、落第です。引き付けるというのは、集中するというのと同じです。
 具体的に、分析してみましょう。
 例えば、数学の勉強をする、として、さらに、具体的に、高校数学Iの三角関数を学ぶとします。わたしの高校時代の、数学授業が、どんなものであったか、というと、まず、教科書はあるけど、やらない。いや授業はない。問題集を渡されて出席番号順に割り当てていく。次の授業が始まる前に、各人が、当てられた問題の答案を黒板に書いていく。授業が始まると教師がやってきて、黒板の答案を順に見ていく。それだけである。生徒は何をやっているかというと、必死に写す。ただし、字が見えにくい、読めない、教師の説明など聞いている暇もないなど、とにかく滅茶苦茶な授業だった。教科書は授業の前に自分で読んで理解しろということである。わたしはこれでやられた。初めての問題を解く、そんなことができるのか。ところが当てられた奴はみな正解を書いていく。後でわかったのは、こいつらが、何冊もの参考書ガイドを持っていた、ということである。わたしはあまりにも無知過ぎた。中学の時は、先生が教科書をきちんと説明してくれた。しかし、進学校では、そんなのはやらない。そもそも参考書を全部揃えておけ、というのは、それならそれで、そう言って欲しかった。
 後年、わたしは数学を独学するとき、定義、つまり単元の定義をまずしっかりと理解しておくことが大切だということを理解した。三角関数の定義、定義から導かれる数々の公式、そういうものを確実に理解していった。数学で言う「引き付け」とは、おそらくこのことを言うのであろうと思う。高校時代のわたしは、いきなり入試レベルの問題を解かされ、翻弄された。混乱して冷静な判断を欠いた。中学のトップクラスが、なんで「わからない? はずがない」とわたしは完全に無理をした。わからないものを無理にわかろうとした。もっと教科書を真剣に読むべきであった。進学校の授業というのは、今思えば、私には、カスであった。

 引き付けとは、いきなり大技を覚える、かけることを目指すのではなく、その前にやることがあるだろ、ということである。その前にやることがある。教科書の最初のところを、定義のところをとにかくしっかりと頭に定着させる。そして考えるときは、必ず定義に戻って考える。これが結局一番の大技に繋がるのだ。わたしはこの真理を早くに教えてもらいたかった。進学校の先生は不親切であった。能力は前提として、わかるのは当たり前として畳みかけてきた。
 後年竹の会をやることになって、わたしは、年来のわたしの考えを実践したことは勿論である。竹の会は、授業形式のときも、教科書にこだわった。数学も英語も基本にこだわった。過去問を解くときも必ず定義から解き明かした。わたしの解答は意図的に、基本の定義と繋げたものであった。定義からこんな難問に見える問題もこんなに簡単に解き明かされるんだよ、とわたしは訴えた。
 わたしの授業が評判になったのも、過去のわたしの過去問解答の争奪戦も、子どもたち、特に、優秀な子には、その大切なもの、目に見えない大切なものが、きっと見えていたのだと思う。
 今の竹の会のレジュメは、わたしの精神、竹の会の思想が、脈々と流れる、集大成である。
 去年は一年間持病に悩まされ、竹の会の子たちには、迷惑をかけてしまった。今年は、2月の入院、3月、4月の学校休校、緊急事態宣言などで、竹の会にも影響が甚だしく、休塾や変則的な対応を余儀なくされた。35年目して初めて神様がくれた、自由時間であった。学校が再開しても夏休みは、10日ほどしかなく、夏期講習が、まともに組めなかったのは、35年で初めてのことであった。ただ、これまで忙しくてできなかった、様々な仕事に取り組むことができた。先送りしていた新しい教材の開発も進められたし、これまで時間がなくて改訂できなかったレジュメにも手を入れることができた。塾が暇になりいろいろと見直すための時間だけはあった。塾業界は、大手も苦難の道に入ったのだと思う。これまでのように、大量の生徒を集めて、教室に詰め込んで効率よく処理するという発想は通用しなくなった。模試の会社も苦慮しているようである。これまでのように大勢を会場に集めて実施することが困難になった。
 もともと竹の会は、模試は参考にする程度であったが、それでもV模擬やW合格模擬はかなり信用してきた。ただこれらの模試では、独自校の資料はないに等しく、Z会などのデータを参考にすることもあったが、本来は竹の会の中でわたしが執拗に実施する過去問を実践形式で試す方法で集めたデータの方が遥かに役に立つ。過去、竹の会で都立を落ちた生徒というのは、わたしにこのチェックをほとんどか、全くやらせてくれなかった希有のケースだ。わたしより母親が差配しているという例もたまにある。これは必ず失敗した。全ての個人情報をわたしに隠すという異例の生徒には私には為す術がなかった。
 指導における、「引き付ける」とは、生徒のあらゆるデータをわたしの視界内に置くことはもちろんのことである。

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