画像
都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

思考は発見である!

2021.10.05

 

 

◎思考は発見である!

 いくら考えても解けない!それで説明をしてもらう、「あっ、なんだ、そうやって解くのか」
 これはなかなか意味深い。
 このような落着の仕方をしていると、永久に本来の思考は生まれない。常に、結局、わからない、誰かの説明を聞く、という姿勢が染みついてしまう。
 かつて私は「数学真髄」という数学のテキストを書いたことがある。そのテキストのサブタイトルには、「発見の視角」と記されてあった。
 長い間大量の数学の問題を解いてきて、到達したのは、どんな問題も「ある何か」の発見ですべて瓦解するという真理であった。
 私くらい膨大な量の問題をこなしてくると、問題を一見しただけで、あるいはさらりと読んだだけで、その「ある何か」がわかる。例えば、二次関数と一次関数の面積を求める問題は、何通りかアプローチがあるが、難問と言われる場合は、等積変形がその何かの場合がほとんどである。角の二等分線が出てくれば、たいていその何かは、三角形のその角を挟む2辺の比は、底辺を同じ比で分けることを突いてるな、とわかる。高校入試の数学は、ほとんどがこの何かの発見て゜解決する。
 このことは算数においても何ら変わることはない。算数の問題を考えるとは、「ある何か」を、求めるために、いろいろ想像すること、試行錯誤することである。
 もちろん高度の計算を、こなせること、割合の基本を理解していること、これは前提である。
 算数の問題を考えるとは、畢竟何かの発見に尽きる。
 まず状況を鳥瞰的に俯瞰する。事実は事実だけで意味はない。事実は関係性によって初めて算数的意味を持つ。時間と道のりは、例えば、時速km/時 によって初めて意味を持つ。事実の関係性、算数的意味性を認識しても、問いに答えるということは、簡単ではない。

 問いの答えは問いの中にあり‼️

 問いが何を答えるべきかを暗に示唆している。問いの、つまり、出題者の意図を探ることはそのまま解への道を探ることになる。
 発見はできる限り視覚的に探すのがいい。私は算数でも数学でも「図にかけ」と言います。
 図にかくというのは、事実を正確に読み取らなければできないことです。図を見れば事実がわかり、事実は図で語られる、これが算数の極意です。事実の関係性を図で表すこと、これは文章を読み取り、関係性で整理しなければできないことです。
 関係性を表すのに、どんな図がいいか、そういうことも自ずとわかってきます。もちろんそこには工夫が必要です。これを想像力と言ってもいいでしょう。
 図を見れば、その子の理解の状況がたちまちわかるものです。
 意味もなく駄々ぴろい図をかく子がいましたが、美的感覚の不足はともかくなかなか鳥瞰しにくい図です。しかし、多くは「そもそも図になっていない」のです。図をかく意味がわかっていない。事実を過不足なく的確に図に移設する。図を見れば事実関係が一目瞭然にわかるようにはかけていない。図というのは関係性をかくのです。関係を図で表すのです。ところが図がめちゃくちゃというか、関係性なんかなにもない、いわば脈絡のない絵を描いた感じ、これはダメだわ‼️
 算数がそれなりにできるようになったのに、図をかかない(かけない?)という子がいます。図をかかないでも解けるうちはいいけど、それも限界がある。それで「先生、いくら考えてもわかりません」ということになる。
 図をかく目的は、「発見」のためである。図をかかないで解く癖をつけてしまうと一番肝心なときに発見どころかなす術もない。
 発見というのは、活発な想像作用、創造作用の結果、浮き彫りにされてくる本質をもつ。自分の仮説に落ち度はないか、勘違いはないか、見落としはないか、こういうことを何度も反芻しながら考えていく、そのときに図に助けられたことは数えきれない。
 算数が上達するというのは、図が上達するということである。
 「図にかいて考えなさい」と言うと思考停止するのはなぜか、
 図は事実を有意的に理解していないとかけない。そもそもの算数がわかっていないのだ。事実を整理して見れていないのだ。図は工夫しなければかけない。事実の表す関係を的確に過不足なくかくには事実を構成しながら図化するほかない。何度かかいてみなければならない。一度で成功するなんて思ってはならない。とにかく工夫しなくてはならない。ここには創造の喜びがある。図さえかければ解けるということはある。長年問題を解いてきて、図が成功すればたいてい解の道筋は見えた。もちろん図では解けないものもあった。延べ人数で処理するとか、論理的に推論するとか、そういう問題もあった。ダイヤグラムの問題だとたいていは比で解けると思う。最近痛感するのは面積図の有用性である。面積図的思考を取らなければ難問に分類されるということもある。面積図はなかなかに守備範囲が広い。詰まったとき面積図的思考に切り替えるとたちまち見えてくることが度々あった。こうなると面積図の工夫をいろいろ試したくなってくる。
 さて、いずれにしても、算数というのは「発見」であり、ダイヤグラムにしても、面積図にしても、「発見」のための手段に過ぎない。要するに、算数というのは、事実を読み取る、それは図で読み取るということである。図が事実のさながらの反映、投射でなければならない。図がかけたということは、問題事実をさながらに投影したということである。図を見れは算数の力量がわかる。
 「発見」という視点
 考えて見れば、算数、数学に限らない。実は、国語にしても、英語にしても、はたまた理科、社会にしても「発見」ということではないか。
 何が問われているか、出題の背景、裏に隠された意図を「発見」することが、問いに答えることになる、ということである。
 問いの意図を発見したら、答えを問題文の中から発見すればいい。
 よく答えは問題の中にあり、と言われる。問いとは、問題の中から答えを探しなさい、という指示にほかならない。
 これと似たことに、国語読解問題がある、問題は、大きく論説文と物語文に分かれる。詩とか俳句は考えない。
 論説文の場合
 よく問いを読んで本文の該当箇所を探し「自分のことばで言い換えて」書く人がいる。しかも、必ずといって問いの形式を無視して答える。問いが「〜のことか」と訊いているのに「〜のこと」と答えないのだ。そもそも自分の考えで解釈して言い換えるなどありえない。答えは、「本文の言葉をそのままに」書き抜く以外ない。そんなことをやる親子に限って「国語というのは、作者がどう考えているかなのだこら、答えがいろいろあって、これが正解などと言うのはない、のではないか」と主張する。もちろん国語の点数が取れないことの弁明である。誤解も甚だしい。受験の国語というのは、本来の作者の意見など一切関係ない。問題を作った出題者がどう考えたか、である。出題者は、本文の字句表現以外根拠を持たない。だから出題者の考える答えは、本文の字句表現のこれでしょ、と答えるしかないのだ。問いの根拠は本文の字句表現にあり、だから答えの根拠も本文の字句表現にある。それだけのことだ。だから本文の字句表現の発見ということなのだ。
 理科などは、発見の意味がさらに鮮明である。「あっ、これはオームの法則、しかも直列と並列の違いについて問うているのだな」と容易に発見できることがほとんどである。
 社会の発見はやや特殊かもしれない。社会の場合、問いの中に必ず「キィーワード」があってそのキィーワードから発見する形になる。例えば、日本史で「庶民」という言葉が使われていたら、「御伽草子」と容易に発見できる。日本史は特に「つながり」の科目だが、発見のための「つながり」を意識した整理をしておく必要がある。
 地理はどうか。私は地理は「比較」の科目だと思っている。似たものを比較整理しておくのだ。しかも二元的に対比させて整理しておく。例えば、カリフォルニアの気候と地中海の気候は似ているから対比して理解しておく、の例である。何かと二つを取り上げて比較しておくのだ。もし四択で出ても、覚えた2つの対比が必ず役に立つはずだ。
 いいですか。地理は2つを対比して覚えろ!です。
 公民は専門用語を整理したら終わりです。制度の趣旨と骨格を押さえておく、それだけです。専門用語は、精々重要なのは50ほど、まあ、100も押さえておけばいいかな。これは中3になってからで間に合う。
 歴史は「つながり」で覚えろ、地理は「比較」で覚えろ、公民は、「制度の趣旨と骨格」を覚えろ、です

これが「発見」のための布石です。

ページトップへ