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都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

想定しない事態のこと

2021.03.06

 

◎想定しない事態のこと

 最近の私は、思考訓練の技術に、磨きがかかったというか、確かな見通しを持って、指示を出せるようになったと思う。レジュメの問題に対する「反応」で、子どもの思考の深さを測ることもできる。これまで様々な能力段階の子が、示す反応を的確に判断して、処方してきた。私の制作したレジュメ問題だから、わたしは、一問一問の反応によって、子どもの理解段階を推し量ることができる。
 図をかいて考えているか、式を立てて考え方の道筋を示しているか、単位を意識して式を立てているか、こういうところは子どもの理解を測るメルクマールになるわけです。特に、単位は、思考ミスを防ぐために大切である。単位を意識して考える子は見どころがある。ノートの字が読みやすい子は、見てて気持ちがいいが、字がきれいでも理解度とは関係ない。式を書いていても、意味不明な式だと正直幻滅する。思考の跡を辿ることができない式は、意味がない。ほかにも診るべきことは山ほどある。
 わたしは、思考の段階の様々な、私流の検査のやり方を積み上げてきた。子どもの思考段階を瞬時に的確に捉えて次の一手を打っていく、これが私の指導である。子どもと直接対峙して、現場指導を通して何が必要かを判断する、これが指導の基本である。反応を見ながらやる。オンラインの指導なんて意味がない。
 子どもに対して、常に現場で検査して、次に何をしたらいいか、考える。考えられるベストの指示を出す。私の指導は常に検査指導であり、検査に合格すれば次の処方箋を出す、検査に不合格なら、そのための処方をする。それだけのことである。
 私が、進捗がよろしくない、というのは、こうした指導の過程における指示が子どもの側で実行されることなく流される、滞る、ということである。
 こうなると指導は硬直する。なかなか先へ進めない。だから次の一手が打てない。実行されなければ、進捗などない。捗々しくなければ、指導そのものが無理で、やはり退塾をお願いするしかない。もともと竹の会は入会試験に合格したことを条件に入会を許可する建前であった。が、仮合格、仮入会を認めたことが、指導にも少なからず影響を及ばした。小3については、入会試験0点でも入れてきた。が、小3でも、基準問題(3問)で満点を取る子が普通に出ることもわかってきた。とすれば0点入会というのは、今後はない。もともと0点入会を認めたのは、早い段階の能力検査では判断できないというのがあった。しかし、0点入会した子のその後の進展はよろしくないようである。
 事態はそう単純ではない。今度は、入会試験に普通に、時にはA合格しても、指導が困難という事例が出るに及んで、悩みは深刻になった。そうなると合否に関わらず、入会後、6か月、一年毎に、指導継続の可否を判断して、指導困難と判断される場合は、竹の会は退塾ということで、割り切っていただければ、竹の会としても、そうですか、それならどこまでやれるか、全力を尽くしてみましょう、それでだめなら少なくとも竹の会はやめてもらいます、ということで落ち着く。
 

 地頭がなければ、指導は進まないのは、事実です。努力というのは、確かに、大切です。しかし、合否を分けるのは、結局地頭になる。地頭がよくても怠け者は論外です。しかし、地頭のいい子が真面目ならこういう子は伸ばしてあげたい。
 長年塾をやってきて様々な子どもたちと接してきて、たいていは、わかる、と思っていたが、最近、これまでの尺度では、測れない子たちが、出てきて、戸惑っています。
 どう理解したらいいのか、説明できないのです。
 入会試験で、A合格を取っても、本番で不合格となった子ならたくさんいます。しかし、これには、いろいろとそれなりの説明はできます。勉強に専念していなかったとということです。
 仮合格や準合格から、合格者が出ても、説明はつく。
 しかし、A合格を取ったのに、計算ができるまで1年以上かかるとか、割合の仕組みをなかなか理解できない、そういう子が、出てきて、頭を抱えた。おかしい、なぜ、どうして、というわけだ。 入会試験が機能しないのか、なぜ?
 こういう子が、自分で考えて解けるようになるのか、かなり悲観的です。
 能力は、課題を見てもわかります。作文問題に、3行というのは、小3なら仕方ないかな、と思いますが、小4、小5となると流石にこれは無理かなと思います。
 竹の会も今年で36年になります。それまでにいろいろな子がいましたが、この3年、理解不能な子に遭遇し、戸惑うことが多いように思います。

 私のこれまでの尺度では、説明できない子が出てきた。
 算数は順調にできていると思っていたのに、適性問題がさっぱり解けない、模試の成績が極端に悪いというのは、これまでの私の理解からは全く説明できないことであった。
 高校入試については、これから検証しなければならないことが出てきた。私の理解を超える事態が出てきたからだ。
 結論から、言えば、私の過去問を使った検査では、合格なのに、模試では、平均点より低い点を取る、これはどうしたことか。これを合理的にどう説明するか。
 説明不能の結果である。過去問でも点が取れないなら、符合するから、問題はないのだが。
 これは、何かが私に訴えていると見なければなるまい。
  過去問で点が取れるのに、模試で点が取れない。
  算数ができる(はずな)のに、模試で成績を残せない、出せない、これが何を語っているのか。

 そもそも平均というのは、何なのか。模試で、平均点より下とか、よくて平均点とか、これは、どういう事態なのであろうか。わかっていることは、これでは合格はないということである。
 
 かつて過去問を家で解いて、出して来た子がいました。採点しててほぼ全丸なわけです。おっ、これはすごいと思うわけですが、本番では立派に不合格になる。すると後々考えて、あのできは、いったいなんだったのか、と考え込んでしまう。

 子どもたちが、できないものは「できない」と正直に言ってくれるのが、一番いいわけです。誤った手を打たなくて済むからです。できるということになると、誤解に誤解を重ねて、指導を誤ることになる。
 失敗の原因は、真実が別にあるからです。それだけは確かです。わたしの信頼を打ち崩す何かが、ほかにあった、そういうことなのだと思います。
 私が、合格を確信する場合というのはあるのです。本年の指導でも、わたしには確かな手応えがあった。しかし、確信しても、不安は不安である。
 ところが、どうしても確信できないことがある。すべての指導を終えて、本番に向かう子どもを送り出す。しかし、合格するという確信が全くないのです。これはどうしたことか、いやむしろなんとも言えない不安が残る。
 こういう子は、やはり落ちるのです。本番で、「できなかった」とすぐにわかる子、逆に、「できた」と言う子もいますが、できなかった、全く通用しなかったというのが真実と思います。「できた」という子は、おそらく理解が浅い。これは地頭の問題もある。
 なにが、わたしの判断を狂わせたのか?
 子どもが正直でないこと、これなのかな、と思っています。
 子どもの「できた」「解いた」という擬装が、わたしの判断を狂わせる、のだと思います。擬装が見抜けない。それは一方では、「できる」と思わせる事実があるからです。

 子どもは、「できる」と褒められるのが彼の全人格の肯定となるのです。自己が最大限に肯定されることは、子どもにとってこれほど嬉しいことはないと思います。親に「この子はできる子だ」と、思われることほどうれしいことはない。友達に「できる」と思われるのは、十分に自尊心を満たすことができる。先生に「できる」と評価されるのは、公の認証であるから、なおさらうれしいことである。
 こうして気の利いた子は、「できる」と思われるように行動するようになる。
 こういう環境にある子どもに、実は評価に見合う能力がなかったとしたらどうなるか。子どもは、評価を守るために嘘をつくしかない。擬装するしかない。それは自己保存本能とも言える。
 よくある例がある。最初は本当にできたのかも知れない。だから本人も面白い、やる気を、出す。親もそんな子の姿を、見て、これは塾のおかげだと感謝する。しかし、問題が段々難しくなり、簡単には解けないという時が必ず来る。そういう時に、自尊心を守るために嘘をつくか、擬装するか、それとも正直に今の自分を曝け出すか、ここが分岐点になる。カンニングみたいなことをやって誤魔化すということをやる子もいる。そんなとき答えだけ書いてくると、式を書け、と言われてはたと行き詰まるわけです。過去に何人かそういう子がいました。親は子を信用しますから、子の言い分を信じる。私がいろいろと是正を期待して手を講じても、どうしても親の偏見で、悪意にとられてしまう。「塾が悪い」ということで、かつてはそういう親がヒステリックになったりもしました。
 私には、子どもが「わかりません」と正直に言ってくれた方がいい指導ができる。子どもの「わかる」というのは、ウソ半分と見なければならない、それが私が長年の経験で得た、貴重な知見でした。できる前提で指導すれば悲劇にまっしぐらとなることはよくわかっています。
 要は、竹の会で成功している人というのは、素直で正直であった、ということです。失敗者の中には、能力はあるのに、「できるふり」をする人がいて、失敗しているケースもよくあることです。
 ふりをするというのは、自尊心と大きくかかわっている、と思います。自尊心というのは、自己肯定感と言いかえるとわかりやすい、と思います。できないというのは、自己否定なわけです、少なくとも本人にとってはそうです。ちなみに、劣等感が強ければ強いほど、ふりをする傾向があります。
 もちろん失敗する人というのは、一般的には、地頭が及ばなかった、という人が普通なのです。しかし、地頭があろうがなかろうが、ふりをする人、偽る人、は、受かることはない。
 問題は、私に、「できている」と思わせるほどの、実は「偽り」というのが、私の判断を狂わせる、わけです。
 「親にヒントをもらった」「先生、家で解いてきました」というのは、できてると、不安になる。
 落ちた子について、送り出したときに残る、漠然とした不安というのは、やはり、必ず現実化する。

 漠然とした不安、これはどこからくるのか?
 不安はあるが、いい指導ができた、そういう感じがいいのかな、とよく思う。
 自分の作ったプログラムで、真実の力を確認することができた、こういうのが、やはり一番確実なのかな、と思う。
 送り出したとき、何か掴みどころのない、虚しさというか、空虚感を感じることがある。
 平均感という言葉があるのか、知らないが、この言葉が的確に言い表しているかもしれない。
 平均というのは、普通ということである。
 試験は、特に、倍率2倍を超えると、もう平均では受からないと思う。
 
 平均の正体。 平均点で受かるのか。

 と言っても単純ではない。得点の分布により、平均値は移動する。中央値というのがあるが、これはデータの並びにおいてちょうど真ん中のところのことです。バランスのいい得点状況だと平均値と中央値は一致しますが、例えば、平均値より低い数が多いと中央値は平均値より低くなる。試験が難しければそういうことになる。 
 受験者の平均点では、受験者の中の位置はわからない。受験者の中の位置を知るには、偏差値が便利だ。偏差値50だと、丁度真ん中あたりの順位ということになる。
 わたしもこれまで偏差値には注意を払ってきたけれど、平均点は見るには見たが、あまり気にも留めなかった。一つには、高校入試で、平均点より低いというのは、異例のことであり、もし平均点より、低ければ、これは手直しの対象になるからである。これが都立中高一貫校の模試だと、偏差値というものが、ないに等しいから、どうしても平均点を見る。母集団の質と量を見て、模試の信用度を評価する。
 都立高校の場合、内申が、合否判定に影響するから、平均点より低くても、志望校によっては、A判定などということもある、
 しかし、A判定を取っても、全受験者の平均点より低いというのは、やはり看過できない事実なのかな、と思う。
 ※
 倍率2倍とする。
 100 90 80 70 60 50 40 30 20 10
平均は、550÷10=55
この例では、平均点では、受からない。
 平均より低ければ合格はない、
 平均より高い60点取らなければ合格できない。
100 90 80 80 70 40 35 25 20 20
平均 560÷10=56
倍率2倍なら、受かるのは、70以上

平均より、高い点を取らないと受からない、
平均より低い点というのは、たとえ合否判定でAを取っていたとしても、危うい。
平均より低い点というのは、受験者の半分より下ということである。

 私は、模試から、真実を見ぬかなければならない。それができて初めてプロといえた。
 私は常に真実の力を査定しなければならないう宿命を負っている。
 このところ想定しない事態が、私を慌てさせたことは否定しない。これまでの経験が通用しない事態に、何が悪かったのか、悩み考える。
 冷静に考えて見たら、何か引っかかる。そこに、目を留めなかった、入会試験A合格なら「できるはず」という思い込みがあった。

 わたしは、合格の確信を取るために、「合否判定レジュメ」を制作した。このレジュメで、私が得た合格の確信に、ズレはなかった。それどころか、このレジュメは、合格するために必要な思考というものを育てていた。
 
 私は合格に必要なものが、何であるか、わかった、と思う。確信に近い。
 今の指導は、その私の信念に従った指導がなされている。

 高校入試は私の得意分野であり、合格の確信を得るのは難しいことではない。V模擬は、信頼できる模試である。都立受験生のほとんどが受けるからである。
 通常、模試のある科目が悪ければ、過去問も悪い、つまり一致する。ところが、今年は、わたしは、初めて一致しないケースを経験した。
 
 合格確信の根拠として、これまで私が使ってきたのは、やはりレジュメです。高校入試の場合は、過去問も重要ないデータです。しかし、過去問は、生徒が正直でないと、使えない。生徒を信用するしかないのが、弱い。
 予期に反して当日「できなかった」という事実が、何を示唆しているのか。

◎中学生は、学習の進捗状況の報告は、「蜜に」!
 竹の会で、中学生が、成功するためには、一つの条件があります。考えてみますと、これまでの合格者は、とにかく明るい。なんでも話してくる。密に私に報告した。ときには、学校の愚痴であったり、学校で何があったとか、友達のこととか、そして定期試験の結果、通知表など。
 そしてレジュメをやって出す、ということを決して欠かさない。これは当たり前ですが、中学生になると、なかなか出さなくなる。結局、一週間、いや二週間出さなかったということも稀ではない。そうなると何をやっているのか、わからなくなる。次の指導に何をやるか、指導の継続は断たれる。部活で遅くなる。やっているレジュメを失くす。定期試験前に休む。末期で3る。こうしてやがて定期試験は落ちるところまで落ちて、退塾の運びとなる。
 内向的というか、シャイな子というのは、結局意思の疎通が図れない。何も言わないから、何も伝わらない。こちらは何を考えているのか、いつも推測するしかない。何かと言ってくれれば細かい対応が間断なくとれるのだが、こちらが尋ねると、首を縦か横に振るだけ、それで会話は終わる。
 要するに、言葉がない。こちらから訊かない限り、訊いても、だから身振り手振り、不自由この上ない。心の中というのは、わからない。どう思っているか、わからない。心は、言葉に出して、初めて相手に伝わる。
 
 

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