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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

日比谷、小石川は努力しない者には縁なし、天才でなければ資格なし/基本のない子たちばかりと無定見の親の増殖

2018.04.05

 いよいよ入学式、新学期酣の時節となりました。公立中では9日が入学式と聞いておりますが、この仕事をやっていますと2月3日の本番と9日の発表、23日の都立一般入試本番、3月1日の発表がもっとも大切な行事でして、たまに都立推薦入試発表に期待する年もありました。入学式と卒業式は、長男のときは大学の入学式・卒業式、大学院の入学式・卒業式にはすべて出席しました。次男のときは、私立(立教)でしたので、中学、高校と入学式、卒業式に出席、大学は日吉の壮大な入学式、卒業式を経験しました。晴れがましい入学式で見た日吉キャンパスの桜はそれは見事でした。愛する子どもさんの入学式、卒業式、それは親御さまには感慨深いものがあるのかと推察します。

 さて、竹の会では入塾に際しまして、まず入会試験を受けていただくということになっておりますが、ここ近年の傾向として、「合格」、特に「A合格」というのが、ほとんど出ない、ということが顕著になっております、もっともほんの2年前までそもそも竹の会に問い合わせてくるという人もほとんど皆無の状況が続いておりまして、そういう中でもたまにいた、受検者が入会試験に落ちて入会できないということで塾の存続そのものが危ぶまれるほどでした。それでやむなく「仮合格」というものを作りまして、とにかく合格ではないが、仮合格として仮入会を認めることにしたのです。ところがそれ以来どうもやってくるのは、仮合格ばかりで、これはこれでよろしくない傾向でありました。

 わたしは入会試験の結果を通じて、都内の特に小学生の憂うべき現状を現実のものとして実感してきました。まずひどいのが塾に通っていないという子たちです。勉強する習慣というものが何もつけられてこなかった、そういう子たちは論外としても、向上心のある子についてもやはり相応の訓練というものがないゆえの基礎学力の欠落は修復しがたいものがありました。これが塾に行っていたから問題なしとならないのが、今の東京の塾の現状です。2年も3年も通いながら基礎ができていないという子ばりでした。そして親御さんがそういうことにまったく気づいていない、というのも驚きでした。「割合はやった」とか、「分数はできる」とか、せいぜいその程度、大半は子どもが今何をやっているのか、これまで何を習ってきたのか、まるで知らないという親御さんばかりです。そのくせ塾のやりかたとか、何を使うのかとか、進め方とか、いろいろ質問してくる親御さんが多かったのも印象に強く残っております。しかし、これがよくわからないのですが、小4から小6まで3年通って、受検に失敗して、思考力判定の基準となる割合の問題に手も足も出ないのに、その塾のことを悪くは思ってない、そういう親子が意外と多いことにも驚かされました。失敗はどんな塾に通っても通常の事態ですからいいのですが、たとえばわたしが中学でやっていけるのか、判定するときに使う割合の問題などにまるで手がつけられない、そういうことは、塾に行っていたのなら、やはりいちばん問題にしなければならないことではないのか。それでもそれまで通ってきた塾に悪い感情をもたない、というのは、余程塾のお客様対応がよかったとしか思えない。そう言えば、某大手の講師たちは優しくて人受けがよく親や子に人気がある、と聞いたことがある。

 それまで塾に行っていても、計算ひとつ満足にできない、割合のなんたるかをまるでわかっていない、そもそもの勉強のスタンスというものがない、そういう状況を1年も2年もよく続けられるものだと思う。竹の会で入会試験を受けてみてたちまち馬脚が露わにされると、親御さんは現実を初めて見て、シュンとなっている。そういう光景が竹の会ではめずらしくなくなった。いったいどうしたものか。わたしは既存の、巷に溢れる塾、最近では、大手塾だけではなく、地元の中規模塾、そういう塾に対する怒りというものが沸々とわき起こってくる。地元の個人塾はいいのか、というと、やはり経営基盤が弱いだけに、親や子に阿る、媚びる傾向が強く、信念を貫き通す塾というのは少ない。子の状況がどんなにまずくても「大丈夫」「なんとかなる」と言うのが塾である。実はその言葉に根拠などはない。ただ経営をつなぐだけの意味しかない。中規模塾でもその事情は変わらない。竹の会ではかつて勉強に投げやりになった小5の退塾を促したことがあったが、母親は切れていた。つまり塾というのは真実を言えば恨まれる、きれい事を言って機嫌をとったほうが喜ばれるということである。頭が悪くてできない子にも、「がんばればなんとかなる」、「大丈夫だ」という塾の姿勢をあながち責められない。

 それにしても子どもいうのは、仔細にチェックしてみると、欠陥だらけで、次から次へと問題を見つけてしまう。大手や中規模塾では、テキストにしたがって、授業を進めていくだけだから、子どもがほんとうに理解したのかどうかなど関係ない体制である。始末が悪いのは、親も子もテキストが終われば、「わかった」ことにしている、なんとも杜撰な話しである。これで1年2年とカネを払い続ける神経がわからない。わたしなら退塾を告知するだろうから、その抵抗にともなうストレスで体が蝕まれることしきりである。挙げ句恨まれて終わるのはもう数え切れない。良心的に行動するということは必ずしも親には歓迎されていない、これが現実である。

 そもそも世の塾が「基本ができていない」というときに意味するところは何であるのか。親にも言える。そもそも基本とは何なのか。

◎基礎をしっかり学んでから応用に進むという考え方

 よく基礎ができていないというけれど、世間の塾が、そういうことを言う時、基礎をしっかり学んでから応用に進むという暗黙の当然がある、 そして言うその基礎とは、易しく書かれたテキスト、初級段階のテキストをしっかりやってから、ということを当たり前のように念頭に置いている。流石にバカ養成所たる塾たる所以がある。そもそも基礎というときの、とらえ方が旧態依然とした、あまりにも古い概念でしか理解していない。これは塾も親も共通である。わかっていないのである。そして基礎からやり直すというときのやりかたはと言えば、ただテキストをやり直すだけなのである。

 まずそもそもの指導というもののとらえかたから間違っている。

 指導とは、飛び石をポンポンと飛びながら進めるように、子どもを導くことである。

 よく庭の飛び石をポンポンと渡ると、効率よく、無駄なく、庭を抜けた経験があるであろう、 あれである、できるだけ要点だけに絞り簡潔に説明する。学ぶ手順を効率よく提示して、飛び石をトントンと渡るように、庭を一気に駆け抜ける、あれである。わたしが指導という名のもとに実践してきたのは、そういうことにほかならない。わたしが精魂込めて、時間とカネをかけて制作しているレジュメもそういうコンセプトに根ざす。粋を尽くしたレジュメ、それは問題と詳細な解説からなる、それこそが飛び石をポンと飛ぶ感覚を現実化したものにほかならない。飛び石学習、飛び石指導である。 スピード感を持って効率よく学ぶことができる、これがわたしの狙いである。基礎と言われるものの習得は、一気呵成に、仕上げる、集中的に学ばせる、そういうことではないか。 だらだらとテキストでつないでいくようなことをやっているから、どうしようもないバカができあがるのである。 世の中には塾に行かないでバカになる子と塾に行ったためにバカになる、2種類のバカがいる。わたしが最近特に感じるのは、親がまるでそういうことがわかっていない、ということである。自分の子がどんどんバカになっていっているのに何も気づいていないのである。大学まで続いている名門私立などいうのに、よく芸能人が自分の子を入れるという話しが耳目をあつめることがあるが、受験というフィルターを回避するという道が、結局子どもを取り返しのつかないバカにしているのではないか。始末が悪いのは、名門私立という部分社会の中にいて、「できる」という根拠のない幻想だけが肥大化している、つまり伽藍堂小学生に堕していることに気づかないことだ。

 そもそも受検ということで、合格することが目標になり、手段が小手先に終始しているいう現状にこそ問題がある。仮に失敗しても、培った思考の力で切り抜けていくという、育て方をしていないことが問題なのです。培うべきは、思考する力であり、勉強の習慣、スタンスをしっかりと身につけさせることなのです。小手先の、合格を謳った、過去問類似問題の練習に明け暮れることが、どのような結果をもたらすのか。ちょっと考えればわかりそうなものなのに、親はそういうことは一向に批判しないで、大手予備校の「志望校別対策」などに狂ったように飛びつき、惜しげもなくカネを注ぎ込む。竹の会のような小塾となると、入会時にはいろいろと注文してくる、なんとも上から目線の落ち着き振りである。まあ、そういう親については、今はスタッフの判断で入会することはないのですが、たまに通りぬけて、厄介な親に遭遇することはあります。早急に退塾させる方向でいろいろ策を講じて切り抜けてきましたが、竹の会はそういう親がこれまでに経験してきたであろう、阿りも媚びも一切ありませんから、たいていは怒って去ることになっています。

 ネットにある本の書評がありまして、これがわたしの持論に似た主張をしていましたので、少し紹介してみます。

「これを最初からしっかり順番に学ぶとかなりの時間を必要としますが、この本は、そこに必要な全てを小さな章として細分化し、できるだけ要点だけに絞り簡潔に説明されていたので、スピード感を持って効率よく学ぶことができます。分厚い入門書籍を買ってしまい集中力が続かずに読み進められなかった経験もしました。特に読み進められないのは、自分の努力や集中力に問題があるのではと思っておりましたが、この本を読んで、基礎をしっかり学んでから応用に進むという考え方自体に、疑問を抱き始めました。 これを最初からしっかり順番に学ぶとかなりの時間を必要としますが、この本は、そこに必要な全てを小さな章として細分化し、できるだけ要点だけに絞り簡潔に説明されていたので、スピード感を持って効率よく学ぶことができます。こういった学び方は斬新で、画期的な方法だと感じました。意外と近道となる方法だと思いましたので、一度、目を通していただきたい書籍です。」

 かなり端折っていますが、分厚い入門書籍というのは、文系では想像しにくいのですが、理系の書籍にはそういうものがあります。パソコン関連の入門書なんかやたら分厚いですよね。これが法律書だと、入門書はうすくて、簡潔すぎて「わからない」ということがよくあります。だからといって専門的な体系書を買うと、こんど詳しすぎて「わからない」ということになります。そうなると予備校ものがいちばんいいということになりますね。塾というのは、そういう森の中に入り込んで迷うことになる、そういう事態に陥ることを回避させてやる、だから広大な、学問の庭に、それは要所に飛び石を置く、子どもはその飛び石をポンポンと飛べば目的地に行ける、そういう道筋を作る仕事なのではないか、と思うのです。

 だから常に庭の鳥瞰図を作って、飛び石を敷く、そういうことを不断にやる、これが塾の先生の仕事だと思うのです。

 ところが、世の中に、まっとうな塾を見たことがない。 子どもを真のアホにしてしまう、巷の塾の罪と無見識な親たち、 あなたたちが、通わせている、塾は、1年、2年かけて、子の大切な、知育の機会を放棄してしまう選択であった、かもしれないのです。そういうことを知る時が近い将来必ず来る。 いや、だから竹の会に来い、というわけではない。竹の会は、時期を逸した子の指導など、やりたくはないし、その時間も、場所もない。 だからわたしは、世の親たちの愚行を嘆いているだけです。 わたしが竹の会でどうこうしようという話しではない 。ただ、世間の親という親が余りにも、大手だ、中規模塾だ、と信じて、 いる現状、その結果どうなったか、を説いているだけです。竹の会が付けいる隙もないほどの大手塾、中規模塾の繁盛と、竹の会のような無名の小塾を見下す、いや歯牙にもかけない、そういう親たち、子たちの末路を見物しているだけです。塾というものは偽物ほど組織だって見える、立派に見える。 あなたがたは、本物の塾が分かっていない。 近くに「ある」、それなりの外観と体裁を備えた教室、それだけで「信じる」軽薄さが、子を滅ぼすことになる。自業自得である。 一年経ち、二年経ち、為すべき訓練をなされなかった子はバカに仕上がる。 そもそも千差万別の子をまとめて見る、そんなことは不可能のはずであるのに。

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