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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

日比谷、西、戸山が理想/小石川、桜修館という選択/「ながら」受検するのは失敗99%

2018.05.24

 おはようございます。今日は青空が見えますね。ここ何日かは油断をすると風邪をひきそうな、冷たい空気が、身体に毒でした。二週間ほど前に、この身体の毒にあたり、中耳に激痛が走り、今も聴力はかなり落ちたままです。回復の妙薬は時間ということらしいです。

 このところ竹の会では、勉強に陰りの見える者を、淘汰する、自浄作用がはたらくようになりました。勉強に消極的というか、負活発な者を「置く」ということが、そのこと自体が、わたしには、相当のストレスとなるのです。それでもうこの歳でこのようなストレスからは一日も早く解放されたいという、わたしの強い意思がはたらくのです。放置できない。

 今日は、この点に関する、わたしの私見というものを述べてみたいと思います。

 部活の影響をあからさまに残す、大幅な遅刻、居眠り、レジュメの進捗が遅々たること、こういう状況になるのが、凡人中学生の、普通にたどる過程です。それは、本人がわかっているのかどうか、若さゆえの、未熟な判断能力ゆえの、結果なのか、それはもう中学生となると避けられない、実は、自分の人生のこれからを左右する、重要な人生の岐路に立つ判断である。

 🔵勉強が、何かの「ついで」になっている状況が続く場合、竹の会では、退塾を勧告しております。退塾の勧告は、事実上、退塾処分の別表現です。 勉強というものは、奥深いものです。勉強を舐めてはいけません。 竹の会が、勉強する者の集うところであるという、この一線だけは譲れない。これが今の竹の会の存在を意義あらしめている、竹の会の存在根拠です。 スポーツもやりながら、あるいは習い事、稽古事を続けながら、受検する、当然それでも受かる、と思っているのでしょうが、そのためにレジュメの進捗はなく、課題は滞りがち、いやほとんど出さない、こういう状況で、受かるとはとても思えないのです。 そういう選択も別に悪いことではない。ただそれは竹の会にはない選択だというだけです。大手で、あるいは巷の塾で好きなように、そう自分のやりたいようにやればいい、ただそれだけのことてす。

 小6の皆さん、今は家庭学習時間は、平日は少なくとも5時間、休日は少なくとも10時間です。夏期は、少なくとも7時間です。あなたたちは、受かる条件を、簡単に放棄してはなりません。先送り、当面の問題の回避、そして不作為、逃避など、日々を「無為」に過ごしてはならないのです。人生の負け組は、無為に過ごしてきた人たちを一括りにしたものです。 人生は、無為に時をやり過ごす人たちが、どのような人生を歩むのか、教えてくれるでしょう。実は、わかっている、それが現実です。自らを律することのできない者に、輝かしい、いや当たり前の、経済的には、自ら食べていけるだけの収入さえ、保証されることのない人生が待っているのです。

 職を得る、これは当然のことです。 では、どのような職を得るのか。 その選択肢は、自らを律する者にのみ、示される。何かの流れに身を任せるような生き方をしていれば、消去法で、あてがわれた職に就くしかない。そういう人生を送りたけなければ、勉強するしかない。人生の、いや職の選択肢を、能動的に選べる、そういう位置に自分を置く、それには、凡人の真似をしていてはダメということです。 わたしは、中学生が、部活で、自分を律するということを忘れて、勉強しない、そういう姿をどれほど見てきたことか。そういう中学生が今どういう人生を歩んでいるか、社会の厳しい現実に翻弄されて苦渋に満ちた、最低生活を強いられている、そういう人たちをたくさん見てきました。何かやってるというパフォーマンスにしか見えない部活で、人生の選択肢を結局一つしかない、そういう状況に自らを落としてしまう。社会の底、に這う人生を自ら好んで、突き進む。これがわからない。 等しく与えられた時間を何に使うのか。スポーツ? 習い事、稽古事?  そういうことに使えば、使っただけ、勉強に使える時間は、減る。 何もしないという不作為、要するに、怠け、これは、自ら社会の底にいることの選択にほかならない。 ゲーム、テレビ、要するに、当面の、楽、を貪るという選択、これも社会の底にいることの、選択に他ならない。 自分の人生だから、どう選択しても自由である。 それが人生なのだから、 中学生はもう自分の人生をどう選ぶか、自分で決めるしかない。ただ彼ら彼女らには、そういう決定的な人生の選択をしている、その自覚がない。今、このときの、日々の何気ない選択が、日々社会の底に落ちる選択になっている、そういうことがわからない。 要するに、賢明な選択のできない人たちなのである。

 小学生なら、選択は、親がやる。中には、子どもがやりたいことを、いやもしかしたら親のやらせたいことなのかもしれないが、親がやる。それは、親が子を代弁して、あるいは子の好き嫌いに忖度して、親が、子の人生の、社会の底に「居る」ことの選択をしていることに他ならない。 わたしは、親の判断は、子を社会の底に置くことになるかもしれない、そういう選択であっていいのか、と疑う。 親は、子に律する精神を涵養し、子が自らの、律する心による判断のできるように、教育しなければならない、と思う。 自分の判断、選択がもたらす結果を、遍くわかるように、賢明なる頭脳を涵養していかねばならない。 親が思いついた習い事、稽古事、スポーツが子の、自分の人生をどう規定するのか、どう選ぶか、そういう判断のできる能力を養う前に、習い事が当然の選択としてあるのがわからない。勉強するということがもたらす、判断、選択の能力を養うこともなく、また養う過程もなく、勉強に優先させる、親の判断がわたしにはわからない。 子どもには、自らの人生を選ぶ権利がある。その権利は、勉強することによって、実現する権利なのである。 わたしは、勉強に熱心な子を敬愛している。そしてその子の心の有り様を応援する、支援する、姿勢の親こそ理想の親と思っている。 親は、子どもの正しい道、進むべき道を、歩むのを微笑ましく、見守る、それでいい。 子がいつか自らの判断で、選ぶ道、そういう判断こそが、親が子に与えるものではないか。 それなのに昨今の親は、子に選択させない。親が選択する。子が選択するには、勉強が前提なのである。親がまず選択するのは、習い事、稽古事ではない。子が、将来、自らの選択をするための、学力、見識をつけるための勉強でなければならない。

 わたしは、竹の会には、小4から、少なくとも小4の4月までにはきてほしいと、願っています。 小3でも集中できるなら、もちろん構わない。 子に判断力をつけるため、そのために親は、親としてあるべきである。 子に物を買ってやる、高価な物で関心を買う、機嫌をとる、そういうことをやっていれば、判断力のないバカを、親が率先して作りあげていることにはならないか。 過保護というのは、子を判断能力のない、社会的弱者にする、親の教育放棄に他ならない。 甘やかしは、子の判断、賢明な判断力の涵養を損なう、愚かな行為である。 わたしが、親をバカといい、子をバカという、真意は、ここにある。 バカ親は、子が望むから、こうしたいから、ああしたいから、叶えてやりたいという。しかし、その前に、子の判断を損なう、つまり判断力をつけるために何をしてきたのか。勉強をいつも先送りしてきた、させてきた親が、判断能力のない子にした親が、子の判断を忖度する。勉強とは、子に判断をつける、賢くする、だから学ばせる、のである。ただその時の雰囲気で、好き嫌いで、判断するバカにしないために、必要なのだ、ということがわからない。

🔵2という数

 脚は2本、腕は2本、目は2つ、耳は2つ、鼻の穴は2つ、 2輪。 2は、予備。一つがダメでも、残りの一つで、切り抜けられるから。 知識のインプットは、左脳と右脳。 なぜ2なのか。2の別の意味。2本あって、機能する。両輪というのは、その意味。 両目、両足、両手も。 安全のための2は、 同じものが、つあればいい。3つはいらない。これは示唆に富む。予備は1つでいいということである。それ以上は、不経済となる。 たくさんあることはいいことではない。 無駄、不経済 と言う前に、選択ということを無効にしてしまう。思考の中の22は、対極の2。 対比、二元論、 肯定と否定、 賛成と反対、 抽象と具体。 思考は、対立である。、 選択とは、2のうちから、1つ選ぶから選択である。5択は2択 に帰着する。甲乙つけがたい、 雌雄を決す。 人の脳は、2つのことを、比べる、対比する、と頭に入るようにできている。本物は偽物と比べてわかる。 比べながら、読む、考えるのである。 推論は、2つの比較からする。3は魔の数字である。3つのことを同時に考えるのは、脳には、無理 である。思考のこつは、常に、2つの対比にもっていくことである。 比べるというとき、 絶対的価値は、尺度がないから、 測れない。 比べるというのは、測りがないから、主観的な感想になりやすい。絶対というのは、測りがあれば、測りが、比べるものとなる。

 以下はどこかの入試問題で読んだ文章であるが、だれの書いた文章であったか。

 クモの牽引糸から得た「二」という数字は、安全性を考えるうえで、きわめて重要な値である。記念写真でも最低二回はシャッターを切る。また、イラクのフセイン大統領などで噂されているように、影武者の存在も「二」である。代わりは多いほどよいが、多すぎると維持費がかかる。最低限の安全性確保と効率性との兼ね合いから、やはり「二」が重要な意味を持ってくるのである。 二本のフィラメントからできているクモの牽引糸は、同じ目的で同質のフィラメントが並列に配置されているライフラインである。ところが、集団で生活する場合は、「二」は目標は同じでもルートは異なるほうが望ましい。たとえば、交通におけるバイパスは危機管理の立場からは、すぐ隣よりも、少し離れたところにつくることが望ましい。地震などの発生に備えた危険性の分散である。 通信における安全性確保の場合も同様である。電線などのケーブルを用いた有線通信が、火事、地震、あるいは風水害によって分断された場合、無線通信というバイパスが生きてくるのである。また企業では、社長と会長はいつも同じ飛行機では出張しないことになっている。万が一、事故が起こっても企業維持のために危険を分散しているのである。 安全性には、並列的な考えと直列的な考えがある。家をつくるとき屋根を何本かの柱で支える場合や、クモの牽引糸を構成する二本のフィラメントなどは、明らかに並列的な安全性の考えである。ところが、忘れてはならないのが、総合的に安全性を考えるときである。この場合、直列的な考えも導入しなければならない。

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