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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

日比谷、西一直線/公立中高一貫校への道/勉強のアクセルは踏んだら一気に加速するしかない

2017.07.15

 おはようございます。梅雨は明けていないのに、毎日夏空です。竹の会では渋谷Bの7月通常指導はすべて終わりましたが、渋谷Aは、まだ日曜指導が16日と23日の2回、水曜指導が19日と26日の2回あります。なお26日の水曜指導は16時(入室は15時30分から可)開始です。夏期指導開始は、7月21日の渋谷Bが最初で、8月25日の渋谷Aが最終となります。9月は渋谷Aが3日(日)から、渋谷Bが4日(月)から開始です。みなさまがこの夏を何事もなく無事に乗り切られることを願っております。受験生が夏に手を抜くなど考えられないことですが、過去の失敗者というのはその失敗の原因を辿ればたいていは夏の不勉強に帰着することになるのではないかと思います。わたしの希望する夏の1日の勉強時間は最低でも7時間です。7時間というのは正味7時間の意味です。実働7時間の意味です。とにかく机に着いていたら勉強しているというわけではありません。

 小4のみなさんはおそらく家庭学習というものがほとんどないのではないか、と見ています。普段の指導において家庭ではほとんど勉強していないな、とわかります。小4の中には夏の指導から伸び始めたという子もいます。小4は勉強のスタンスを早くに確立させた子が絶対に有利です。勉強ファーストの生活を確立させることです。小4というのは、とにかく幼い、幼いことが勉強という主体的な活動とは相容れない。幼いというのは、イコール甘えということであり、小5になっても、小6になっても伸び悩む子というのは基本的に幼い子です。もちろん背景には親の過保護があります。

 おそらく多くの親御さんというのは、勉強というものの本質がわかっておられない。世の中には天才的に「できる」という子がいます。そういう子は特別なのでしょうか。多くの親御さんはおそらくそう考えている節がある。だから自分の子は関係ないと。だから子が望むからと言いながら実は親主導で習い事、稽古事を、そしてスポーツにかなりの時間を費やすのでしょう。天才と言われる子が、こうした子たちと本質に違うところがあるとすれば、主体性ということでしょうか。かれらは本質的に勉強ということに関心をもち、自ら勉強する意思で勉強しているということです。その意思は強く、いやかれらは本能的に勉強というものが中途半端に時間をかけてもものにならないということを知っているのです。親が子にあれこれと習い事、稽古事をさせようとするのは、その行動が勉強というものを中途半端にするということを全く意識もしていないことが問題なのであり、勉強というものを習い事、稽古事と同程度の認識でしかとらえていないことがそもそもありえない話しなのである。平成22年に桜修館に合格した杉山太一君は天才でした。といっても特に、算数の能力が高かったわけではない。何が凄かったかといえば、いくらでも勉強に集中できたことです、彼には1日17時間という勉強記録が残っており、竹の会では伝説的に語り継がれております。最近東大卒弁護士の山口真由という人の書いた本を読みましたが、彼女は東大3年生のときに司法試験に合格しています。1年の勉強で受かった。その彼女の話では1日に19時間勉強したそうです。最後は幻聴に見舞われるほど勉強したそうです。いいですか。みなさんはあまりにも勉強というものに牧歌的過ぎると思うのです。勉強というものがわかっておられない。勉強のアクセルは一旦踏み込んだらもう加速するしかないのです。とにかく一気に踏み込んでいくしかない。ところが多くの凡人のみなさんは、ちんたらやっている。それどころかある日は別の習い事、稽古事、スポーツやってますから、その時は勉強のアクセルは踏んでもないのです。全体としてちんたら運転しているから、なかなか前に進まない。勉強ということに専念してアクセルを踏み込むということをやっている人が天才ということなのです。そういうふうに勉強というものをとらえている限り一生勉強で成功するということはないでしょう。いいですか。勉強のアクセルは踏み込んだらもう踏み続けるしかないのです。

 哲学者の池田晶子さんという女性がいました。わたしも彼女の本は何冊か持っているはずなのですが、教室の書架で探しても見つからない。どこかに埋もれているのは間違いない。時間のあるときに整理しなければと思ってはいるのですが、時間があれば体を休めてしまう。中学生の諸君には彼女の「14歳からの哲学」を読みなさい、と薦めていますのは、周知のとおりです。これから述べることは、その池田晶子さんが突いている、鋭い言葉のことです。彼女は、当時の昨今についてですが、「ブログの自己顕示の無内容」ということを指摘しています。芸能人がよく書いているブログもそうですが、一般の人たちのブログを指してのことだと思います。ただ書くだけのも目的のないブログのことです。それは、「ただ自分を知らしめたいがために、無内容なおしゃべりを書き連ねる」、彼女は、そういう人たちを「むなしくはないのか」と糾弾しています。「他人に知られたからといって、自分の虚しさが満たされるわけではない。自分のむなしさを他人が満たしてくれるという勘違いこそが、そのむなしさなのである」と喝破しております。最近動画で元夫?の内情を暴露している女優がいますが、この人の目的は何なのでしょうか。池田晶子さんのいう勘違いしている人のような気がしてなりません。「他人に認められたい、他人に自分を認めてほしい」という情動なのか、それとも夫であった人への攻撃そのものが抑えられなかったということなのか、わたしにはわかりませんが、いずれにしても、「他人に認められたい」、「自分の主張がどんなに理の当然なのか」を訴えています。しかし、「他人に自分を認めてほしい」と思うのは勝手ですが、その他人にはどうでもいいことです。なぜかというと、「自分を自分と認めるのは自分だけ」だからです。「他人に自分を認められる必要なんか」最初からないのですから。だからこういうことを言う人というのは、そもそもの「認めなければならない自分がない」ということなのです。この人の醸し出す違和感の正体はこれなんです。この人には自分というものがないことなんです。多くのブログを書くという人たちについても同じことが言えると思うのです。「ない自分」というものを認めて、そこから自分の仕事に全力をかけて、つまりアクセルを踏み込んで、努力していくという内容がないのです。

 絶望的に字が汚い、悪い、つまり悪字を書く、という子たちについて、これはやはり親の責任なのではないか、と思います。子どもにとって大切な財産となるはずのものを親がきちんと付与してこなかったということなのですから。なに、簡単なことです。小1の前後に親が付きっきりで訓練すればいいだけのことです。公文の悪口になって申し訳ないのですが、公文に行っていたという子に字が汚い子が多い。もちろん公文に行っていても字のきれいな子はいます。うちの子どもも小1の前後の1年間公文に行っていますが、小1の頃は、もう妻がずっとつきっきりで字を見てましたね。子どもというのは、ずっと見てられるともううれしくてしかたない、親の期待に添いたくてしかたないのです。ゆっくりとていねいにそれはていねいに書いていくものです。このときに早く終わらせる、終わらせたいとやらせるからいけないのです。じっとゆっくりとなぞるのを親は見ているだけでいいのです。これは勉強に関する親の基本的な姿勢でもあります。親というのは子どもの勉強する姿をそっと見ているだけでいいのです。ところが、やたら受験情報ばかりを集めることに狂奔し、子どもを自分の形成した偏見でねじ曲げていくバカ親が急増しています。自分の子をどれだけ優秀ととらえてのことか、とにかく自己評価だけは異常に高いのがこうした親の共通の特徴です。情報に流されて肝心の子どもの基本的な勉強の姿勢というものがそっくり欠落しているのもこういう親の子の特徴です。先の山田真由さんはとても合理的な考えをする方のようです。彼女は大家の研究書というのは決して読まなかったそうです。それは「偏り」を警戒したからです。多くのバカ親たちがすぐに何かの情報に飛びつくのも自分の「偏り」を絶対に正しい、唯一の信念と信じて疑わない、偏りの強固活動にしか興味のない頭の固さにあります。「偏り」というのは、頭が固いということです。頭の悪い官邸に頭のいい官僚たちが忖度するようなことになっている今の政治もわたしたちが「偏り」というものを野放しにしてきたからにほかならない。世の中は勘違いした人たちで形成されている、わたしはそう思っていてちょうどいいと思っています。

 「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう」(「社会契約論」ルソー著)。

 わたしたちは知らず知らずのうちに、あるいは何も知らないままに、気がつけば奴隷になっている。

 

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