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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

日比谷にロック/慶應高校攻略/小石川、桜修館、今年は九段に重点/指導するのが竹の会

2018.04.25

 おはようございます。本日は午前中はかなり激しい雨という予報ですが、今のところそのとおりになっております。午後から晴れるという予報に期待しております。なかなかブログの更新まで手が回らないのが辛いのですが、子どもたちが口々にブログがない日はお父さん、お母さんが、がっかりされているというようなことをわたしに言いますので、これは申し訳ないことと思っております。大量の添削のため提出されたレジュメにつき、いちいち解説レジュメと次回レジュメを準備しなければならないこと、新作レジュメについては優先して制作執筆するようにしていること、などからどうしてもブログに時間がとれないことが多いのです。ブログは、今は、i-phoneのpagesを使って下書き原稿を書いておくことが多くなりました。思いついたらすぐ書き留められるので重宝しております。またPagesで書いた原稿は、パソコンにそのままありますので、便利です。

 竹の会8月の集中指導につきまして、外部生の募集のことをこのブログで書きましたら、このところ毎日のように問い合わせがありまして、思いのほか「草枕」が読まれていることを改めて知ることとなりました。特に、最近の傾向は、以前は関東に集中していたのが、全国に広がっているという印象を持っております。北海道や九州に住む方たちが、どうしてわたしのブログに注意を留められるのか、よくわかりませんが、とにかく最近の読者の広がりに戸惑っております。

 ◎8月集中指導外部生募集 6月予定 入会試験はもちろんありませんが、指導に必要なため、入会試験を用いた能力診断テストを実施します。

 ◎8月集中指導概要

  A10回 1回7時間 12時~19時実施

  B10回 1回7時間 12時~19時実施

  ※振替は公的事由に限り、空席が出た場合に限り、A→B、B→A の振替を認めます。

  ※7月23日~はお休みとしましたので、この期間に旅行、実家帰省などをご計画くださればと思います。なお、お盆は通常どおりに実施します。

  ※要項配布5月下旬 申込開始6月 〆切6月

  ※夏期等に家庭学習のために予めレジュメの発行を希望する場合は、事前にお申し出が必要です。

  ※「適性答案の型と答案のスタイル」(冊子版)については、課題を規則的に出している小6にのみお渡しします。課題もやれない子には過大な負担となるからです。

 ◎現在配布中のレジュメ

 「教養のための理科」「四字熟語」「読解の素の素」「国語研究ノート」「作文の基本」「教養」「読解の素」「資料の観察」「新国語読解」「新作文問題」「新作文」「理科をクリアーにする」「社会をクリアーにする」「新資料読み取り」「天声人語質問集」「桜修館の作文」など

 ◎適性対策のための新理科&社会レジュメ開始 5月連休明けから

 ◎過去問合格法1次実施~8月 2次実施~11月

 ◎早稲田進学会模試開始 7月 小6全員

 🔵精妙なる指導

 指導というのは、かなりに高度な精神的技術を要するものである。子どもの反応の機微を捉えて子どもの頭の中の理解の裸像を推測しきる、想像力を豊かにはたらかせて子どもの置かれた頭の中の環境を瞬時に読みとること、こうしたことは指導を効果的に進めるには必須のことがらである。それにしても小5期も遅くに竹の会にくるということはそれまでの勉強生活のありようがそのままに反映してくるから時には指導困難ということも多い。小4末期というのも問題含みで、小4の1年間をきっちりと基本訓練に費やしてこなかったということの代償はいかにも大きなものとなろう。それは後々に「遅れ」が深刻となって立ち現れることをさしてのことであるが、願わくば、小4の4月前後には竹の会にきていただければと思わずにはおれない。

 その上で指導というものを語れば、わたしは指導の達人であり、名人である、というほどに卓越した指導を展開するであろう。入会試験に合格するほどの子、8割基準を満たすほどの子であれば、飛躍的に伸びていく資質を内在し、わたしはそれを開花させることになる。ただ、指導だけではどうにもならないことももちろんである。まず親の果たす義務として、最低限「文字」だけは、「読める」字が書けるほどにする必要がある。字について、ほったらかしというのはわたしには到底理解できない。字については、もず筆圧がほとんどないとか、鉛筆のもちかたもわかっていないとか、字そのものが形であるということも教えられていない、親はなぜかこういうところには無頓着なところがある。字のために学力障害になっているということに気がつかない。そういったことが満たされるのであれば、わたしの指導は子どもをぐんぐんと引っ張っていく、潜在する能力を開花するであろうし、思考というものを学び、思考のスタイルを手に入れ、勉強のスタンスを確立していくに違いない。勉強が習慣化し、生活の中にあたりまえにあるものとして取り込まれていくこと、これこそが小4期から小5期にしっかりとたたき込まれていく過程にほかならない。指導というのは、こういう目的のもとに繰り返される経ってい下基本訓練過程であり、指導を通して、自己を律する能力を体得していく過程にほかならない。竹の会の指導とは、このようなものであるとしても、具体的には、子どもとの指導レジュメを通しての1対1のやりとりの中から子どもの能力を発掘、抽出、伸ばしていく、それは手のかかる、時間のかかる、やりとりにほかならない。1問の問題を考えさせて自ら「解ける」という体験を重ねていくことが自信を醸成し、時には、厳しく指導することで、考えるということの甘さを思い到らせる。誠に機微に満ちたやりとりの総体との数が月単位の積み重ねが遂には子どもに奇跡をもたらすことになる。だから子どもにそもそもやる気がなければ成り立たないのが指導である。遅刻、早退、ずる休みなどというのは、竹の会では、退塾は当然として、勉強しないという把握しがたい事態ももちろん退塾が至当である。勉強しない中学生はすでに一掃したけれど、中学生というのは、常に退塾の瀬戸際に瀕している。いつ勉強しなくなるか、まるで時限爆弾の如しである。竹の会では中学3年間いるのがひとつの問題である。たいていは脱落していくことになっている。

🔵過去問に知恵を借りる

 全てを悟る 九段の道 過去問を素直に読み、素直に考えて、九段の道を肌で感じる、今は、こういうことをしております  過去問にその道を尋ねる。 過去問の知恵を借りる。だから 「九段の理科」は、 満遍なくの知識ではない、原理、仕組み、その本質的なしくみの何を利用しているのか、の視点、それが応用というもの であるのだが、そういうところを問うている、そういう道を教えてくれる。だからわたしは暇さえあれば、九段の過去問に道を尋ねるのが習慣である。結局のところの落ち着きどころというか、落としどころが何処にあるのかということ、 いたずらに難問をやるの弊も考えなければならない 。また、易しい問題ばかりやることが、頭を少しもよくしないということも考えなければならない。過去問に教えを請う、ことは大切であるが、竹の会の、わたしの過去問合格法は、わたしにはかりしれない何かを秘めているようである。過去問合格法を真面目にやった子には、やった子だけにはわかるかもしれない。なぜ本番で合格点がとれるのか、とれたのかを。

竹の会の子どもたちは竹の会が好きという子が多いのはなぜなのか。竹の会にきて最初は緊張して次第に打ち解けていく、情緒の安定した、先輩たちが暖かく包んでくれるということもあるのであろう、とにかく竹の会の子たちは竹の会が大好きという子が多い。竹の会をサボる子はいないので、休みが目立てば、それは勉強に関心がなくなった徴表であり、退塾にしくはない。勉強というのは、「気」のあるなしに関わることである。親は、竹の会に「いる」ということに常に、懐疑的になってほしい。 親の目で見てダメなら、話しをすることもない、塾がダメだと思えば、やめる、だけでしょ。それでいい。わたしに気兼ねなどいらないし、説明もいらない。

指導開眼

 静的理解と動的理解ということを診ることもある。最近では、 変化を追体験させることに指導の妙味を見ている。対象を 切り離して、理解させるのは、必ずしもいい方法ではないように思う。NGのケースが多い。算数と数学 をどうとらえるか。お父さん、お母さんが、方程式で子どもに教えるの愚 である。たとえxをカッコにしても、同じ こと。式を立てて、逆算で解かせるは、少なくとも算数では想定していない。親が算数を知らない、わからないだけの話しである。ただ答を出せばいいと言うのではなく、算数は、着眼と発想、つまりひらめきにこそその面白さがあり、少ない情報で答を出していくところに妙味がある。 算数は、知恵の学問だ。 算数の勉強は知恵をつけるのに最適である。 数学は、数学言語を用いた、仮説と論理による説明である。 わたしは、元々数学を得意としてきたが、算数の研究をするようになって、算数の面白さ、奥の深さを、知るところとなり、いろいろと知恵を働かせて、自分なりの解法を見つけることに 喜びを見出すようになった。算数には、少ない情報でも、比の妙味とか、面積図のアフローチとかで正解に達するという、数学にはない世界がある。解き方を覚えて、それを探す、という姿勢の子は、伸びない。算数を勘違いしているからである。大手では公式 を覚えさせて公式で解くようなことをやっているがこれはダメである。算数というのはそういう定型問題に対する解法を暗記するものではない。いつも、解く知恵を働かせる子が伸びる。 わからない、とすぐ丸投げしてくる子は、ダメである。

試験は、恐怖との戦いである。この恐怖とは、もともと人が生存するための防御装置であった。 私たち人類は、本能的な恐怖から、身構え、逃げる、隠れる、などの回避行動を、ほとんど、反射的にとってきた。 三陸の地震のとき、津波の危険が今まさに迫っているのに、「正常の範囲内」だと考えて避難しなかった人たちが多勢いて、津波にのまれた。正常性バイアスは、心を安定させるが、人の心理がもたらす、判断の誤作動の原因となる。 恐怖を恐怖でないと、心に働きかける動きは、バイアスの原因となる。 バイアスについては、言葉のバイアスで人が翻弄される、ことかがとつの問題であり、 私たちは、言葉で、なんでも正常化をしてしまうところがある。 人間は、言葉に、納得する、不思議な生き物である。肉親の 死の悲しみも、若者の失恋の苦しさも、言葉で、美しく、物語にされると、癒される。 詩に感動し、短歌に心を抉られ、小説に時間を忘れる。人の心は、言葉に支配される。 してみれば、勉強しないということのもたらす、生存のリスク、恐怖というものが、切実にはならないのは、どうしてか。 勉強しないことが、正常性バイアスにかかっている子たち。勉強しないことが、将来、生存さえも脅かしかねない、そういうことに思い至らない子たち、が確かにいる。親が甘やかせる、過保護に育てることが、彼ら彼女らから、生存への危機感を奪い去っていく。生存とは、ひとりで自己の存在を維持することだ。 親に依存して生存することがいつまでも可能ではないゆえに、自立させるのである。 社会に出て、悲惨な生活をさせたくない。 部活、習い事、稽古事、旅行、恋愛、なんでもいい、そういうことに時間を費やすことが、生存するということにどうかかわるのか、常に忘れてはならない。飢餓感が、生存本能を呼び起こす。 満ち足りた、充足した生活、そういう中では、生存本能は、はたらく余地はない。危機感のないところでは、無気力な人間が育ち、過保護が、自己を抑制できない、放恣な精神、緩んだ精神、横柄な精神、尊大な精神のバカ息子、バカ娘を作り出す。モンスター級に狂った親が作り出したバカ娘が撒き散らす不愉快な、理不尽な自己主張は有害この上ない。 過保護の子は根拠なく尊大てあり、わけもなく自慢する、まるで自分の手柄のように身内、親族の凄さを言い募る、バカ丸出しだある。 バカは丸写し、つまりは親のコピーにほかならないのだが。 金持ちのボンボンが、腑抜けなのも、生存への危機感のなさからくる、 金持ちのバカ娘が、生存に真摯に立ち向かう人を、バカにするのは、生存競争の中で生まれた鬼、まともな生存競争をしなくても、生きていける、そういうのは、無視していい。 言葉は、本質的にバイアスである。 人間というのは、不思議な生き物である。 勉強しない青春時代、つまり部活にかけたこと、趣味に明け暮れたこと、好きなことに時間をいくらでも使ったこと、そういうことが、生存をかけた競争より、楽だからと言って、あるいはただ、怠惰なだけなのかもしれないが、素晴らしいといって、勉強だけが人生ではないと物知り顔で言う人の言葉など将来の自分の何の保証にもならないのに、これには素直に耳を傾ける。しかし、好きなことはやらせていても、現実からは逃れられまい。いつかは、その時がくる。好きなことをしたことのつけを払う時がくる。怠惰のつけは、我が身で払うほかない。将来社会の最下辺に いることのないことを祈る。部活で、入試をしくじった生徒なら、いくらでも見てきた。 部活で勉強をないがしろにする、それが、将来を生き抜く手立てになっているとはとても思えない。部活の顧問に気を遣い、勉強を犠牲にして、結局は失敗するのに、内申を心配して、部活に出て、勉強もろくにできないままに失敗する、そういう中途半端な人たちの進んだ道なら知っているけれど、語る価値もない、ありふれた、その他大勢に埋没した、ごく普通の人たちの生きた道ではある。人間の価値を決めるのは、己を律する精神の有無であり、怠惰な人間には価値はない。

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