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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

日比谷・小石川・桜修館/その他

2018.06.26

おはようございます。本日は素晴らしい初夏の装いで、さりながら空気は爽やかで夏特有の湿気もなくベランダより流れ込む心地よい風を満喫しております。梅雨も中休みということでしょうか。今日は26日ですからすぐ7月ですね。受験・受検のみなさんは、7月、8月という雌雄を実質決するであろう大切な期間に入ることになります。

 さて本日はまずお知らせから。

◎8月集中指導の申込は6月限りです。申込がない場合、6月ないし7月で退塾となります。ご注意ください。

🔵夏期渋谷B 空席1

 退塾にともなう空席です。ご希望がありましたら、受け入れる予定です。〆切が迫っておりますので、渋谷AとのW申込も受け入れることとします。ご希望の方はお申し出ください。

漢検合否結果は、29日(金)午前10時にこのブログにてお知らせいたします。

🔵退塾の判断  

 6月をもって退塾相当・妥当という判断をしました件につき、退塾としました。 竹の会はいわゆる「そういう塾」ではなく、竹の会の信条、姿勢を何よりも重視する塾です。 お子さんが気にいったから通う、それは結構なことですが、そういうこととは全く違うところで、竹の会は責任をいかに果たせるか苦慮しております。 親の考える塾観は、特に、個人塾に関しては大手に対するのと違い、どこかに「通ってやる」意識がある。しかし、竹の会では、そういう親の意識は明らかに勘違いであるということを知ることになるでしょう。親が、塾を続けるか、止めるかを決めるのだ、だから止めないと決めれば続けられる、そういう判断なのでしょうか。しかし、そうはならない。なぜなら、竹の会は、竹の会の精神にそぐわないという理由で、退塾相当とする処断を親や子の意思とは関係なく、果敢に敢行する塾だからです。 世間の親御さんがもたれている塾に対する優越的地位は竹の会には通用しないと思います。確かに、親には、入るかどうかの自由はあります、しかし、それも入会試験に合格したらという条件付の自由ですが。そして、止めるかどうかの自由ももちろん親にあります。しかし、それとは別に、竹の会にも自由はあります。親は通わせている、通ってやっている、そういう意識を持ちがちです。そして、ある意味、いつでもやめてやる、という宣戦布告をしている。竹の会はそういうことを承知しております。だからその戦線布告を受けて立つ、竹の会からも、退塾を通告するということで終止符を打つ、それだけのことです。 その背景には、竹の会はどの塾よりも実のある、意味を問う、指導というものを実践しているという自負、そして指導に対する自信があるからです。それは精魂込めた商品を大切に扱う人にのみ売る、粗略に扱う人間には決して売らないという矜恃でもあります。  

🔵勉強に謙虚さを欠いた親が子の勉強軽視を招く

 謙虚さというのは、相手を敬う心の裏返しです。子を甘やかすことが、子が世間を舐めるようになる元凶にほかなりません。親が学校の先生を軽視すれば子が学校の先生を軽視して、従わなくなるのは当たり前です。そういう子たちが勉強というものをどうとらえるようになるのか自明のことです。そういう親は塾の講師だってなめてかかる。 できない子はそれを環境のせいにする。自分の部屋がないからできない、いい机がないからできない、高い文具を買ってもらえないからできない、周りが騒がしいからできない、 なんでも環境のせいにするバカに育てたバカ親はやっぱり環境のせいにする。先生が悪いからできない、塾が悪いからできない、塾に行けないからできない。 何が欠けているのか。謙虚さでしょ。

🔵思考は練習だけでは作れない

 練習は考える訓練にはならない。 考えるというのは、手を動かさない、頭が意識の中で完結する。練習では思考力はつかない。考えるということをしないで、わかりません、とすぐに説明を求める子には思考というものが育つことはない。 竹の会の定番レジュメ「その他編」を終わったから、思考力がついた、ということではない。 どれだけ思考を費やして自分で考えてきたか、である。だから早々に「わかりません」で終わった子は、思考というものがない。竹の会のレジュメをやる意味を履き違えているのだ。終わらせることが目的ではなく、思考訓練をすることが目的なのだ。 つまり、結果ではなく、過程にどれだけ時間をかけたか、である。わからない、説明を聞く、不合格、これの積み重ねがもたらすのは虚しい結果、貧困ない精神である。 レジュメ訓練の目的を勘違いしてはならない。時間の許す限り考える、考え抜く、そういう積み重ねが、薄皮のように積み重ねられて作られて行くのが思考の層なのである。問題を斑読み、飛ばし読みして、事実を丁寧に読み取りもしないで、すぐに「わからない」という。国語レベルでわからないという、事実、関係を読み取りもしないでわからないという、結果解説を聞いて、解説を読んで、何がもたらされたか。事実を読み取る、関係を掴む、そうした訓練はない。そうした事実、関係から、重要な事実を選び、仮説を組み立てるという訓練もない。あるのは、頭を使わなかったという事実と解説を読んで「なるほど」と感心しただけ、つまり、この問題を通して「得られた」ものは「ない」。 だから、5ステップの訓練を終えたのに、その後のレジュメ指導で不合格しか取れないのだ。

🔵どんなに優秀でも居眠りするだけの生徒に竹の会の貴重な席を用意したくはない

 熱心に勉強に取り組む子に竹の会の席を譲ってあげたい。 竹の会は、ひたむきな精神、学ぼうとする精神、学問を愛する心、勉強を敬う心、総じて、謙虚さを持ち合わせた生徒を待ち望んでいる。 振り替えを熱心にとっても、実家帰省で一週間休む子もいる。本番直前5か月前から次第に消化試合になる子たちがいる。覇気がなくなる人たちがいる。 勉強時間の絶対量が明らかに不足した人たちが、青息吐息で失速する、この時期に、実は、もはや打つ手はなく、ただ「頑張れ」、「頑張ります」という掛け声が、対策でしかない。 思考力というのは、反復練習ではつかない。 割合を反復練習しても真の思考力はつかない。 考えるとは、どういうことか。 まず、定義を反芻する、思い出す、繰り返す。それから、問題になっていることを定義にあてはめる。 考えるとは、定義から、定義を前提に、論理を重ねることである。 いやその前に、問題の国語的意味を理解し、事実関係を理解することである。 事実から、定義をたよりに、意味ある事実を定義にしたがって構成することである。 考えるとは、繰り返し練習する、体育会系的勉強とは違います。 勉強とは暗記をいかに少なくするかを考えることにほかならない。 暗記しなくても済む、知の工夫をすることが、勉強の醍醐味である。 一を聞いて十を知る、という。 これは、一の知識を学べば自ずと十の知識を悟る、という、知の真理を喝破したものではないか。 一を聞いて、次の、二がわからず、三、四、とわからない者が、いちいちその度に教えてもらい、繰り返し練習することで、十をマスターするということではない。親の中には、なにかそのような誤解をしている人もいるけれど、こういう子は決して伸びることはない。 一を聞けば、知の推論から、十わかることである。

 普段の勉強についても、少し言っておきたい。 例えば、社会の歴史の教科書を読むとして、やるべきことは、まず、読む、理解することである。 その場合に、総論部分、つまり抽象的部分が役に立つ。各論的部分を読むときは、必ず、抽象的な記述と各論、つまり具体的な記述とを対比させながら読む。これが大切である。これはあらゆる勉強で教科書を読む際にやるべき手順である。 専門書では、特に、こういう読み方をする。クロスレファレンス読みとでも言っておこうか。 各論的知識は、総論から、思い出すようにしておく。バカは、総論を読まないで、各論の知識を頭から覚えていく。だからできないのだ。 覚えるコツというのもある。知識をバラバラに覚えるのではなくて、共通項でくくる。これを抽象化という。抽象化することで、暗記を節約できる。共通項だけ理解して、瑣末なことは捨てる。特殊なことを明確にして、なぜ特殊なのかを考える。考える勉強というのは、そういうことである。 普段の勉強では、どうすれば暗記しなくて済むのかを考えるのである。

 サブノートについて

 教科書を丸写ししたノートは無駄、時間の無駄、労力の無駄である。 要点を箇条書きにまとめていく。いろいろな視点、基準で、表にする。二項対立、二項対比で、まとめる。みな私が中学でやってきたけれど、やはり、サブノートには限界がある。 私は、高校受験、大学受験と、一冊主義、二十回、三十回読みで、乗り切ってきた。 当時は、まだ読む技が稚拙であったが、先程、述べたクロスレファレンス読み、総論と各論をいちいちクロスする術を知っていたなら、と思う。 とにかく読む、考える、読む、 論理というメスで、いや鍵で、抽象的なものから、各論的なものへと派生させていく、そういう知の訓練をしてほしい。 地理の勉強では 地図帳でいちいち確かめる。定義は丁寧に読む。地図記号はいちいち確かめる。二項対立が有効な科目である。例えば、宮崎県、高知県と言えば、野菜の速成栽培、阿蘇と言えばカルデラ、何でもかんでも二項対立で覚える。 人間というのは、三項、四項となると、途端に記憶が落ちる。 歴史の年表について 私は大学受験のとき、日本史と世界史で受けた。だから年表の記憶は避けられなかった。 語呂合わせで覚えた。 かなり細かい年表まで覚えた。 語呂合わせと言えば、赤尾の豆単、8000語ほどあったか、これも語呂合わせで覚えた。 読み方に漢字をあてはめて、意味と繋いだ。かなり強引に繋いだものもある。 科目に応じて色々工夫したことは確かである。 高校受験のときは、学校からもらった3年間のまとめ、各科目1冊計5冊を各20回は回した。あの時は、赤鉛筆と青鉛筆を好んで使った。 とにかく読み込んだ。 このテキストのどこから出てもわかる、そうなるまでやった。中3の最後の実力テストでは、理社100点を取った。3年間万年20番台だった、私が一躍トップクラスに躍り出た瞬間だった。ちなみに 一学年550人、全校生徒1700人の時代の話であった。 高校の頃の私は何か不透明、わからない何かに覆われていた。それが何かわからずに、何を勉強するにしても、その勉強する意味というか、意味づけというか、全体が見えない、鳥瞰できない、焦燥感、そういったものに、苦しんだ。 結局、高校を出て、初めて大学に行くために勉強した。だから独学であった。数学も英語も独学、参考書から学んだ。 今、私がみなさんに、言いたいのは、何かを勉強するときに、網羅的な分厚い参考書を完全にやれば受かると信じて、無謀な行動に出る、そういう浅はかな判断の危険性だ。 高校数学がそうだった、わたしは、旺文社の数学事典に魅せられた。これさえ覚えてしまえば、京大に受かると思った。一千ページはある大著だ。あの頃のわたしは完全なもの、完璧なものを求めた。そうではない。学問、勉強というのは、もっとシンプルだ。質のいい、シンプルな本、これを20回も読み込めば十分だ。そういうことがわかるまでに時間を無駄にしてしまった。 後年竹の会では七回解き直しが当たり前のことになったけど、竹の会の指導法にはわたしの受験時代の多くの苦難の結果得られた方法が息づいている。

 竹の会のレジュメの誕生

 これもわたしの高校時代の郷愁にその起源はある。わたし進んだ高校は、県下の御三家と言われた、進学校であった。わたしはそこで毎日配られる大量のプリントに翻弄された。重要なことは全てプリントにあった。後から考えれば、プリントだけでよかった。わたしは、竹の会のレジュメに高校時代のプリントを重ねた。わたしが重要と考えた知識をレジュメにした。ピンポイントで要点を伝えることができる、解説だって、わたし流の、わたしオリジナルの、創意工夫に満ちた解説をこのレジュメに、表現できる。わたしのレジュメには、高校時代に完全燃焼できなかったプリントへの想いが、込められている。子どもたちに真理を伝えたい。無駄なことは捨てていい。このレジュメだけでいい。わたしのレジュメには、わたしにできなかった、あの頃の思いが込められている。わかりやすい、一目瞭然、簡潔、要点を的確に伝える、わたしの思いをすべてこのレジュメに託した。

 割合を理解できない小学生の救済を考える日々のこと

 塾に行かない子、優等生の女子は家庭思いだ。しかし、学校の優等生でも塾に行かなければ、割合の理解は貧弱だ。家庭で割合を通して思考を鍛えるなどあり得ない。かといって私立受験で進学塾に行っている子ができるわけではない。大手のテキストでは、凡人はもちろん、多少頭が良くても、暗記に堕する勉強に終始することになる。 大手進学塾に入れるという危険な親の行動は子を追い込むことになる。 天才ならいい、開成、灘に受かるほどの子ならむしろ大手進学塾は安心して任せていい、だが、自分の子が天才でもないのに、何を血迷ったか、我が子を大手進学塾に入れるバカ親が後を絶たない。大量の宿題をこなしきれずに潰されるのが落ちである。大手の宿題の過酷さはとにかく凡人には太刀打ちできまい。 竹の会でも課題というものがある。この課題をきちんとこなしているかが、後々模試の段階になって、旗幟を鮮明にすることになる。課題をやらない子は模試の成績が悪い。これは大手の大量の宿題をこなせない子が伸びないのと似ている。そうなのである、大手は宿題こそが家庭学習を確保し、家庭での思考訓練を可能にすることを知っているのである。竹の会でも合格してきたのは、例外なく課題をこなしてきた子たちであった。 課題を飛ばす子というのはやはり受からない。粘着質というか、粘りつくように課題をとにかくやりあげる、そういう積み重ねというのが、知の層、それはほんとうに薄いイメージ、もうミクロンの世界の層、ミクロンとは、1ミリの1000分の1ですが、それくらいの知識の層が作られる。だからこれは何か月か経って見ないとそれとわからない、そういう層なんですね。勉強というのは、そういうものなんです。だからある時、気が向いたら思いたってやる、そういうことで、層が厚くなるわけではない。毎日コツコツと続ける、目に見えない層を重ねていく、そうするしかないのです。 この知の層は間を空けるとさらに薄くなり最後には消えていく。そういうものなのではないかと思うのです。層が消失するのを防ぐには、新たに層を重ねていくしかない。 よくお盆で一週間休んだ子が、ライバルが、進んだことに驚くが、その時、自分が、続きから始めようとして、全くできない、前のところもできなくなっている、前に進めることなどできなくなっている、そういうことに気づくことがある。これはそれまでに重ねてきたはずの知の層が消えてなくなり、新たなる層を重ねることさえできなくなっているということである。層は前の層を前提に重ねていくものである。前の層がなくなればもはや次の層を重ねるなどということはできない。 俗に言う、先祖返りである。双六なら振り出しに戻る。あれである。 親も子も高々一週間の中断が、これまでの努力を無に帰するほどの愚行であることを知る由もないほどに楽観的である。 試験では楽観などない。楽観してはならない。甘い見通しで、選択してはならない。動いてはならない。息を抜いたら負けしかない。

  🔵工夫しようとする意志が記憶のこつ

 工夫しようとする意思が、記憶を動かす。 記憶しようとする意思を直接の働きかけとすれば、前者は、忘れる、記憶するということを意識からなくする、ことにほかならない。何かに集中するという心の働きが、記憶を活性化させる。これこそが記憶の極意ではないか、と思う。

 人に説明できるか、そう考えて整理する。これも記憶そのものを意識から消すことによって記憶を高めるものです。 記憶には意味記憶となんらかの体験記憶というものがあります。 後者の方が頭に残る、 一般の記憶書にはそう書いてある。 しかし、われわれは、意味の繋がりを理解する。勉強とは、意味を繋ぐことである。意味の完結をもって理解という。抽象と具体という概念をつかえ、意味記憶が抽象、体験記憶が具体ということになる。記憶術というのは、体験記憶を利用するものである。語呂合わせは、擬似体験記憶になろうか。 こうして効果的な記憶を主張する者は、体験記憶こそと言うのであるが、勉強の本質は、意味の理解にあり、そこから意味記憶をまるで記憶に意味がないような扱いをする、専門家の意見には賛同できない。ただ覚えるだけ、そういうことをやってたら、思考、精神は育たない。 意味記憶とは、意味の繋がりから、記憶として繋ぐ。体系、ストーリー、で意味を繋ぐことが、意味を紡ぐことが、勉強です。 クイズ王には、思想がない。 あなたたちは、価値、世界観、精神、哲学、そういうものを内面に、そうゼロから、構築していかねばならない。 だから、記憶よりも、意味だ。 受験は、記憶が全てと思いがちだけど、 それは楽をして勉強しようと考えるからだ。 意味を追求していけば、つまり、記憶する、しなければならない、という意識が、消えれば、つまり、記憶するという目的、それを忘れて、工夫に集中するとか、とにかく記憶のコツは記憶するという目的を忘れること、意識から飛ばすこと、それは記憶の対象を覚えようとするのではなくて、記憶の対象を何らかの視点で工夫するとか、することで、意識から飛ばすことである。7回読むというのも、意識の飛ばし方 である。まず大枠をつかめ 。枝葉末節はスキップする。 抽象部分が何を言っているのか、よくわからないのは、普通のこと。すぐあとにくる具体的言い換えを読んで、意味をとる、たいていはこれで取れる。 それでも意味が取れなければ、さらに、具体的なものを追う、時には、立ち止まって考える。 意味をとるとは、そういうことだ。 どうですか、見事に記憶という邪な動機をスキップしていませんか。 いいですか 記憶の極意は、記憶しようという邪な動機を意識から飛ばすことです。

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