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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

日比谷・西・戸山・青山・新宿・小山台・駒場/小石川中等・両国・桜修館・富士・九段/負の力

2017.05.05

 5月5日になりました。2日、3日と小田原、箱根に一泊してまいりまして、仕事を忘れて過ごしたのはおそらく1年ではこのときだけではなかったか、と思います。盆も正月も「ない」のが竹の会の常でしたから。正月は、例年大晦日と元旦、2日の3日間はお休みしますが、この3日間をくつろいで過ごしたという記憶は数えるほどしかありません。

 多少慣れぬ旅の疲れが残ったのか、転た寝をして過ごしたのが4日のこと、ただそれでも課題の返却準備とか、新課題の制作など避けられぬ仕事はこなしてのことです。小田原は近いので仕事のリズムが狂うということもなくスムーズに仕事に移行できました。

 この連休中、遠くの実家に帰省したり、旅行、キャンプなどという報告も受けておりますが、みなさまが無事にこの連休を終えられることを願っております。これから車での移動のご家庭は気の遠くなるような渋滞に巻き込まれるかもしれません。どうか心平穏に東京をめざされることを願っております。

 ◎5月7日(日)は竹の会第1回の指導日です。渋谷B(9時~12時30分)、渋谷A(13時~20時)の実施です。

  5月7日は、竹の会渋谷教室満5年の記念日です。当日は、恒例の紅白饅頭をお配りすることになっております。

 ◎竹の会夏期指導について

  5月下旬に実施要項を配布の予定です。申込は要項配布の日から6月末日までとします。夏期の振り替えについては、物理的に不可能ですが、予めお休みする日がわかっている場合、A、Bそれぞれに空席が出た場合のみ、対応します。ただし、学校行事で欠席する方を優先しますので、私的事情で欠席する場合すべてに差し替えができるか定かではありません。予めご承知おきください。

 ◎6月3日(土) 漢検実施 ※申込は締め切りました。

 ◎小6模試について

  7月ないし8月から、早稲田進学会の模試を申し込むようにしてください。

 ◎中3模試について

  8月実施のV模擬から申し込んでください。申込手続きは竹の会でします。W合格模擬は2回ほど、V模擬は最低3回、独自模試はVかWを合わせて最低2回受けてください。

 

 ○「負の力」が勝利をもたらす

  驕れる者は必ずしくじることになっています。さしたる勉強もしてこなかったのに受かる気でいる親子というのは珍しくもありませんが、勉強の総量が足りないのに受検はなぜか成功する気でいる親子が直前に藁をも掴む勉強スタンスをとるのももううんざりです。頭は悪くはないけれどどうも受かる気がしないという子というものがいます。何かが足りない、欠けている。慢心というのはもちろん落ちる兆候ですが、まず教えを請う先生を塾をからかうのはだめです。そういう態度をとる親子というのはダメです。昨今はモンスターママというのがいまして、あの塾はダメだとか、この塾はダメだとかやるわけで、どうも塾や先生を鼻であしらっている。そういう親の態度が子どもに影響を及ばさないはずがない。冗談でもバカにしたらもう合格などない。冗談でもダメです。真の敬意が欠けるからそういう冗談が出るのです。竹の会で合格してきた子というのは、決して竹の会やわたしを冗談でもバカにする態度はとったりはしませんでした。

 勉強するけれど、そして成績もいいけれど、なぜか落ちるという子もいます。鼻持ちならない慢心のなせる業です。どんなにがんばったとしても謙虚さのないところに合格はもたらされますまい。不安と恐怖は人並みはずれた努力をした者のみがもつことのできる負の精神です。努力もしてこなかった者がもつ不安と恐怖はもつに値しない感情です。勝手に懼れていればいいことです。なぜって、最初から成功することなどないのですから。奇跡なんか起こらない。

 「負の力」とは何か。九州大医学部卒の精神科医帚木蓬生(ははきぎほうせい)著「ネガティブ・ケイパピリティ」がある分析を試みている。そこで使われるネガティブ・ケイパピリティという語の意味あいは必ずしもわたしの考えている定義とは同義とはいえないけれどわたしはこの書から示唆を得たことは否定しない。奇しくも出身大学がわたしと同じというのも偶然ではあるけれど親近感がもてる。九大の医学部はかつては教養部のあった六本松と本学のあった箱崎の間に位置したところに広大なキャンパスをもっていた。薬学部、歯学部、同病院、医学部、同病院、看護学科など医学系の学部が集中していた。わたし九州大学仏教青年会という財団法人の寮に法学部や医学部の学生たちと生活していた。この仏教青年会があるのは、日本では東大と九大だけである。理事には九大教授や医学部の医師、弁護士などが名を連ね、多額の寄付で運営されていた。わたし久留米で催された法律相談会に出たことがある。無料で法律相談をするというものである。当時わたしは教理部の部長をしており、さまざまな活動をしてきた。医学部の連中とはその当時に知り合った。だから医学部出身と聞くと親近感がわく。

 ネガティブ・ケイパピリティとは、答えの出ない事態に耐える力と定義されている。まず答えのある問題を解決、しかも迅速に解決する能力を試す、現在の教育とは相容れない概念である。著者は精神科医であり、そこでは、薬もつかえない、解決不能の患者、精神的負の状態がある、そういう状況の中から必然にこのような概念が出てきたのか、と思う。

 著者が言う、日薬、目薬というのは、なかなかの造語である。日が薬というのは昔から言われたけれど、目が薬というのは初耳であった。日とは時間が病気を治癒させるという意味である。目とは、患者を見る目をいう。通常は家族と思われるが、家族だからといって温かい目で見守るとは限らない。ここでは医師の目である。医師が解決不能の病気をとにかくもそういうものとして見ている、そのことが患者にはなにがしかの救いになっている、というものである。

 わたしが「この子だけは受からせたい」と真摯に思うとき、わたしはその子をいつも思い、見ている。それと同じであろうか。「わからない」、できないという子をいつも見ている、見続けている、そのことがその子どもにわかっているときそこに力が生じる、それがネガティブ・ケイパピリティである。

 竹の会の神様を信じる気持ちも竹の会の神様がいつも見ている、見ていてくれるという思いが、負の力になる。母が見守る、家族が見守る、これが負の力になる。昨今のモンスターママの過干渉、過保護が子を壊すのとはちがう。じっと見守る、これが力になる。じっと見ていてくれるというこの思いが力となる。

 頭がいいと自称する人というのは、問題には答えが必ずあると思っている。確かに、博覧強記で、よく知っている。訊けばなんでも答えてくれる。実に明快に答えてくれる。大学教授、弁護士、医師、評論家、作家、専門家、みなよく知っている。クイズ王が難問に瞬間で答えるのもすごい。しかし、なにかがちがう。みな答えがある問題についてどれだけ速く答えをだせるかを競っているだけである。面白いのは経済の現状分析である。百家争鳴にして百の答えが飛び交う。百の答えがあるというのは答えがないのと同じではないか。それでも答えは「ある」という前提だけは崩さない。小学にしても、中学にしても、高校にしても、わたしたちの受けてきた教育というのは、予め答えのある問題についての解決能力の速さを競うことではなかったか。

 すべての問題に答えがあるというのがそもそも幻想であった、福島の原発事故は、答えのない問題であった。内閣、官僚、東電などが稚拙で、幼稚な判断をした。答えのある問題だけしか考えてこなかったバカたちが誤判断の連鎖で福島を人の住めない土地にしてしまった。人は、答えのない問題にも、なぜか答えを出したがる。原因のわからない病気に病名だけはつけてわかった気になる、そういう愚かなことを専門家と言われる人たちが平気でやる。効かない薬を効くと言って売る。人は答えがあると安心する。答えがない不安でしかたない。しかし、世の中の問題のほとんどには実は答えなどないのが真理であろう。無理に答えを求める、用意するから、ウソが罷り通る。

 専門家がだめなのは、知っているからである。だから考えることもしない。あたりまえなのである。疑問を差し挟む余地などない。哲学者の森本哲郎の文章に、人はあたりまえにすることで考えないことができる、日常にとりこむことで悩まないですますことができる、というのがある。専門家というのは、素人にとってあたりまえでないことをあたりまえとして悩まない人種である。考えない人種である。わたしたちは、「知っている」と言下に撥ね付ける人種に興味はない。あたりまえをあたりまえでないとともに考える人に惹かれるのである。だからわたしは博覧強記然とした物知り顔、したり顔の人種が嫌いである。

 「今生じていることを手を加えずに持ち堪えること」 治療上たいせつなこと 

  これは英国の小児科医ウィニコットのことばとされる。「わからない」という子にすぐに向きになって「教える」先生はだめということです。

 「人の病の最良の薬は人である」

 人は不可解なものを突きつけられると、何とか意味づけしようとする。北朝鮮の動向にコメントを求められた専門家と言われる人たちが、明快に即答するのは滑稽でしかない。面白いのは人というのはこういうような場合、希望的観測のほうに意味づけする傾向があることである。「わかりたがる」脳は、不可解なことが不安でしようがない。だからとにかく意味づけをほしがる。このときに自分の「こうであってほしい」という希望を意味づけに優先する。

 人はだれもが必ず死ぬのだということを、みな知っているのに、なぜ絶望的にならないのか。わたしの勝手な仮説だが、この死の知識を思う回路と未来の、いや当面の楽しい時間を思う回路というのは、一方を思えば他方は切れる関係にあるのではないか。だから近親の死とか、自分の病とか、そういうときでないと、回路がつながらないようになっているのではないか。これは人が生きていく上での進化の結果ではないのか。

 目薬というのは、だれかに見守られている、理解されている、という薬である。竹の会の神様に見守られている。竹の会の先生に見守られている。お母さんに見守られている。これである。先生に期待されている。お母さんが喜んでくれる。お父さんがうれしそうである。だから頑張れる。これである。

 そういう思いは必然、そういう人を敬う心に結果する。慢心する者、驕れる者には、見守る人などいらない。謙虚さの欠片もない人間を温かく見守る人などいない。不安と恐怖に震える、弱い存在であると自覚する子は見守らないでどうするか。

 過干渉の母親、過保護の父親は、じっと見守ることを知らない。すぐに答えを用意して子どもが悩むことを許さない。答えは常にある、正解というものが絶対にある、と信じて疑わない。大手塾を選ぶのも正解の一つであり、いい講師を有り難がるのも正解の一つである。いいテキストを手に入れるのも正解の一つである。こういう親というのは、正解のないことを許さない。またどんな問題にも正解があると信じている。竹の会の入会試験でA合格どころか合格さえもしていないのに、そしてA合格が小石川合格の要件というわたしの言をとらえて、竹の会にいても小石川合格はない、という正解としかし他の塾なら合格できるという正解を出す。なぜ答えを性急に出さなければならないのか。そもそも小石川は大前提なのか。

 子どもがバカだという理由で何もしないことは正解なのか。

 江戸の昔、迷信が幅を利かせた時代、占い師や祈祷師が病気を退散させるということが信じられていた。今でもそういう人たちが少なからずいる。見識のある人、知識のある人、教養のある人たちが、祈祷師を歯牙にもかけない、というのはよくわかります。しかし、医学の世界では、今では、プラセボ効果というのは、あたりまえのことになっています。難病だともう何もできない。しかし、現実の問題として、今を持ち堪えていくしかないではないですか。そのときに、つまり、何もできそうもないところで、何かをしていれば何とかなる、そういう極限の精神は否定することはできないではないですか。祈祷師はとにかく何かをやってくれている。そして祈祷を受けている人はとにかくそれで持ち堪えていけると思っている。これを否定するのは科学的に証明されたプラセボ効果を否定することにならないか。

 わたしたちはとにかく持ち堪えていかなければならないのである。勉強ができないという子を放っておくことはできない。何もしないよりも何かをする、その何かに応えるために、何かをする、塾の先生にはそういう力はありそうな気がします。

 どんなに暗くても闇の中を彷徨っていても夜の明けない日はない。朝は必ずやってくる。必ずやがて夜が白み朝日が差し込む時がやってくる。

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小田原一夜城

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