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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

日比谷一強時代へ/小石川・武蔵二強か/東京にはろくな塾がないという結論

2018.04.01

 春霞漂う4月の朝は冷たくもあり暖かくもある。結局原発も止めようとしないし、温暖化対策もなし崩しである。次に確実に起きる制御不能の原発事故、温暖化がもたらす巨大台風に見舞われることを正視しないという愚かな判断が近い将来に問われることになる。天才的な頭脳が集まったはずの官僚組織が愚図の集団に堕するのはどうしてか、どう見ても愚かな低脳者たちの集まりにしか見えない相撲協会などどうでもいいけれど、国会議員ひとりひとりがバカにしか見えないのは日本の将来、いや子孫たちの生きる時代を思えば心は暗くなる。それにしても相撲協会の会見で元検事というのがブレーンとして代弁していたが、体制維持のための論理は、下手くそな作文を読むようで、正義の欠片もない。組織の論理、体制の論理、全体の論理が個人を抹殺することを日本の人たちは対岸の火事としてビールでも飲みながら高みの見物をする国民性である。どう見ても器の一回りも二回りも小さくなった政治家二世に日本の行く末を託すしかない現実はいかんともし難いものがある。今日はまだ無事であることの幸運を喜びただ感謝するしかない。

 1月、2月、3月とさまざまな親子が訪れては消え、消えては訪れた。竹の会では入会試験をこういう人たちに実施してきたけれど一人としてまともに点を取り合格の判定を出したものがいないのには驚く。竹の会の入会試験が難しいのかと思ってしまうが、過去たとえば小4の4月に受けた子が満点、つまりS合格をとった試験であり、同じ試験を小5間近の小4や、小5が不合格、せいぜい仮合格というのはどうしたものか。竹の会では、通知表の「よくできる」が8割あることを入会試験合格の目安としているが、この基準を満たすのに落ちる子が続出する現状に慌てている。学校の内申評価がまじめな女子には特に甘いようである。さらには、近年竹の会の入会試験に申し込んでくる人たちには内申5割前後の子が多く、わたしが8割を目安としてください、ということがほぼ受け流されている。案の定そういう子たちが正式合格することはまずない。竹の会では、仮合格制度を設けて、とにかく指導をしてようすをみる、ということをしてきましたが、こう仮合格ばかりだと、竹の会の中に仮合格者の占める割合が多くなることを危惧せざるを得ません。小3や小4早期だと仮合格というのは意味があります。やってみなければ伸びるかどうか、わからない時期、年齢だからです。今年の富士合格者が小5の後半の仮合格であったという例もあります。仮合格者については、実際に指導できるかどうか、2から3か月ようすをみる、ということになっています。つまり、退塾含みの受け入れということです。仮合格でも熱心な子もいれば、A合格しても「勉強しない」「勉強よりも優先させるものが多い」という子は結局落ちることはわかっていますから、どちらが指導に値するか、微妙なところがあります。

◎世の中にはろくな塾しかないのか

 子どもをひとりひとりをじっくり観察して、頭の中を診る、診断する、脳の段階を突き詰める、そのためにさまざまな問題で調べる、どういう指導ができるのか、思案する、そもそも指導が可能なのか、何ができるのか、この子は、これまでに何を習ってきたのか、どこまで思考することができるのか。そういうときに、これまでに、この子の指導をしてきた塾というものを考える。巷の塾というのは、いったい何をしているのか、子どもたちに大切な、基本的なものを何も授けていないではないか。割合が終わったという子について、調べてみると、割合どころか、計算も満足にできないではないか。分数の計算をできると言いながら、実はできると思っていただけ、そういう現実を見て、ただ呆れるばかりである。巷の塾というのは、いったい何を教えているのであろうか。テキストを進めているだけで、肝心の脳は空っぽのまま、伽藍堂の小学生を作りだしている、そういうことなのではないか。始末が悪いのは、親が子どもがまともに力をつけていると信じていることだ。大手塾が、いちいち子どもがほんとうに「できるのか」確かめながら前へと進めていくことはないのはあたりまえとしても、大手とは一線を画するはずの個人塾までもこれでは塾など信じることはできない。中小の、数か所の教室を構える塾というのが、まるで大手を見習えとばかりにやっているのだから、もう呆れるほかない。

 いいですか。子どもというのは、1回言っただけで、なんでも理解する天才などは、何十人かに1人ですよ。ほとんどが一度や二度の説明でわかることはない。だからこそいちいち本当にわかったのかどうか、確かめなければならない。竹の会が一問一問出させて、確かめて、また出させて、というのを延々と続けるのは、子どもが「わかった」というのを全く信用していないからです。わたしが、次はこれ、次はこれと、延々と試して、できるかどうかは、わたしが確証つかむ、ことなんです。それで初めて次のステップに進める。だからわたしは入会試験にも合格できないバカはとらないのです。さらには、仮合格というのも、正直それほど優秀ではない、ということです。親御さんの期待がどんなに強くてもだめなものはだめです。

 ただ仮合格としても、わたしのやりかた、指導の方法は、効果があまりにもありすぎる。だから仮合格としても「伸びる」。しかし、正直わたしにはかなりしんどい仕事なのです。こういう子ばかりだと、手がかかりすぎてもう体力がないのです。ですからあまりにも手のかかる子はお断りするしかないのです。特に、家庭学習がほとんどゼロという子、勉強したのは、塾だけという子はどうか竹の会から自主的に退場していただきたい、そう思っております。わたしはもう歳です。いつやめてもおかしくない年齢です。ですから、毎年毎年がいつもこれが最後になるかもしれないという思いでそれは必死に臨んでいます。そうなるとわたしのわがままですが、優秀な子をのみ天井まで伸ばしてやりたいと思うわけです。わたしの最後の仕事になるかもしれない、それならもう思い通りにやりたい、やらせてほしい、と思うのです。

 わたしは、よく子どもたちに言います。日本にいる限り、「勉強しない」ということは、貧困階級へ真っしぐらに進むことを意味するのだということを。高度経済成長期には中流階級というのが自由を謳歌しているような風潮の書籍で溢れていましたが、近年の著作には、はっきりと日本が、富裕階級と貧困階級の二極化に進んでいることを指摘するものが増えております。勉強しない子どもたちが、将来の貧困予備軍であることはもはや確実に現実となることを確信するほどに明らかな現実です。だからこそ親たちは子どもの教育で真剣に悩むわけです。親もわかっているのです。勉強しないことがどういうことなのか。あたりまえです。だから真剣に塾を探すことになる。まあ、ここではたいてい大手ないし中小塾へといくことになるのですけれど、そういうところに入れられた子どもの大半がどういうことになるか、なったか、です。たいていの塾というのは、子どもが実際にできるようになったのかどうか、そんなことはお構いなしにテキストをカリキュラムにしたがって、授業という形式で、たいていは学生講師が、つまりただのアルバイト感覚、つまり小遣い稼ぎの学生が、進めていくわけです。指導というのは実際にやってみたらわかることですが、ひとつやらせてできるか確かめて、できなければまた別の手を打って、できれば次の手を進めて、また確かめる、そういうことの繰り返しなんです。十把一絡げで扱えるわけがないのです。これは天才を指導するときも変わらない。天才ほど言葉で表現できない子が多い。俗にいう優等生というのは、なかなかのもので言葉も理解もまるで大人、こういうのが、集団授業には向いている。天才は授業なんていらないし、そもそも教えてもらわなくてもできるから、だから必要なのは、やはり「次の一手」を示して、方向を示してやることなんです。

 こうもできない子ばかりがいるのを見てくると、いったい都内の塾でまともな塾というものがあるのかと言いたくなる。大手塾に2年も行っていたというのに、計算ひとつまともにできないというのはいったいどうしたことか。それなりの規模の中小塾に行っていたというのに、計算はでたらめ、割合は実はテキストを終わっただけで、なにも理解していない、それがあなたたち親がよかれと1年も2年も時間とカネを使って塾に通わせた結果です。もちろん塾がひどいからですが、そういう塾を選んだ親にも責任の一端はある。そして子どもこそ被害者である。驚いたことに失敗してもそういう塾のことを決して悪く言わない親子が多いことです。塾は一生懸命やってくれた、と信じているのです。確かに、真摯にやってくれたのでしょう。ただひとつ欠落しているのは、塾としての良心です。

◎わたしは、指導の達人、と思っています

 指導とは、わたしが三十有余年わたしが追求してきた、究極の、塾の核です。ワンポイントで的確に子を導くこと、 子が何に困っているか、何に戸惑っているのか、的確に見抜き、次の一手を打つ。次にいかなる手順を踏むか、あれこれと思案する。これと判断したら、所期の狙いを、一手一手に込めて、打っていく、吉と出るか凶と出るか、いちいち確かめながらとにかく手を打ち「ようすをみる」。これが、導く、ということの実際である。あっ、ここまでは理解できるのか、ここは理解できないのか、 そういうことを丹念に調べながら、次にどう指導するのか、考える。わたしの指導とはいつもそういう手のかかるものであり、骨の折れる仕事である。だからだれもかれもと引き受けるわけにはいかない。そんなことをしていたらとても体が持たない。

 竹の会は、指導方式、方法、最強の創作レジュメ、そういうものが、出色というだけであるのか。 そうではない、指導の力、これを考えないで、やりかたがどうの、教材がどうの、宿題があるのか、わからないときは質問できるのか、最初は教えてくれるのか、とそういうことにばかり、訊いてくる親が多いけれど、竹の会は、実は、わたしの指導の力なしには、語れない、そういう塾なのです。わたしの指導によって「変わる」、奇跡を起こすのです。あなた方が想像もしていない、いや思っている以上の、それこそ想定を越えた指導の粋が尽くされていることを知る人は少ない。わたしの手にかかればたちどころに、小数をマスターし、分数を操るようになる。たちまち割合の難しい問題を考える、思考の姿勢ができあがっていく、そういうわたしの奇跡の指導術の凄さを知る人はいない。わかるのは、実際に、わたしの指導を受けた、その時である。その時にわかる。そして親はその時に初めて竹の会という塾の真実を「知る」ことになる。竹の会が、わたしの、指導術において、卓越した塾なのだということを、悟るのである。 竹の会は、あなたたちが、想像している、はるかに上のところで、だれにもなしえない、想像もしなかった指導の妙を、あたりまえのように示して、子どもたちを「できる」子に変えているのである。 嘘ではない。あなたたちは知らないし、わからないだけである。 竹の会という塾の真実の価値を知らない あなたたちは、私の指導の力を想定していないから、表面だけでわたしを、竹の会を判断する。あなたたちの信じる大手の塾で、あなたたちの子どもは 計算は自己流、効率の悪いやり方をそのままに、是正されることもなく、親も子も「できる」という伽藍を形成し、馴れ合いのままにやり過ごされて来た子たちに真の理解など永遠にこない のに、多くの方たちが、塾がどうなのかということばかり気にして、そういうところばかりを見て、判断されている、わけです。実は、竹の会というところは、わたしの、精妙精緻な、指導技術というものが、レジュメなり、説明なり、指示なり、全ての根幹にあるということです。

 

 

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