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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/両国、桜修館、九段、富士が狙い目/子を社会的弱者にする母親、ときに父親

2017.04.22

 おはようございます。4月も下旬に突入しまして受検まで正味9か月となりました。世の中には受験感覚の鈍磨した親がいましてなぜか8月までは勉強よりもさまざまな私的な由無し事を優先させることに特に抵抗がない。これは実は世の中の受験に失敗する親たちの共通した意識にその根があるのかもと思料します。

 都立高校の凋落が社会問題となり、公立中には学習不振児が蔓延し授業崩壊があちこちで報告されていたのは十年ほど前のことでした。今もその実質には変わるところはないと思いますが、公立中高一貫校制度、小中一貫校、進学指導重点校の指定など、いろいろと施策が講じられてはきましたが、私立優位の流れは本流のままです。そもそもかつての都立高校の栄光を骨抜きにした学校群制度とか、グループ合同選抜だとか、愚にもつかない愚策を弄して都立を崩壊させたバカたちは、ゆとり教育などというバカを重ねるわけです。いい加減に愛想をつかした優秀な子どもたちは競争理念に徹した私立難関中学へとこぞって流れていったのです。詰め込み教育とか、受験競争とかを目の敵にしてもっと教育をと叫び、バカな教育評論家、教育関係者たちが、熱心な受験専門家たちを非教育的として血祭りにあげていったのです。

 世の中には受験競争ということを正面から直視しないで、背中を向ける親というのがまだまだ多いと思います。習い事や稽古事などに熱心な親というのはどこか受験というものを遠くに眺めているようなところがある。公立中高一貫校というと、なにか緩和された受験という意識で受検に踏み込むようなところがある。この不徹底感が公立中高一貫校の受検を考える親には宿しているような気がする。受験競争には懐疑的でありつつも、公立なら受けてもいいか、という発想である。

 私立受験の親なら受験競争ということを直視するのかという必ずしもそうではない。私立受験の親子のほとんどが第一志望に入れずに第二、第三に入るか、はたまた区立中学へ行くことになる。つまり、合格するほどの子たちならば受験というものを直視していたにちがいないが、脱落する親子にそこまでの徹底した受験意識があったかははなはだ疑わしい。

 私立受験失敗の親子には共通したものがあるとわたしは見ています。過保護なんです。子を傷つけまいと親は先回りして環境を整えることばかりやっている。子は親の洗脳により自分が特別だという意識だけは巨大化し、プライドを傷つけられることに敏感である。過保護の最大の罪は子が真に競争するということから常に遠ざけるところにあります。受験競争をやっていながら受験競争を避けている、そういうことです。子は「逃げる」ことによってプライドを守る。何かちょっとでも障害があるとすぐ回避し、その回避を合理化し、正当化するようになる。正面から障害に立ち向かう、なんとか工夫して切り抜ける、乗り越えるという訓練を親の過保護が排除し、逃げる、回避するという行動特性を内面化してしまったのである。うまくいかないと必ず環境のせいにする、他人のせいにする。親はそれをまた子の言うとおりに信じて環境を整える、そういうことばかりやっている。孟母三遷ではない。子に構い過ぎて子を損なうのである。競争を直視しないという点では先の公立中高一貫校を受けてみようかという程度の親たちと同根である。

 わたしたちが生まれた来たのも競争に勝ち抜いた結果であった。人生は生まれてからこのかた競争こそが本質的なもの、中核である。ダーウィンの進化論は生存競争の結果生存に有利なDNAを持つ生物が生き残ってきたという仮説である。ウィルスが生き残るために涙ぐましいほどの生き残り作戦を実行しているのは周知のことである。生き残る、これだけはもはや理屈ではない、生物の本能というしかない。人は生まれながらにして競争社会に放り込まれる。生き残るには競争に勝つしかない。そういう事実を直視するか、目を逸らすか、それで人の価値観は決まる。趣味に生きる、人生を楽しむ、それもけっこうである。競争に背中を向けても生きられる、生活できるのならそれはそれでけっこうである。しかし、わたしたちは競争に勝ち抜かなければ生きてはいけない、普通の人である。子どもが将来どういう職業を手にするのか、それが実は生きることに直結する。いい職業を得るために競争社会にあることを自覚し、直視し、生き抜いていく、親は生き抜くことを教える、これではないか。

 わたしが言いたいのは、競争、つまり受験競争から目を背けるな、ということである。直視して生き抜くために正面から立ち向かう、これがすなわち人生である。その人生を教えこむのが教育である。生ぬるい、緩和された、競争がまるでないかのような、曖昧な意識でこの社会を見るからいくらでも受験競争から離脱するような行動がとれるのだ。

 過保護が高じて子依存症の母親が社会的弱者となった子の人生を翻弄する。競争は子が自立する機会である。子の競争に親が入り込んで子の自立を妨げてどうするのか。親は子の競争に介入してはならないのである。子から自立の機会を奪ってどうするのか。親は子の戦う姿を遠くから見る、見守ることしかできないのである。子の競争に親が介入して、すべて親が仕切る、子の言うままに環境整備する、そんなことやってるからひ弱な子が育つのである。逃げる子、回避する子にしたのは幼少期から母親が介入しすぎた結果なのにそういうことにはまず思い到らない。

 受験競争は否定などできない。わたしたちは社会にある限り競争の中に生きており、子どもだって受験競争という人生を学習する機会を通して成長する。競争を直視すれば自分が何をすべきか見えてくる。すべての行動の基準は競争の中にあるということから自ずと明らかになる。競争は油断したものが負けることになっている。驕ったものが負けることになっている。余裕のあると誤解したものが負けることになっている。競争とは切迫した状況に身を置き常に緊張感をもって注意力をはたらかせながら他者を凌ぐ努力をする所為である。

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