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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/小石川、桜修館は学校の優等生でも無理/「わからない」の正体/竹の会との邂逅

2018.05.02

 おはようございます。今日は学校は「ある」のでしょうか。竹の会は本日は渋谷Aの指導を入れております。去年はお休みにしたと思います。確か去年は6日が休みでなかったように思います。竹の会渋谷教室の最初の指導が2014年の5月6日のことでした。当時はまだ元代々木教室を残したままでわたしは2つの教室をかけ持ちしていました。元代々木教室は、昭和60年10月に開設しました。2014年の7月20日に事実上閉鎖するまで27年間地元の中学生を高校に送り出してきました。上原、西原、代々木、初台、幡ヶ谷、大山などには数百人の竹の会で高校受験をした生徒たちがいたと思います。今は卒業生の顔も名前もかなりにおぼろげになってしまいましたが、みなさんそれぞれに活躍されていることでしょう。平成20年前後からしだいに他区から通う子どもたちが目立つようになりましたが、今のように他区の子たちで占められるようになったのは渋谷教室に移転してからの話しです。渋谷教室に移転してから、もうおまけの期間と思い、わたしの思うようにやらせていただいております。かつての竹の会でも退塾処分というのはよくありましたが、今は以前に増して退塾者が増えているように思います。レジュメ指導が円滑に機能していないということを特に重視した結果です。「勉強しない」子を意味もなく塾に縛ることの無意味をよく承知しています。退塾した子たちはまじめでいい子たちばかりでしたが、ただ一点「指導が機能していない」という点で退塾としたものです。今は、わたしの年齢からくる体力的な理由から、無理をして指導しないということではブレがないと思います。仮合格者も長い子になりますと、指導に限界が見えている子も実はいます。しかし、熱心に勉強する、休むことなく、真摯に通う姿勢を見ていると、とても退塾を言い渡すなどということはできない。このへんも正直葛藤とストレスの原因になっているのかと思います。竹の会は今では渋谷区以外から通う子たちで占められています。わたしが夢見てきた「渋谷区にとてもいい塾があるんだよ」という噂が東京23区のあちこちでささやかれるようになること、そういう夢を持ち続けてきましたが、もしかしたらもう力尽きて三十有余年の竹の会の終わりの日が刻々と近づいている、そういう予感もしています。

 竹の会と出会うにはたまたまわたしのブログに出会う以外にないのです。大手のように大資本をかけて宣伝するなどということはもちろんできません。ですから竹の会を知るには今もこの細々としたブログを書き綴る以外にはないのです。ほんとうに偶然にわたしのブログに出会った人たち、目を留めて下さった方たちが、なにがしかの関心、興味をもたれて、「草枕」をお読み下さる、そういう中で、その中のまたほんの一部の方が竹の会に会ってみようという気になり、わざわざ入会試験まで受けにきてくださるのです。しかし、この入会試験がなかなか合格ということにならないのがほとんどで、それはそれは多くの方が落胆されて去っていったことでしょう。わたしも特に、小3から小4早期にかけてきてくださる皆さんにはできるだけ入会試験も平易にし、仮合格で救済するようにしてきました。この仮合格も小5以降ではやはり指導に困難を来すことが多く仮合格本来の趣旨にのっとり早期退塾を促すほかないのですが。

 竹の会と出会い、竹の会の指導を受けるようになったお子さんたちの、その後については、ほとんどの親御さんがサイレントということもあり、わたしが知るのは、親御さんが実に熱心に子どもさんを通わせるということ、それから「草枕」を実に熱心に読まれているということ、わたしが何日かブログを更新しないとたちまち親御さんたちがいろいろと心配されてくる、そういうことをひしひしと感じております。ただ時折何かのついでに親御さんたちからいただくメールには、子どもさんの変化に驚き、竹の会に感謝する気持ちに満ちあふれたものばかりで、そういうメールを通して現在の竹の会の親御さんの思いを推測するばかりです。

  

⭕️「わからない」の正体

 教科書を読解できない子供たちが実はかなりの数いる、ということに思いがいくようになった。 「わからない」のは、考える以前に、そもそもの読み取りができないからなのではないか。 「わかりません」というときに、わからないのが、算数なら算数の、数学なら数学の、問題そのものではなく、問題文を読み取れない、という意味の「わかりません」ということではなかったのか。どんなに勉強熱心だとしても、文章読み取りのレベルで、わからない子は、受検、ないし受験の前段階の、勉強の入り口のところで、すでに躓いており、こういう子については、受検どころじゃない、と思う。受検どころではない、もっと本質的な対応をしてやらないと、将来まともに生きていけないのではないか、そう思う。指導のポイントが根本的に違う。

 恐ろしいのは、昨今英語早期教育とかで、こうした子の国語教育が捨て置かれることだ。また「算数が苦手」というと、すぐに家庭教師かなにか、雇ったりするけれど、 そもそもそういう問題ではない。つまり何かを「教える」という問題ではなく、「読んで理解する」という、ある意味人生の根本のところが欠落しているのであり、そこをどうするかという視点こそが問われるのではないか。

 たとえば、牡蠣に含まれる成分が効くという信仰がある。商品を売る方はでっち上げたデータを示し、買う方には、もともと何かが足りないからという平衡を失った心理が強くはたらいている、そういうものに引かれる、というのが、現代の人々の行動基準にあるのではないか。選挙で自民党が圧勝する構造にも似たものがある。それはともかく何かそういうものを求めるという心の渇きが母親たちの行動を規定しているのではないか。 何かが足りないから、できない、という信仰に近い論理である。 これと同類なのが、 自分の部屋がないから、できない、 いい机がないから、できない。 できないのを何かのせいに転嫁する子どもたちの論理である。いい机を買ってもらった途端また別の足りないものを見つけて、できない理由は延々と続く。こういう子たちに欠けているのは、そもそもの実行する意思と行動であり、本質的に、楽をしたい、つまりは怠けたいという深層心理である。 できないのは、やらないから、 それから、できないのは、教科書を読むことができないから、である。これは、やらないというより、やれない原因である。 何かのためにできない、というのは、およそ誤解である。できないのは、教科書も読解できないほどの貧弱な能力、もしかしたら語彙のせいである。要は 実行するかしないか、である。実行とは、才能である。 人は基本的に怠惰であり、楽をする方に流れる。 これは頭の良し悪しとは関係ない。頭が良くても怠け者はいくらでもいる。頭が悪ければなおさらである。稀に頭は悪いけど実行するという子もいる。が、 ほとんどの凡才は怠けるのを常とする。 人間というのは、当面の楽をとりあえず優先する。苦は後回しにしがちである。 だから普段の勉強も後回しにする、つまりやらない。何かが効くという信仰はやらない、実行しない人間の心理にほかならない。

  勘違いした人たちがいる。 教科書が読めない子というのが、昔からいた。そういう子たちには テキストは無用の長物ということである。 そういう子に授業をする意味があるのか。 教科書の読めない子たちが塾に行くのはもともと無意味な選択だったのである。読みができない。目に入る断片的な単語以外の言葉は読んでいない。そういう読み方しかできない。考えるとは、教科書を読み理解することである。 考えるとは、教科書が読解できることである。そして「教える、説明する」、それで、「理解させる」、それが、授業ということである。 しかし、待ってほしい。そもそも教科書を読んでわからない子に、授業することなんてできないのではないか?  教科書がわかる子に授業するのが本来でしょ。

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