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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

最低でも都立戸山/日比谷、西/小石川中等/道は造るもの

2017.07.31

 おはようございます。本日は夏期渋谷A第3回指導日です。7月31日、天気晴朗、早朝の空気はひんやりと爽やかです。竹の会のみなさんには1日7時間以上の勉強を期待しております。小6,中3は当然として、中学1、2年はもちろん小5は小6になればその意味がわかることです。「まだ小5」という考えが根拠のない勉強の先送りをあたりまえにするのはみな親の甘い認識からきています。合格する家庭というのは、子どもの勉強したいという意思を親が尊重することにおいて突出しております。見守る、精神的に支援する、環境を整えてやる、邪魔をしない、そういうところが顕著な共通項です。親の都合で子どもを引っ張り回すことをする家庭というのは、結局どんなに勉強に熱心であっても、こと受検に関しては、いい結果には結びつかない。また受検が子どもの心の叫びならそういう子は習い事、稽古事などに見向きもしないものです。一途に勉強のみを追い求めるものです。

 わたしは小5期に竹の会にやってきた子たちに自分が遅れているという意識の希薄なことに驚いております。特に、渋谷Bでは、その傾向が強い。今渋谷Aの小6が小5期に竹の会にやってきて、「まだ小5だから」という意識で過ごしてきたこと、いや小4期の過ごし方が問われているときに、遅れに遅れている渋谷Bの小5のみなさんがそのことの重大性を意識していないということです。小5期の勉強の遅れが結局小6になって遅れに遅れて日々の指導についてこれなくなっているというのは今現実に起きていることです。現小6のほとんどの子が日々の指導レジュメを終わらせられないで先送りしています。積み残しのレジュメを抱えて先送りばかりしております。かつて平成20年のことでしたか、膨大な量のレジュメのほとんどを積み残してとうとう本番に至った子がいましたが、積み残しの結果、どうなるか、それは1月になってわかる、過去問がほとんど解けない、白紙で出すしかない、という現実です。制限時間、つまり45分で解かせればすぐわかります。積み残しは不合格証明書になるだけです。

 ◎将来の道は、小4の過ごし方で決まる 

 23区の公立中高一貫校をめざすほとんどの親たちが、小5の後半あたりから受検を考えて動き出す、これがそもそもの子どもの未来をすでにしてダメにしているということではないですか。私立中高一貫校ならどこの親も小3とか、小4からもうスタートしてますよ。公立だからとのんびりする意味がわかりません。今は小石川などは80%が私立難関受験者併願校になっています。つまり、真の敵は小3から鍛えに鍛えられてきた、大手進学塾に通ってきた子たちなんです。小6前後からそろそろなんて何を脳天気なことを言っているのか、わたしには理解不能です。

 小4というのは、小5,小6と訓練を継続することによって勉強に対する姿勢というか、生活習慣をつける最適の好機なんです。このときから訓練した子たちが将来大学、就職、難関資格試験に挑戦できる資格を得ることができるのです。そのために小4から道を造るのです。そうです。道とは造るものです。自ら造るものです。小4から何も訓練もしないで、放任している家庭というのは、自ら子が未来に進まざるを得ない、最下辺の道を選んでいるにほかならないのです。受検というので安易に公立一貫校を看板にして商売している大手塾に躊躇なく、つまりは信仰に近いくらいに信頼しているということなのでしょうが、放り込むことの愚をやるのが23区のほとんどの何も考えていない親たちです。まあ、こういうことで巷に安易な道を、予め用意された陳腐な道を歩むことになる人たちが増えても、自らを律して道を造ってきた少数の人たちには喜ばしいことです。生存の法則から言えばライバルが落ちていくのはこれほどうれしいことはないからです。

 親というのはなんとももっともらしい理屈を言っては誤った道を選ぼうとする。わたしにはわかるのです、一年後の親の選択の結果どうなるかが。今の勉強は将来の自分の進む道に近づいていく、最短の道、そうこれも道です。人は道を造るために生きている。道は本質的に未知である。白川博士は、道という字は、見知らぬ地、異端の地へ踏みいるとき、禊ぎとして、生首を手にぶら下げて踏み込んだところからきていると、その由来を述べています。わたしは、道を進むというのは、それほどの覚悟をしてのことだと解したい。道は形成するもの、造るものである。生半可な勉強ではとてもまともな道はできない。できるはずがない。道なきところに道を造る、これが勉強である。青洞門のように山を掘り抜いて洞窟を掘るのに等しいことなのではないか。稽古事、習い事をやりながら洞窟が掘り進められるか。もうダメかもしれない、と絶望的になりながらも、ときには泣きながら、それでもただひたすら道を造る、無心に掘る、勉強とはそういうものではないでしょうか。

 

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