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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

竹の会お休みのこと/新規募集(スタッフ権限)のこと/子どもの指導とは何か~主として事実の問題について

2019.03.11

 おはようございます。本日から3日間、竹の会はお休みとなっております。11日(月)、12日(火)、13日(水)の3日間です。ご注意ください。

◎スタッフによる新規募集について

 近日中に、スタッフからの募集があると思いますが、わたしの求める入会条件とは異なり、入会要件が若干異なる、やや緩和されているかもしれません。これはこれで塾長が了承したものです。

🔴わたしは、自分の目で見た「事実」しか信じない

 事実を正確に読み取る、観察する目をやしなえ!
 竹の会で、わたしの指導を受ける者は、事実をのみ根拠として論を為さなければならない。事実の読み取りの訓練こそが、焦眉の急となる、先決条件である。適性検査問題は、事実を見る目を養えば、特別なものではない。よく算数ができない者を質してみると、算数がわからないのではなく、それ以前の問題文を事実として、読み取れていないことが、まずもって問題なのだということがわかる。だれかが、「算数は国語ができなければ解けない」とか言っていたが、ある意味では当たっているが、ある意味では、間違っている。
 事実が、文章で描写されている限りは、最低限の国語力が、必要なことはもちろんである。この限りで国語力が問われる。しかし、事実の観察、読み取りは、ひとり文系の能力だけではなく、理系の微細な観察力が問われる。共通点、相違点、相違点の所以、微細な事実の観察、全体を鳥瞰する観察、他の視点からの事実の観察、事実論は、終わるところがない。事実論が、これからの竹の会の指導のもう一つの軸となることは、予告しておかねばならない。老婆心ながら、もう一方の軸は、算数であることはもちろんである。
事実と常識論~あたりまえという危険
 あたりまえというのは、思考停止のスイッチとなる。あたりまえだから疑わない。だれかが、「あたりまえを疑え」と言っていたが、一面の真理は突いている。これと同類なのが、「日常性」という装置である。我々は日常性に取り込むことで、思考停止するという、脳を休める装置をもっている。あの3.11の津波のとき、地震が収まって、一瞬の静寂の中で、人々は、ここで危険を察知するのではなくて、津波など来ない、いや来ても大したことはあるまい、という「正常性バイアス」が働き、あるいは日常性に取り込むことで、動こうとはしなかった。
 私たちは、「日常的」なことの枠内に無理にはめ込み、思考停止という安心を選択しがちである。
 悩まない、考えないというのは、とりあえず脳を休めるという、脳にとっては重要な、脳の安全装置なわけである。私たちは考えないということで、日々のストレスから身を守っているのである。
 だから、本来この機能は私たち人間の生存には大切なものである。が、脳は、ずぼらであり、考えないことが、楽だとわかっているので、できるだけ考えない方向に走る。日常性への逃避は怠ける口実となる、両刃の剣である。
 事実も知らないで、勝手に事実を誤解して、想像だけで、偏見を述べる愚かな大人にだけにはなるな!
 こういうバカな大人は、政府のウソに簡単に騙される。福島の原発事故のとき、政府も、東電も、御用化したマスコミもウソばかりを、垂れ流したではないか。少数の事実に基づいた正当な意見が、権力に蔑ろにされ、揉み消されようとしたとき、いわゆるB層と云われる人たちが、喉元過ぎれば熱さを忘れるの例えを絵に描いたように、やはりバカを証明した事実を忘れてはなるまい。
 そういえば、国政選挙は、B層のバカを証明する祭りと化している。

 私たちは、いわゆるバイアスをかけて事実を認識する。事実を歪めて認識すると言ってもいい。自分の都合のいいように事実を捻じ曲げる。

 ここが問題なのである。事実は事実としてありのままに見なければならない。ところが、多くの、特に、社会の中で、毒された大人たちは、事実を自分の意図で、都合よく取捨選択して、構築し、これが事実だと、言う。
 事実の認識の段階から、つまり読み取りの段階から、バイアスがかかっている、のである。例えば、黒か白か、といった2分論で、事実を分けて、一方を選ぶ、というような読み取りをする。事実は、複雑で、もともと2色で、色分けなんかできるはずがないのに、2色で塗り分けて、事実を実際とは、かけ離れた幻想で、理解する。世の中の、大人が、匿名という無責任装置を使って、特定の人を批判するのを見かけるが、自分は安全なところに隠れて、反対尋問も受けないで、言いっ放して、吐け口とする、嫌な世の中になったものである。

子どもを鍛えるということの意味
 子どもが、「わからない」というとき、そもそもの事実の認識が、できていない、ということが、ほとんどである。指導する側が、このことをわかっていない。だから、算数なら算数の理論の説明ばかりする。そうじゃない。わからないのは、事実が見えてないからだ。事実というのは、意味で、抽象化する。私たち大人は、事実をパターンでつかんで、抽象化して、理解する。これはこれで問題がある。事実がすべてパターンでつかめるわけがないからである。私たちは、バイアスでパターンを作ってしまう。事実を偏見で歪めてしまう。
 指導というのは、子どもに事実をどう認識させるか、ということにまず目を向けることを言う。例えば、小数という、これまでとは、違った数の光景が、子どもを戸惑わせる。「小数点」というのは、いったい何だ、どういう事実を小数点と名づけたのか。1より小さいという事実は、いったいどういうことなのか。子どもの頭の中はもう目まぐるしく回る。算数の説明がわからないのではない。算数の言葉が示す事実が見えてないのだ。指導する側が、ここのところがわかってないと、子どもは、わからないままに、算数の言葉だけが、わけのわからないものとして、問題視される。子どもは、教え方がへたなので算数がわからないといい、教える側は、子どもがバカなので算数を理解できない、という。ともに問題の本質が見えてないのだ。学生アルバイトの講師だと、そこのところがわからない。
 わたしが、指導というとき、算数にしても、数学にしても、まず、事実の認識のところから、子どもの理解を確かめる。事実を正確に理解しているのか、ここのところを、丁寧に検証しながら、確認しながら、子どもの理解をミリ単位で、いやピンセットで、ネジを拾い、締めていく感覚で、仕事をする、感覚ですね。
 事実の認識さえ、うまくいけば、理論なんてのは、後からついてくる。理論を説いて、事実を見ない輩には、子どもを指導するなどということは、端からできない相談でした。世の親たちには、そのことが、わからない。
 わかりやすく、理論を説明する、優しい先生が、いい先生と信じている。わかってないですね。いつか道歩いてたら、おばさんが、大声で電話してる。「いいクラスに入れたの、学生さんだけどいい先生で、うちの子とウマが合うのよ」、どっかの大手らしい。世の中のおばさん、だいたいこんなものでしょ。

 坂岡真の小説からの引用
 「形でも、技でもない、感じることが、奥義なのだ、おのれを明鏡止水の境地に導き、ただ無念無想の一打を繰り出すのみ。奥義は、事実にあり、」

 事実をありのままに感じとれ。これまで学んできた理論、知識など忘れてしまえ|
 勉強は、事実の観察に時間をかけろ! 事実の読み取りには、事実を眺める、見る、ひたすら見る、五感で感じる。
 あなたたちは、事実の読み取り能力が、ないに等しい。だからできないのだ。事実というものに慣れていない。だから子どもたちを指導するというのは、まずは、事実の読み取りの訓練をする、いや事実の読み取りを検証しながら、確かめながら、読み取れているのかを確かめながら前へと進めていく、ことなのである。子どもというのは、事実がわからない。正確に把握できない。だからドリルというアウトプットに重心を置いて事実認識を鍛えなければならない。我々が子どもに教えるのは、すべて子どもが、目の前の事実を正確に認識できるための手助けである。事実はただ事実として存在するのではない。我々は事実に意味を付与して初めて認識できるのである。ところが、子どもには、見たままの事実は認識できても、事実を意味的に捉えられない、つまり事実認識ができない。こう見てくると、事実を意味的に捉えるということが、訓練の内容ではないか、と見えてくる。
 事実の読み取り方を教える、指導で教えるという関係になる。
 意味とは、あるものとあるものの関係性のことであり、私たちは、子どもに事実の読み取り方を教えるとして、その読み取りには、関係性という、頭の中の枠組み、予めの頭の準備が必要なのだということを我々指導する側は悟らなければならない。そういうことがわかっていて、初めて子どもは指導できるのである。学生アルバイト講師が、易しくわかりやすく問題の解き方を教えてくれる、という大手塾の売りと親の期待は、指導する側が、事実認識の重大性に気がつかないままに、子どもから、事実認識という過程を削除し、唐突に現れた問題という、実は高度に作られた偽装の事実から、問題点を読み取らせようとするものであり、子どもにもともとの天分を求めて、いるとしか思えない。親も教える側も、教えるということの、分析が、ないままに、こうあるべきだという論理のみが先行し、子どもを疎外していく構造に取り込まれていく。これこそが大手と親のコラボによる、バカ製造工程に他ならない。

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