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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

竹の会とはどんな塾? 第1回

2020.11.27

 

竹の会の塾の形態とは? 第1回
 この類の文章はもう何度となくこのブログで書いてきた。竹の会に入会を希望する皆さんには、竹の会の塾の形態がなかなか理解できない方もいます。できるだけこのブログを過去に遡って読んで欲しい、と思います。
 正直、電話や面談で、説明してもなかなか本当のところはわかってもらえない。
 「授業がない」ということが、引っかかる方も多い。「じゃー、どうしてるの?」ということになる。そこで「指導します」と言っても、言いたいことは多分伝わらない。「指導」を「教える」と取る方が、ほとんどだからである。竹の会では、「教える」という言葉は使わない。「授業」がないから、そのためのテキストもない。竹の会では、市販のテキストは原則使わない。指導用教材は、すべてわたしの執筆、制作になる。竹の会では、この教材のことを伝統的にレジュメと呼んでいる。レジュメを使った指導だから、レジュメ指導と呼ぶことが多い。
 中には、「生徒にプリントやらせるだけですか」、「わからないときは教えてもらえるのですか」といった定番の疑問を投げかけてくる親御さんも多い。かつてある父親は、「要するに、生徒はみなそれぞれにプリントやってるだけですね、公文みたいなものですね」と突っ込んできた。私もそういう質問にはもう辟易としていたので、「そうですね」と特に、弁明もしなかった。
 この親たちの頭の中には、塾というものに対する既成観念というものがあって、そういう基準から竹の会を理解しようとしている。授業、講師、テキスト、予習、復習、質問、宿題、土曜テスト、みなそういう古い塾の型からの発する言葉であった。
 私は、全く新しい塾の形態を観念していた。指導というのは、竹の会では深い意味がある。竹の会で「指導する」というとき、一般の意味、つまり「教える」とは、全く違う意味で使われている。だから、私が「指導する」と言ったとき、外部の親たちにその趣旨が伝わらないことはわかっている。指導=教える、と簡単に置き換えて、決めつけられても、話しは全く噛み合っていない。
 指導の「指」は、指示の意味合いが強いかもしれない。「導」は「導く」でいい。よく親たちが「質問できるのか」というときの「質問」は、「問題の解き方を説明してもらえるのか」、という意味合いなのだろう。しかし、竹の会では、問題そのものを「はい、はい」と言って教えることはない。まず、問題そのものは私がこの段階のこの子どもにはこれが適当ということで与えた問題である。もし、その問題がわからなければ、説明するのか、いやステージを一段階下げて、思考の枠組みから勉強し直すいうことなんですが、これがまたわかってもらえない。問題そのものを教えない、ということがわからない。授業がないなら、どうやって教えるのかと思われるのでしょう。ただプリントやらせているだけで高い金を取るのか、ということになるのでしょうね。ただ、プリント配って何もしない、というのは、誤解ですけどね。そもそもただのプリントとも思って欲しくないですけどね。
 「わからなければ質問はできるのですか」、「教えてもらえるのですか」、という質問をする親もいる。
 既成の塾概念からの質問です。竹の会のシステムを前提すると、答えようがない。
 教えるか、と言われれば、教えないですね。ただわたしは、基礎レベルの子どもたちには、いわゆる「教える」ということはよくやる。子どもたちは、「先生、指導してください」ということを言うけれど、そこには、子どもたちが、何か新しいことを学べるという期待が込められているように思える。この段階の子どもたちに、ただ「考えろ」とは、言わないのは、この段階の子どもたちは、もう少しで思考の芽が吹き出る、という期待があるからです。呼び水というのがあります。中々出にくい、出てこない水に、逆に水を流し込む、すると逆流するように水が吹き出てくる、あれです。子どもたちの考えようとする意思を呼び水で一気に誘い出す、これも指導の技術の一つです。呼び水指導はこのところよくやりますが、子どもが次第に、「あっ、面積図」とか、「あっ、そうだ」とか、そういう変化が出てくる。自分で考えようとする態度が見えてくる。だから、ただ「教える」というのではなくて、「呼び水」となる「教える」でなければならないわけです。

 学生の家庭教師というのは、いろいろ問題があります。東大の学生だから信用できると親や子は言います。「何を」信用できると言うのでしょうか。知識があり、知能が高いから、信用できると言っているようにも聞こえます。
 頭のいい先生から教えてもらえばできるようになる、と信じてる節もあります。
 家庭教師の問題性については、過去わたしも機会があれば述べてきました。
 
 東大の学生に教えてもらうからいい、と言うのですね。 
 家庭教師が、懇切丁寧に教える、教えるのがうまいと評判がいい、それは結構なことです。家庭教師が、どれだけわかりやすく教えるかに力を尽くす、というのも結構なことです。
 しかし、教えられる側はどうなのでしょう。ほとんどを説明してくれる先生はいい先生なのでしょうか。教え方のうまい先生が、わかりやすく教えてくれるのはいいことなのでしょうか。
 生徒は崖っぷちで考えるしかない、という経験もないのですよ。頼りになる家庭教師に、依存することはないのでしょうか。家庭教師のよくできた、うまい説明を聞いてわかった気になる、そういう恐れはないのでしょうか。あなたは孤独な世界で、一人で解決するしかないという状況に追い詰められて、自力で難局を切り抜けた経験はないままに、庇護者引率のままでいいのですか。
 思考精神がひ弱な子どもにはならないのでしょうか。とことん考えて自分で解決したという経験もなしに、そのまま大人になること、これほど怖いことはない。
 竹の会では、家庭教師についていた子の指導が、うまくいかないことが多い。
 それと私立の子が竹の会で成功した例というのが数えるくらいしかない。つまりそのほとんどは失敗している。思うのは、私立に通っているタイプには、裕福な家庭か、普通の収入で頑張っている家庭か、のどちらかだと思うのですが、前者は、家庭教師についている子と変わらない弊がある。後者は、コストパフォーマンスをとにかく気にする。目先の損得を行動基準にしている。学校の難しい宿題を大量に持ち込んで質問してくる。これで他の子の指導は中断してもお構いなしである。私がそういう宿題を持ち帰って解いてくるということをやると、次から次に持ち込んでくる。元を取ろうという意思がが垣間見えてしかたない。私立の子は竹の会の思考訓練指導というものを、素晴らしいと賛同しながら、私立の授業、宿題のホローばかり求めてきて、竹の会の指導はほとんど機能しない、やらない。私立は、行事が多く、そのために都合が悪いと振り替えばかり、言ってくる。「○月は学校が忙しいのでお休みします」、「夏期は、出れる日だけで計算してください」、そういうことばかり言ってくる。これまで何人私立の子を断って来たことか。私は、後者型の私立の子の指導では、苦い経験しかない。竹の会で、私立の子の指導に二の足を踏むのはそういうわけがある。

 正直わたしは竹の会のシステムを説明をするのが、完全にわかるように説明するのが、困難なのではないか、と思っている。ほとんどの親御さんが、誤解する。自分の既成概念で、自分の狭い枠の中だけ、竹の会を評価し、判断する。

 実際に、竹の会の指導を受けている子の親御さんは、入塾前に、私のブログを何年にも渡って読んでこられたかたばかりだ。つまり、竹の会についてよく理解されている。
 そもそも竹の会でよく使われる「指導」という言葉を本当に、つまり事実の裏付けを持って、理解されているのは、当の子どもたちと親御さんだけなのだと思う。よく竹の会では、当たり前の「レジュメ」についても、その中身を知っているのは、やはり親御さんだけではないか。「公文と同じですね」とか、「ただプリントやってるだけですね」とか、言った言葉は、親御さんの口から決して出ることはない。どころかレジュメに感動し、レジュメに期待する言葉のほうが多い。親御さんたちも、子どもたちも、レジュメという言葉に特別の意味を込めて、当たり前のように使うようになる。竹の会のレジュメには、その辺のプリントと同列にはできない、特別のもの、それよりもずっと価値の高いもの、違うもの、素晴らしいもの、という想いが込められて使われている。

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