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都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

竹の会の夢〜理想の指導を求めて、歩んだ37年

2021.08.08

 

◎竹の会の夢〜理想の指導を求めて、歩んだ37年
  昭和60年夏「塾の名前は何するの!」
  いろんな名前が上がっては消えた。名前に悩んで一週間ほど経ったある朝、目覚めると同時に頭に「竹の会」という名前が浮かんだ。「これ、どうかな」、周りに相談したら、「それでいいんじゃない」、「悪くない」と肯定的な意見が出た。それで決まった。私の名前が「たけひこ(雄彦)」だから、「竹の会」ではない。が、竹の会の初期のテキストには、よく「阿部竹彦」という筆名が使われた。そうなると子どもたちは、竹彦だから竹の会なんですね、と妙に納得してしまう。この筆名は平成10年ごろまでのテキストに使われたと思う。「新英語指導案」「入試英語指導案」には、「阿部雄彦」が使われている。この辺りからかな、本名で通すようになったのは。
 東京の渋谷の、ある意味辺鄙なところに、もともと住居として使っていたマンションの狭い部屋を教室にして、塾を始めたんだ。どうやって生徒を集めようか、たまたま手に入った代々木中学2年の名簿をたよりに、謄写版で手書きの葉書を印刷して、出したんだ。近くには塾がたくさん点在していることも後で知ったんだ。拙い、素人そのままの葉書に代々木中学の3人のお母さんが問い合わせしてくれたんだ。まだ机もなかった。面接日の前に、中野にある中古の机なんか売ってる店に行って、届けてもらいました。当初は、4人ほどの生徒を予定していたので、長机を2つ、折り畳み式のイスを4つほど買ったのかな。
 中2の娘を持つ3人のお母さんとお話しして、その日は終わった。翌日電話が鳴り響き、「お世話になりたい」という申し出を受けた。
 それから私は英語と数学、それから国語、理科、社会の教科書を数種類買ってきて読み始めた。ほぼ徹夜で3日で読み上げた。それから駿台と代ゼミの市販問題集を揃えた。コピー機は、キャノンの家庭用だった。とにかく曲がりなりにも週2回のペースで授業を始めたのです。授業は、「わかりやすい」、「熱心だ」と評判になり、一月もしないうちに、申込が相次ぎ、私は毎日、何クラスかの授業を持ちました。あの頃は、教科書を使って丁寧な授業を心がけました。あの年にはもう「高校用英文解釈初級」を使っていました。あの頃は、親たちから「難し過ぎる」と苦情が来たのを覚えております。竹の会には、オリジナルのテキストもなく、何もかも他塾に負けていました。私はオリジナルテキストを書くことに燃えました。まだパソコンもなく、ワープロ専用機の時代でした。図なんかかけない。編集機能も幼稚なものでした。そんな中で、わたしは、「英語指導案」「正負の数」と次々にテキストを書きました。数学は、分数や根号など限界がありました。初期のテキストは本当に苦労しました。

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 私が、パソコンを使いこなし、数式や図をソフトで縦横に使いこなすまでにはまだ歳月を要しました。とても大手の教材に敵わないな、とため息を漏らしたものです。
 それでも私は毎日のように、高校入試の過去問を解いたのです。首都圏の高校入試の問題を二十年、三十年分と解き尽くしたのです。中学受験の子が入れば、中学受験の問題を解きました。これももうほとんど解き尽くしてしまいました。大学入試の生徒がきたときは、さすがに過去問ではなく、参考書、問題集で指導しました。それでも多くの参考書にあたり、生徒とともに解いたのです。私は文系の人間ですから、数学は、IIBまでしかやっていません。理科は、生物でした。ですから、東大理系の受験生がいたときは、数学Ⅲなんかを独学でやりました。英語も東大の教養部の教材を使いました。苦労しながら、研究社の辞典を引いて訳しました。それを生徒の訳と付き合わせました。若い脳は、時には私のできない斬新な訳をつけて、私を感心させました。よく利用したのは、大学への数学という雑誌の臨時増刊、どこか忘れたがとにかく分厚い解説付問題集、細野の数学シリーズ全などでした。
 とにかく私は新しい生徒を請け負ったら、どうしたら合格できるか、本当に悩み、その度に必死に勉強したのです。
 私は、如何に合格させるか、そのことばかりを考えて、いたのだと思います。
 中学受験と言ったら大手に行く時代でした。お決まりのテキストで勉強した時代でした。その大手には大量の落ちこぼれがいました。公立小は、こうした受験のための競争からは隔絶した別世界でした。教育熱心な親子から隔離された、最先端の勉強とは無関係の世界、そこに取り残された子たちの学力は酷いものでした。公立中高一貫校のスタートが、公立の取り残された世界の住人の姿を浮き彫りにしました。
 わたしは、公立でも受験もしない、模範的な優等生が適切な指導の場を与えられないままに、本来の力を伸ばす機会を失っていることを知ったのです。私のやることは、公立の優等生を救うことでした。わたしは、初めて「割合」という問題について真摯に考えました。興味を引いたのは、当時の小学校で使われていたかけわり図でした。わたしは、市中にさしたる文献のないことを悟りました。自分で考え出すしかない。私は決意しました。私はいつも、割合の名案を考えました。アイデアを思いついたらすぐにメモを取り、パソコンに向かってから、教材を制作しました。夜床に就いてもずっと考えていました。するとたいてい朝夢の中でいいアイデアが閃いた。最初は後でメモを取ろうと思ってそのまま浅い眠りにつくと目が覚めたときはもう忘れていた。だから枕元に紙とペンを置いて寝ました。
 紙は本当に素晴らしい思考の道具でした。
私は思いついたアイデアをパソコンで教材にしました。作った教材はたいてい次の指導日で試しました。それで子どもたちの反応を見ました。一年、二年と月日が流れました。私の作った作品はもう種類も量も膨大なものになっていました。
 ある日の指導の日のこと、私は子どもたちの話を小耳に挟みました。算数の得意な2人の小6が雑談していました。
「あれよかったよな。あれで割合がわかった。」、「うん、あれよかったよ。あれで割合が理解できた」
 この言葉をわたしは聞き流すことはなかった。割って入って、「あれって、何、どのレジュメ?」
「ミクロマクロのヤツです」 
「ああ、あれか、そうか、あれが良かったのか」
 私は帰ると早速パソコンを開き、問題のファイルを開いた。数十ページはあったろうか、わたしは、「これだ、よし」
 次の日から、ミクロマクロのレジュメを教材化していくことに夢中になった。それから算数のレジュメを、それに合わせて体系化していった。
 私は、ようやく辿り着いた。ようやく長いトンネルを抜けることができた。
 思えば、割合の理解できない小学生のために、画期的なレジュメをと、取り組んできた。
 長かった。
 私は、何のために、教えてきたのか。
 その答えがようやく出た。
 未だ誰もなし得なかった、ミクロマクロによる算数の体系化。
 そうだ、私は、いつも大手の塾が羨ましかったのだ。渋谷駅のそばに塾を構えられて、羨ましかった。
 それに大手は、いくらでもカネをかけて、教材を作ることができた。
  私が、画期的なパソコンソフトに出会ってから、覚醒するまでに2〜3年を要した。私は、ようやく大手に負けない、自らの才能だけで、思い通りの教材を作ることができるようになった。これはまさにコペルニクス的転回であった。わたしは私の思った通りの教材作りに邁進した。
 もう一つの転機は、2012年5月に遂に渋谷教室を開設できたことであった。実は、その前年は福島の原発事故があった。竹の会も廃業の岐路に立っていた。公立中高の不振、学習不振児ばかりが集まる、だからもう私も嫌気がさしていた。
 それが本当に何かの拍子で渋谷駅から徒歩10分のところに教室を開くことができた。
 わたしは、いつか渋谷駅のそばに教室を持ちたい、そんな夢をずっと胸に秘めてきた。しかし、そんなことができるはずはなかった。大手のようにあらゆる媒体を使い、カネを惜しみなく出して宣伝し、駅そばの一等地のビルに教室を構えることなどできるはずもなかった。
 だから私のささやかな夢は、いつか東京のどこかで、母親たちに、「渋谷には竹の会という、いい塾があるらしい」と噂になること、でした。
 私は、何かあればそれに全集中で応える、そういう生き方をしてきた。

 竹の会とは、そういう塾です。
 
 

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