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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

竹の会の指導とレジュメ

2019.10.08

 

第18章 竹の会の指導とレジュメ

 教育制度とは、貧富格差拡大装置である。小学教育制度は、もともとの貧富の差が、子どもにかける教育コストをできるだけ節約する層、もともと能力の低いために勉強というものに関心の低い層、そういう子たちをまず篩にかけてふるい落としていく機能を果たしている。ここで落ちこぼれた子らは生涯勉強とは無縁の人生を生きていくことになる。親が経済的に余裕がある層は、私立進学校や系列私立校という高級国民に繋がる道を選ぶことができる。東京圏では、都立中高一貫校制度が、貧富格差拡大装置であることは当然の認識である。公立中学は、さらなる貧富拡大装置としてはたらくことになる。ここでは、すでに小学の段階で落ちこぼれた層、親の経済格差がもたらす教育コストの格差から落ちこぼれた層、ここに能力的弱者の層が、加わり、公立中学は、さながら貧富拡大装置の最終段階装置としてはたらくことになる。
 下級国民予備軍は、公立中学で篩にかけられて、それぞれの貧困確定装置へと取り込まれていく。低偏差値私立高校、定員に満たない入学者で苦しむこれまで中堅と言われてきた私立高校、偏差値の低い都立高校などが、貧困階級を取り込む装置であることはもちろんである。
 日本の現実は、下級国民の親の子は下級国民になるべく運命づけられている、のがまず前提である。もちろんセオリーどおりにいかない、稀有のケースはある。俗に言う、鳶が鷹を産む、の喩えもある。もちろんその逆もある。私は、慶應大学に合格した優秀な人たちの中には、社会の底辺に居ることとなった人たちもいたことを知っている。就職に失敗して、結局フリーター生活を余儀なくしたとか、なんらかの事情で乗り遅れた人たちである。日本の社会は、いったん乗り遅れた人たちを救済する制度は皆無である。大学では、新卒が大企業就職の唯一のチャンスである。だからこういう稀有な例外はあることは当然織込み済みである。私立難関中学に行っても落ちこぼれて消える子たちはもちろんいる。だから問題は飽くまでも一般論である。大きな目で見れば、大河の流れの如く大きな流れに変化はなく滔々と流れている。
 原始の古代の生活は、食料を大量に確保した者が、結局人を支配するようになる。生存競争とは、食うか食われるか、弱肉強食の世界である。人が社会を形成したときから、生き残りをかけた競争は、運命づけられていた。生きるとは、そういう掟にしたがうこと、であった。かつては、受験競争という言葉を悪魔の言葉みたいに言う風潮が吹き荒れたが、もともと生きるということが競争を前提にしているのであるから、こういう綺麗事を制度化するとろくなことにはならない。事実、都立は制度をいじり過ぎて、いわゆる都立高校の凋落、私立難関高校の優位が長く続いた。都立高校は、下級国民の道になったのである。ようやく教育者、行政は、自分たちの馬鹿さ加減に気がついた。時すでに遅し。優秀な人材は、中学受験で私立難関にほとんど抜けていった。ただ経済的事情で私立に行けない家庭にも飛び抜けた秀才は当然いる。そういう子たちは、都立トップ校を目指して国立大、私立有名大に行く道が、依然としてあった。いや現代の公立中学の内申制度は、質の悪い教師による恣意的な内申点が、共感性に欠ける天才たちを谷底に落とし込むことを平気でやってきた。
 学歴社会を批判するのはいい。確かに、学歴偏重社会がさまざまな矛盾、弊害を生起したことは間違いない。そういう中から、学歴ではなく能力で人を評価するという会社が増えてきたことも別に構わない。ただ学歴社会を否定することから、競争そのものを悪とする考えが、正当性を主張するのは、ものごとの本質を忘れた愚論である。 

 人間は生まれながらにして平等であると唱えるのは構わない。観念的にはそうなのであろう。しかし、人間を含めた生物世界は、生存競争をもってその本質とする。先の都立入試制度から競争を排除しようとしたバカな連中の考える社会とはいったいどのような社会だったのであろうか。競争のない社会なんて無気力でやる気のない、怠惰で、享楽的で、刹那的な人間ばかりの社会なのではないか。競争がないから、競争を勝ち抜いて到達するという喜びもない。
 人間から競争を引いたら無気力しか残らない。競争があるから進化がある。競争があるから進歩がある。社会の発展は競争があるから可能だったのである。
 わたしたちは、生存競争の中でこそ生き生きと生きていける。競争は脱落者を当然に前提している。競争は、脱落していく人間を原理的に予定している。脱落者の処遇は政治の問題であり、脱落者をなんとかしようというのはいいとしても、そのために競争を否定することはできない。競うのは人間の本能である。オリンピックは、「競う」という人間の本能を見事に炙り出しているではないか。「強くなりたい」というのは、競うのは、人間に備わった本能の叫びである。「できるようになりたい」「受かりたい」「うまくなりたい」というのは、競うという意思の発言である。

 生きる、生存するということが、競争を内包した概念である。
 人は競争の中に生きている。生存競争の敗者をどう処遇するかは、もちろん政治の問題である。だが、今の社会、日本の社会の政治を見ていると、どう見ても自己責任で、片づけている。様々な政治的諸制度が、雁字搦めにしていても、そうした諸制度によって排除されれば、それは自己責任として、その人は能力がたりなかった、運が悪かった、要領が悪かった、などなどとして、自己責任として捨てられる。就職氷河期に就職できなかったのは、運が悪かったと同情されるとしても、これも自己責任として、その境遇を甘んじて受けることを余儀なくされる。
 日本の社会は、悪い結果は全て自己責任の問題として片付けてしまう。生存競争とは、自己責任と表裏である。
わたしたちは、こういう社会に我が子を託さなければならないのである。下級国民層が、教育費にお金をかけられない結果、下級国民を継承していく、というのが、現代の世襲制度である。かつての中流階級というものはすでになくなり、社会は、高級国民と下級国民に二極化して、下級国民はギリギリの生活をするだけの人生を送ることになる。貧困階級は、結婚ももちろんできない。世の中の男と女が同数いれば、普通に考えれば、みんな結婚できるはずであるが、実際は、高級国民が独占するはずである。なぜなら、金持ちは、バツイチ、バツ二と何度でも結婚できるのである。
 下級国民は、非正規、派遣、フリーターなど経済的に厳しい収入で一生を送ることになる。年収も200万ほどであり、これではとても結婚などできない。その多くは、底辺高校を中退、卒業してもたいした職にもつけない、あるいは専門学校を出て職に就くという人たちも、多い。
 こういう人たちが、非正規、派遣、フリーターとして、社会の底辺に吐き出される。しかし、その待遇は、人並みの生活を送ることさえもできない、ものである。
社会の現実は、あなたたちの甘い想定どおりにはおそらくならない。
 わたしは、社会の現実を冷静に見て、今子供たちが将来高級国民として幸せに暮らせるようにと願うとき、その高級国民への道は、教育によってしか保障されない、と考える。
 わたしは竹の会で「指導」の道を究めるために実践と研究を積み重ねてまいりました。わたしの指導を知らない人には、竹の会のわたしの指導というものは、想像できない。おそらく今のわたしの指導の技術は。あなたたちの想像をはるかに超えたところにあると思います。竹の会のわたしの指導は、わたしの制作するレジュメという指導教材によって、完璧な形となる。レジュメはわたしの積年の指導の究極の理想を体現したものである。わたしは子どもの脳を診て、自由自在に創作する。わたしの指導はおそらくだれにも真似のできない、神の指導であると思う。子どもの脳の理解の浸透度を計り、わたしはもっとも適切な指導をする、いやしている。このときレジュメが使えているか、はもちろん常に注意している。かつて市販教材について思った「帯に短したすきに長し」という使えない教材は子どもを無駄に苦しめるだけである。子どもが生き生きと脳を活性化させることのできる教材は指導の絶対的な前提条件である。だからわたしは竹の会のレジュメ制作に力を入れてきた。それは芸術作品のようにわたしには苦心の作品ばかりである。わたしの指導技術がだれにも真似のできないものであることはわたしがいちばんよく知っている。それは子どもひとりひとりをじっくりと検査指導で調べ尽くして、今、その子に何がいちばん必要なことなのかを判断して、是々非々の駆け引きをしながら理解という担保を取っていく、誠に細かで微妙なやり取りをしながら、子どもの脳にわたしの狙いをしかけていく、のである。わたしはそういう繊細な現実のやりとりの中から子どもたちが理解する喜びを与えられればと思っている。
 まだ竹の会の指導を知らない人が竹の会の指導に出会えることを願っております。
 小学低学年のみなさんが、わたしの指導に出会えるとしたら、それはかなりの幸運であることをあとから知ることになるでしょう。

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