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行間を読む/小石川/都立戸山、青山へ

2019.07.27

 

第10章 行間(ぎょうかん)を読む

よむ【読む】
[一](動マ五)
①書かれた文字を一字ずつ声に出して言う。文字に従ってとなえる。「大きな声で—んでください」「本を子供に—んで聞かせる」「経を—む」
②文字・文章などの表す意味を理解する。「この本は小学生が—むのは無理だ」「会話はだめだが、—むことはできる」「あの小説はまだ—んでいない」
③図形・グラフや、一見無意味な文字連続などの意味することを判断し理解する。「心電図を—む」「暗号を—む」
④他人の心や将来のことを推測する。「胸のうちを—む」「相手の出方を—む」「消費者動向を—む」
⑤囲碁・将棋で、先の手を考えたり、相手の手筋を察知したりする。「十手先まで—む」「手の内をすっかり—まれている」
⑥講談やなにわ節を演ずる。「寛永三馬術を—む」
⑦(「訓む」とも書く)漢字に訓をあてる。「春の日と書いてはかすがと—めば/平家物語7」
⑧数える。特に、数を口で唱えながら数える。「数を—み上げる」「あらたまの月日—みつつ/万葉集4331」
[可能]よめる
[二](動マ下二)
⇒よめる
[慣用]行間を━・鯖を━・鼻毛を━/眉毛を読まれる
[表記]よむ(読・詠)
「読む」は“文字の音を唱える。意味を理解する”の意。「経を読む」「本を読む」「暗号を読みとく」「手の内を読まれる」「票を読む」〔漢字に訓をあてる場合は「訓む」とも書く〕
「詠む」は“和歌や俳句などを作る”の意。「季節の移ろいを和歌に詠む」

 大辞林の定義をそのまま掲載致しました。「読む」という語の正確な意義を掴んでもらいたい、と思ったからです。というか、勉強するとき、国語辞書は、常に手元に置き、瞬間で引けるように修練してもらいたい。政治学者の丸山真男は、読んでいるときに、わからない言葉が出てきてもいちいち辞書は引かない、前後の文脈から推測すればいい、といったことを述べていますが、丸山真男は、東大教授を務めた天才でしたから、真似はできない。私たち凡人は、やはり地道に辞書を引かなければなりません。国語の辞書で意味を調べたら、そのわからなかった言葉を意味で置き換えて前後の文章の意味を通さなければなりません。こういうことは面倒くさがらずにやらなければならない。人間というのは、生来怠け者なのか、こういうことを面倒くさがる人が多い。勉強というものは、面倒くさいものです。よくわたしは勉強というのは、普通のこと、当たり前のことをやればいいのだ、ということを言いますが、当たり前のこととは、面倒くさがらないでやるべきことをやる、ということです。
 ここで当たり前のことというのを少し考えてみたいと思います。
 かつての司法試験では、短答式試験に合格した者に、論文試験を課していました。論文といっても、一般的なそれではなく、法律論です。わたしは、大学の単位試験で出される問題みたいなものだ、と考えていいと思っています。答案もその程度と思って、大学入試の客観試験のつもりで勉強したほうがいいし、客観試験の記述式程度の答案を書けばいいと考えていたほうが、気が楽だし、その方がずっと効率のいい勉強ができると思っています。
 そもそも難しい試験だからと、構えてやるとろくなことにはならない。敵の正体をあまりにも高く設定して、難関をカリスマ化して、そのためには、特別の勉強をしなければ受からないと信じこんで、果てしない迷路へと迷い込む、それがかつての司法試験受験の虚構ではなかったかと思う。大学入試と同じだったんだ。ただ問いに答える、それだけのことだったんだ、私たちは世間が勝手に偽装した虚構に踊らされ、なんのことはない、枯れ尾花を恐れて膨大な労力と時間を無駄にしたのであった。
 個人が騙されるのは期待可能性がなかった、大学が、それを取り巻く環境社会、出版界、ジャーナリズムが、虚構を信じていたなら、そういうものとして、罷り通っても、個人には、期待可能性がない。
 私たちは、こうして騙される。それはおかしいという、説明しがたい事実が、あったのに、宗教と同じで、権威が、正しい判断を遮断する。
 私たちは、偉い人が言った、東大の教授が言った、有名な医師が言った、もと判事の弁護士が言った、などなど、権威を、根拠に判断するところが多分にある。大手塾なら間違いなかろう、というのも権威志向の表れである。国のお墨付きなら信用できるのか、東大教授が言ったなら信用できるのか。国が嘘をつく、国民には決して不都合な真実については語らない。福島の原発事故のとき、東大大学院教授の無能さには絶句した。朝日新聞なら真実を伝えてくれるのか。読売新聞は政府の機関紙化して、毎日新聞は、聖教新聞に記事を売らなければ食っていけない。政府の宣伝に使われる何十億ものカネが新聞社に流れ込む。これで真実など伝えられるはずがない。権威とは、張子の虎のことを言う。私たちは、張子の虎に、盲目的に、つまり何の検証もなしに、従う。虚構の価値をネーミングしたラベルを貼り付けて、安心して判断を放棄するような制度を作りあげた。東大教授というネーミングが、ははーと、土下座させる社会を作りあげた。確かに、そのようなネーミングを手に入れるのは、難しい。しかし、東大教授なら正しいことを常に言うのか。権力に忖度して真実を捻じ曲げるということはないのか。東大卒という国会議員のアホぶりを見ていると、私たちはすでに「ちがう」、何か違うということにもう気づいていいのではないか。人権派弁護士が政治家になり政権を取ったのが、民主党であった。なんと無能な政治家集団であったことか。私たちは、何かを判断するときに、もう権威などというバカな、虚構の価値などに依存することのアホらしさに気がついていい。
 当たり前のことを当たり前にやる、そういう話が横道に逸れてしまいました。さて、話しを元に戻しましょう。
 そもそもの話しは、「行間を読む」でしたね。
 東大に鈴木竹雄という教授が昔いました。この先生の「会社法」は、有名でした。今なんか、会社法の体系書というと、とにかく分厚い、八百ページの本なんか珍しくない。いや当時も前田庸という名古屋大教授の会社法はすごかった。八百ページを超えていた。途中読んでいたら、句点が何ページもない、長すぎて主語を見失う。だいたいこの人は途中で主語変えているのではないか、の疑いもあった。意味が通らなくなるのである。まあ、悪文の最たるものであった。鈴木竹雄の会社法は200ページそこそこだったが、簡にして要を得た名文と言われた。無駄な記述がない。定義も正確。この本は、奥が深くて、行間を読む、そういう態度が必要である。一文を読んでは考える。専門書を読むときの方法として、クロスレファランスというのがあるが、関連するところを他のページに飛んで読む、そしてまた戻る、そういうことをやる。だから索引がない本は使えない。それでわからない、言っていることがわからない、そういうときは、ほかの学者の書いた、やや詳しい本で調べる。同じテーマをどう述べているか、調べる。そういうことをやる。行間を読むというのは、具体的には、こういうことになるのかと思う。
 民法では、我妻榮という人が有名でした。東大教授でした。あの岸信介首相の同級生です。二人で、東大法学部の首席を取った話しは有名でした。先生の民法講義は、すごかった。民法総則、物権、担保物権、債権総論、債権各論(4分冊)まで出たのか。一冊500ページ平均。不法行為、親族相続が、発刊されないままに終わった。私は学生の頃、この本を何度も読んだ。先生には、民法を3分冊で概説した、通称ダットサンという名著があった。後で思ったのは、ダットサンというのは、行間を読む本だったのだということです。
 行間を読む本というのは、もともと語れば長くなる、詳しい内容を、簡にして要を得た文にしたものですから、やはり読むには、そういう覚悟がいる。概説書というのは、名著と言われるもの以外は読むのは危険かもしれない。
 大切なことは、何を言っているのか、つまり意味が分かる、ということである。勉強の極意とは、当たり前のことを当たり前にやる、こういうことだと思います。行間を読むとは、簡潔過ぎて何を言っているのか、わからない、ということから言われることです。ただここでも一つの前提があります。専門書の場合は、特にそうです。例えば、法律ならまず法律言語というものがある。法律書を読むには、まず法律言語をマスターしなければならない。だからもし初めて法律書を読むとしたら、例えば、有斐閣の「法律学辞典」で勉強した方がいい。経済学、会計学については、門外漢で、語る資格はないのですが、やはり経済言語というものが、前提となるように思います。
 さて、こうして、学ぶ、勉強するということは、まず言語を手にすること、その上で、定義を完璧に覚えること、に尽きる、と思います。算数なら算数言語、数学なら数学言語、となります。
 国語、英語は、言語そのものである。数学言語という場合の言語とは異なる。言語一般である。
 語彙を増やす。これが理解の第一歩である。
 語彙を増やす、語彙の使われ方を学ぶ。それには、小説を読むのがいい。いやいや、その前にやることがある。教科書の音読です。よく聞かれるのですが、音読には何がいいのか、です。お薦めは、国語の教科書です。小学生高学年なら、中学の教科書がいい。中学生なら、高校の現代国語の教科書が最高です。それから高校の倫理の教科書がいい。なぜ? 哲学の教科書だからです。国語というのは、哲学的な問題について、悩むこと、これが、読解そのものなんです。
 英語も言語そのものです。語彙を増やすのは同じです。ただ国語と違って、英語の場合は、文法を学ぶのが早い。最終目標は、5文型を理解することである。英文を解釈するとき、これはかなり便利がいい。5文型の目で、英文を、見る、これは英文の骨格、骨組みを読むのに、便利のいい道具と思います。文型を一瞬にして見抜く、これが達人です。あと文のかかりに気を配ることです。そのためには、形容詞句と副詞句を理解すること、究極的には、形容詞と副詞の働きを理解することです。基本はここにあり、その延長に、形容詞節、つまり関係代名詞がある。あるいは、関係副詞というものの理解、あるいは、副詞節、名詞節というものの理解もこの流れからできることになる。
 国語とは自ずと方法も異なる。自国語と外国語とでは違うのは当然である。
 さて、行間を読む、ということは、結局のところ、思考することにほかならない、ということになりますか。
 あれこれ考える、思考する、これが勉強なんですね。わかるための努力を面倒くさがらずに、当たり前にやること、行間を読む、という言葉は、しっかり考えながら読みなさい、という意味が込められている、そういうことではないでしょうか。

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