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都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

竹の会物語第1回 都立日比谷・戸山・青山指導/都立中高一貫校指導/桜修館・小石川・白鷗・両国を熟知した指導

2021.11.01

 

◎竹の会の37年を振り返る 第1回

 37年の歳月が流れた。無我夢中でこの道を歩いてきた。私に備わった、今の力は、37年の艱難辛苦がもたらした、竹の会の神様からの授かり物だ!

 指導を極める!
 我が心の変遷
 昭和60年10月竹の会開設
 どんな子でも教えれば伸びると信じていた、若き時代
 開設した当初から、熱心な先生がいる! と評判になり、近くの代々木中学の中2が押しかけた。
 当時は、2時間の授業を週2回のペースで回したかな。たちまち何クラスかができた。
 近辺にはたくさん塾がひしめき合っていた。個人塾もあちこちにあった。中規模の塾、いわゆる大手塾など激戦区だった。大手は、河合塾代々木ゼミナールが有名だったほかに、有名塾がひしめきあっていた。例えば、昴研究所とか、・・・。
 竹の会には、塾にそろそろ行くか、みたいな子たちが集まってきた。その中には、学校の優等生もいたが、多くは落ちこぼればかりだった。
 学校の教科書を使って授業した。あと代ゼミや駿台の出版物をよく利用した。この頃の竹の会は塾の通例にしたがい授業中心であった、という授業を軸として「教える」しか方法がなかった。自前のテキストもなく、生徒の教科書を軸に、予備校の出版物で補強した。
 なにもかも初体験だった。
 家庭教師の経験はそれなりにあったが、なにしろいきなり東京の渋谷で塾を始めたのだから、素人も甚だしかった。ある母親は「先生は、塾の先生なのに何も知らないのね」と子に言ったそうだ。何もというのは、学校情報のこと。しかし、それは信頼をしている、という前提から出たものだったと思う。事実子どもたちの成績は恐ろしいくらいに順調に上がっていった。昭和60年10月から12月に入会した子たちは、竹の会第一期生と呼ばれた。特に、竹の会の第一号入会の代々木中2の3人の女子は、竹の会の要的存在となった。12月入会のS君は上原中の生徒であった。62年2月竹の会の初の受験本番は凄かった。全員合格は高校入試ならあたりまえですが、3人娘たちは、それぞれに都立駒場、都立目黒、國學院久我山へと合格していった。第1期生では都立大附属に合格した生徒もいた。S君は、市川高校、青山学院高等部に合格した。初の受験指導で青山学院高等部を取ったのはわたしに自信をつけたと思う。かつて家庭教師をしていた高校生を難関高校の編入試験に10人応募の中から1名だけの枠に合格させたことや、国立大附属中学に公立小の女子を受からせたことなど経験はあったが、わたしのやりかたが結果を出すということを改めて実感した。以後竹の会には都立駒場、新宿、ときには青山をめざす者がよく来るようになった。当時の都立は、渋谷区の中学は、都立21、22グループに属し、21グループのトップが戸山という時代であった。都立高入試制度は都立高校の凋落とともに改変されていくことになる。
 
 
 

 

 
 

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