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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

第62章 合格請負人(7)

2020.02.16

第62章 合格請負人(7)

 わたしはもともと「青山学院高等部に入りたい」というような具体的依頼を受けて合格させることを仕事としてきた人間です。いわば合格を請け負う仕事が、得意でした。

 個人塾というのは、大手で伸び悩むとか、落ちこぼれたとか、そういう親子が藁にもすがる思いで、探した、見つけたみたいな立ち位置がある。

 しかし、個人塾も塾ですから、一般の生徒を受からせる仕事も当然ある。そういう場合でも、都立駒場だとか、新宿、青山というのは、内申という条件を満たしての請負仕事であり、内申を取らせるための仕事も必然前提とされることになる。

 個人塾というのは、どうしても合格を請負うという側面から逃れられない宿命がある。

 受験というのは、もともと倍率が高くなればなるほど落ちて当然なのである。大手は落ちる数も膨大なはずである。個人塾はもともと受かるのが珍しい。受験とは本来そんなものである。だからこそ竹の会は、そうした受験の常識に挑戦してきた。

 わたしは、合格をという結果を出すことにこだわりを持ってきた。

 ただし、プロの流儀はある。合格をもたらすには、プロの流儀に従ってもらわねばならない。

 習い事、稽古事を続けるのは、プロの仕事を不完全に委託することに他ならない。

 スポーツをやりながらというのも同じことである。

 合格させるには、合格をもたらすには、全面的に、わたしを信頼して、任せる、ことである。

 合格可能性のある失敗者の多くが、わたしに全面的に任せきれなかったが故に落ちたとみられる懸念がある。

 小学の場合は、自信のある母親というのがいまして、竹の会の指示に必ずしも忠実ではない。わたしの思い通りにやってくれないというケースがある。母親の介入が強いと私の指示も母親の裁量の中ではいつしか消えてしまう。

 これが高校受験の場合は、母親というよりも子ども特有の性格によるところが大きいのかと思うが、かつて父親がわたしのレジュメをそのままにして、市販の問題集(数学)をやらせていたことがあった。なかなか数学の点が上がらないというので、わたしのレジュメをなぜやらないのか、問い質したことがある。というのは教室でいつ見ても市販の問題集をやっていたからだ。

 高校受験では、全面的にわたしに従わないと失敗する。これは例外のない経験値である。まず、定期試験の結果を報告しないのは論外、通知表を見せないのも論外、竹の会で高校受験をやる意味がない。市販の参考書、問題集を勝手に買ってやっているのを見るが、論外。レジュメによる指導の妨げにしかならない。

 高校受験では、模試は遅くとも中3の8月から以後少なくとも月1のペースで受けて欲しい。模試はVもぎを軸にW合格もぎも受けることを薦める。前半は共通問題、後半は独自問題で受けてほしい。模試はよく言うのだが、血液検査みたいなものである。

  失敗者は、多かれ少なかれ自分の裁量を持ち込む。自分の裁量を優先させる分、わたしの指示は回避ないし先送りされる、つまりやらない。

 これは、特に、高校入試では、100%失敗する。つまりわたしの指導を無視した時点で失敗は確定している。つまり、わたしは、100%の失敗を確信しこれまでにその確信は100%その通りになった。

 素直さとは、何か。

 言われたことに素直に応える。言われたこと以外を自分の裁量でやらない。言われたことしかやらない。そのかわり言われたことは100%やる。それでいい。できるようになると、あるいは自分の能力を過大に評価し、他人の意見はどんなに優れた賢者の意見でも信用しない。自分のやり方の方が、真理、真実なんだと信じて疑わない子というのがいます。

 試験にスイスイと受からないタイプなんですね。

 病人は病人らしく

 手負いの獅子は洞穴にひっそりと身を横たえて、ひたすら体を休める、という。自然治癒力に身を委ねるのは、神の意思に従おうということなのか。何も食べるものはない。現代医療だと、体力をつけるために食べなければだめだ、などということになるのか。しかし、絶食が病いを癒すという言葉あるようだ、無駄にからだを動かして体力を消耗させない、というのも理にかなっている。

 腹が空いたと言って腹一杯食べるのは、実は生産的な何も生まれないような気がする。

 勉強というのは、病を癒すところと非常に似たところがある。頭に血流を集めてひたすら考える、身は横たえたに等しい、頭だけが冴え渡る。

 自分を病人と思っていない人たち

 ガッツり食べる、勉強しているのによく食べる、少なくとも受験が近くてこれはない。

ある疑念

この子はほんとうに自分で解いてきたのか?

そういえばほとんど教室で正解を出したことはなかったのではないか、

「家で解いてきた」と持ってきたレジュメが正解だった、ということではなかったのか、

わたしはわたしの目の前で、少なくとも教室で解いたことを確かめて採点して正解したという場合でなければ根拠になり得なかったのに、子どもの「自分で解いた」と言う言葉を信じてしまった、のかもしれない。

誰かが手伝ってない、という保証は何もなかったのに、

合否の差

わたしが完全にコントロールしていた子は受かり、コントロールできていない子は落ちた。

ただそれだけのことであった。

ほんとうに自分で解いていたのかどうかは、実は模試でわかる。直前の模試が極端に悪い子は、やはり自分で解いてきた子ではない。

受かる子は直前の模試で一度はいい成績をとるものである。

 

 

 

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