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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

素人の親たちが誤判断することについて/その他

2018.09.04

🔵高校受験失敗の構造

 部活と両立できる、それどころか身体能力に恵まれただけではなく、知能も高い子は、まさにそう信じて、他の考えを受け入れることはない。それは信念であり、意志、固い意志であり、選択の余地のない決断である。 さて、ここで、高校受験というもの、それは大学受験とはまだ違った試験の性格というものを知っておかなければならない。 頭のいい生徒にとっての中学とは、少なくとも定期試験では、いい成績がとれる、特に、中2までは比較的成績を維持できる。それは中2までの内容が、中3、さらには高校入試レベルと比較にならないほどに平易なことと関係がある。頭のいい生徒にとっては、部活や学外のクラブに所属して週の7日を練習漬けになっても、それはもう気持ちだけそう思っているとしか言えないのだが、勉強と両立できると、信じている、本気でそう考えている。確かに、そういう生徒の受験の話しは聞いたことがあるけれど、成功したのかどうかは知らない。そういう生徒の志望先もせいぜい都立青山までで、それを越える高校の話しは知らない。

 まず、高校受験を語る時、中2までと中3では、数学、英語のレベルが違い過ぎることを知っておかねばならない。つまり普通の生徒が部活をやりながら成績をとれていても、中3になると、それまでのようにはいかない、ということがある。これは、それまで高校の履修事項だったものをどんどんと中3の履修事項として押し下げていった文科省の政策からそうなってきた。高校の勉強はかなり専門化、細分化して、難しいが、その高校の基礎段階の履修事項が、中学へと押し下げられていった。だから中3になると、途端に、数学、英語は難しくなる。加えて、中3の教科書レベルと高校受験レベルとの差がまたあまりにもかけ離れているということがある。高校受験では、中3の履修事項から8割は出題される。そうとして、学校の授業、つまりは教科書だけで、高校受験の問題にはほとんど対応できないのである。英語、数学の入試の出題レベルと学校授業の差は、世間の親たちが考えている想像をはるかに越える。だから親たちは子どもが部活に明け暮れても、なに中3になったら、部活を引退して勉強に専念すればなんとかなると楽観できるのである。しかし、中3の学校レベルと高校受験のレベルは、あまりにも差があり過ぎて、中3の履修事項を終わらせて高校受験レベルに達するまでには、かなりの時間を必要とするのが実際である。この現実を踏まえれば、高校受験に成功するには、中2の夏前までには、中2の履修事項を終わらせて、夏から翌年の3月、つまり中3になる前に中3の履修事項を終わらせておくのがベターなのだという竹の会の論理が必然的帰結となろうはずだが、その考えが受け入れられることはほとんどない。

 中3になったら、もうひたすら受験レベルの勉強をしている、これが高校受験成功の王道である。わたしの思い描く高校受験像である。 ところが世の親たちは、やはりわかっていないというか、勘違いしているというか、何を勘違いしているかと言えば、 それは中2までの内容と中3の内容の格段のレベル差について何も知らない、無頓着なことである。さらには、高校受験レベルには、学校レベルでは、全く通用しないということ、このことが、全く頭の中にない。中3になってからでも、頑張ればなんとかなると楽観している。その頭の軽さには、とてもついていけない。そんなことはまずありえないのに、それが、中学に入ったばかりの時にはわからない。こういう親たちが、先人の忠告に耳を傾ける、従うことは絶望的にない。強固な態度は、絶対で、自らの信ずるようにやっていただくしかない。 世の親の皆さんが、高校受験というものを、実は 全く理解されておられない、というのはいずれ中3になってわかることである。破滅的現実に直面してわかるしかないというのが頑固な親たちの歩む道である。

 いや試験というものが、そもそも時間勝負なのであり、一気呵成に集中してかけられるだけの時間をかける、これが成功の要諦であるということが、わかる環境にない。わたしは、中学で、部活をやる人というのは、同時に、高校受験の選択において、もはやトップクラスの都立はありえなということを覚悟しているのでなければならない、と考えている。ただこれは一般論である。部活をやりながらもなんとか勉強への影響を少なくしようと努力する、頭のいい子もいる。 ただこれも一般的な傾向なのであるが、多くの凡人中学生は、特に、体育系の部活においては、疲れて勉強しないという日が、何日も続く、それが惰性になり、習慣になり、勉強しなくなる、ということである。これは文化系の部活でも、似たり寄ったりということが最近はよくある。かつては、頭のいい子が文化系の部活で、部活の影響を残さないようにと勉強していたのであるが、近頃は、それを口実に勉強しないという怠け癖をつけているとしか思えない生徒が多い。増えている。 高校受験では、論外の話しである。 部活は、中2までは、頭のいい生徒、成績の取れる生徒には、なんでもないように思える。定期試験でいい点が取れるのも中2までのこと、中3になったら、そうはいかないし、仮に、中3の履修事項についていけても、高校受験のレベルには、ほど遠いのである。 世の親、子が、このことを、実感として、知らしめられるのは、中3の2学期になって、現実に直面した時である。 部活をやりながらでもなんとかなるとタカを括っていた頃には、受け入れられない話しだったのであるからしかたない結果ではある。

 竹の会で、戸山、駒場に受かってきた子たちが、部活は適当にやりながらも、学校のお手伝いや無理難題によって、本来の志望校を下げてきたことは言うまい。とにかく26年駒場、27年戸山、28年戸山に合格した生徒たちが、部活に煩わされることもなく、勉強に専念してきた、わたしの想定する指導計画にはかなり遅れながらも、わたしの先取り指導についてきたということは知っておいてほしい。 毎日部活に時間を使い、過ごしてきた人たちは、毎日、中1から7時間勉強している人たちがいた、いるということには触れたがらないが、もしそういう人たちが、知能の高い人たちであったとしたら、どうなるのか、考えてみたことはあるのだろうか。わたしが、中1の時、部活優先では、無理だ、と言ってきたことを忘れてはなるまい。今の力は、そのちょっと前にがんばってもどうにもなることではない。 世の親の皆さんが、高校受験について無知なのに、無知を悟らない、これが悲劇の原因ということがこれほど明らかなことはないのに、この方たちは、その道の先人の言葉に耳を貸すことはない。

🔵親の一方的な通告が、指導を意味なく、させる件について

 親の一方的通告が指導を無にしてきたことを親たちは知らないのか、あるいはそんなことはたいしたことではないと思ってか、あるいはそういうことをすっかり忘れて、できないのは、塾のせい、塾が悪いからだという論理を平気で振り回すのが、この親たちの真骨頂なのです。 自分たちが、突然に、通告してきた、一方的な家庭の事情による勉強の中断の数々は、すっかり別物として、棚に置かれているのが、この人たちの虫のいいところです。 最初にわたしが言った忠告は、いとも簡単に一蹴され、自分の考えを優先させてきたわけです。 「部活は絶対です。塾は、部活に支障のない曜日のみ、行きます」という通告、 「年老いた祖父、祖母に孫を見せておきたい」という通告、 「定期試験のため休みます」という一週間以上の欠席の通告、 「疲れたのでお休みします」という、判断不能の通告、 「今日は塾に行きたくないので休む」という通告もありましたが、このような通告が何度かあるとこれはもうだめではないかと思います。 「実家帰省」という一週間の欠席通告、「帰省先で勉強してきます」という申し訳、 「勉強ばかりでたまには息抜きさせなければと思いますので、今日はディズニーに行きます」という通告 、「法事でお休みします」という一週間欠席の通告 、「試合で休みます」という通告、 中には 「これこれの模試を受けさせました」という報告的通告もある。 これには、「結果は必ず報告します」という附款がつくが、実は、報告があるのは、結果がいい時だけという解除条件付きの報告である。 こうした通告は、相談ではない。「そう決めたから知らせます」という一方的通告であり、わたしに相談するなどという観念は最初からない。素人の親の判断最優先、自分の子のことは自分が決めるということであろう。

 一方的なのはしかたない、そういう性質のことなのだろうとは思います。もちろん避けられない事情なのかとも思います、 しかし、こういう人たちというのは、塾についても、その限りのこととしか思っていないのなら、それはそれで話しの筋は通っていると思うけど、実はそういうことはなく、しっかりと塾には、一方的通告など考えられない人たち以上に、期待をしている。できないのは、塾のせいだという論理は、脈々と生きている。 一方的通告で、度々勉強、いや指導を中断させてきた、指導計画の遅延 、計画の見直し、新たなる計画の策定、遅延、いつもこの繰り返し、 通告のたびに計画は潰され、それでも、塾は、何も言わないで、言われるがままを受け入れるしかない。 ただこういう、自分の都合を、塾の指導方針に何のてらいもなく、いや多少の逡巡、躊躇、申し訳なさというものは言葉の端に見せたとしても、自己都合の一方的通告ということには揺らぎなく、私は、不利益を受けるのは自分なのだ、そういう選択をする人たちが。結局は素人の判断のつけを払うことになる、それだけのことと思うただけのことである。しかし、自らの選んだ選択なのだという自覚はなく、塾のせいにされることはいつものことである。 わたしは、本年、桜修館合格の女子が、入会する時に、わたしの指示を100%優先させてくれるなら、合格できる、と思います、というような主旨のことを言ったと思う。これは、自分都合の一方的通告をして指導を頓挫させなければ、合格まで道案内します、という主旨である。 部活、スポーツ最優先の生徒の親が、勉強との両立を言ってきた時も、「思うようにやってみて、志望校に合格してほしい」と言いましたが、もちろん 一方的通告に対しては、わたしの見通しを持った指導など最初からないわけで、そういう選択については、成功を祈る、しかないわけです。わたしの指示も、飽くまでスポーツ最優先前提のものであり、私の本来のあるべき指導ではありえない。これで成功するということには、私には何の根拠もなく、あるのはただ相手のスポーツ最優先かつ勉強も疎かにはしないという姿勢に敬意を払うこと、そして二の次にされた、わたしの指導をこのような想定外の条件の下で不十分なことを知りつつやること、 これだけである。わたしの指示は、常に最高の策ではなく、次善の、いやさらに次次善の策足らざるを得ない。 常に、一方的通告で、私の指導は、断続的なものとしてしか、機能しない状況の中で、私にできるのは、当の本人の奇跡的な天才を期待するしかない、というのが、正直な感想であろうか。 そもそも受験にしても、受検にしても、合格する子、成功する子の親というのは、不思議と、共通していた。竹の会に対する、わたしに対する信頼度が、99%、いや100%ということを私が感じたことがある。またその勉強姿勢も決して私の期待を裏切ることがなかったし、失望させることもなかった。そうなのである。合格する子というのもまた私を失望させるような行動がなかった。 だから一方的通告で勉強を指導を打ち切るということもよほどのことがなければなかった。 余談ですが、夏期指導が終わってから9月の最初の指導日までに、何も勉強していなかった小6がいたようですが、正直驚いています。一週間、何をしていたのか、その勉強の姿勢が私にはかなりショックでしたが、親がそのことをどこまで知っているのか、かなり気になりました。

🔵機前の気を捉えて動く

 「相手が呼吸を詰め、斬りかかろうとする寸前を捉えて動く。 厳しい鍛錬を潜り抜けてきた者だけが持つ自信と覇気に溢れていた」。時代小説の一節である。 タイミングとは、相手の動きに、合わせる、それは機微、機前とは、時間の機。私たちは、時間というものに、あまりにも無関心であり過ぎるのではないか。もちろん一日の行動の準則として常に時間を見ながら生活している。しかし、時間というものを24時間計というメモリとしてしか認識しないのは、時間というものの存在をあまりにも蔑ろにしていることにならないか。 「時間を感じる」までに、時間に敏感になれ、時間を五感で感じる。江戸の農民は、お天道様が姿を見せる前から畑に出てもう暗いうちから鍬を振るう。真っ暗な中で人が来る。すると人は「お早うございます」と言う。闇の中で怖いので「私は怪しい者ではないですよ」と声をかける。「早くからお早い仕事です」と声をかける。今でも、芸能界では、夜でも、初めてなら、「お早うございます」というのは、その名残りか。もちろんこれには諸説あり、その一つに過ぎないのだが、 江戸の時刻もお天道様が出ているのが昼間、それを6等分するから、夏と冬で一刻の長さが違う。江戸の人たちは、太陽の姿で時間を感じた。時間を目で見た。暗くなれば寝た、明るくなれば起きた。今は深夜でも明るい、夜通し明るい、時間の観念はなくなった。完全に自分が時間の支配の下にあることを忘れている。 勉強するということは、時間を肌で感じる、そうでなければならない。時間を忘れて勉強するという、これが時間と一体になることである。時間に追われる、時間に迫られて焦る、これは時間というものを勉強と一体化できなかった結果である。時間を忘れる、これは、時間を忘れる、言うならば、集中する、ということである。時間を意識した時、その途端に、集中は消える。集中とは、時間を忘れることである。時間が気になりだしたら、集中はしていない。一日が長い、長く感じるなら、集中していない。つまり仕事をしていない、ということである。 目を見れば心の動きがわかる。 時間の動きが止まって見える。 物事は、逆も言える。何年も習慣を変えないでいたか、いやそのはずはない 。逆に、変えなかったのは、それだけの理由があったからとも言える。

 当たり前とは何か。 教科書に書かれてあることがそのまま当たり前のことです。これはどんな試験でも実は変わらない。中学、高校、大学でも変わらない。大学になると何が教科書か曖昧になって、その当たり前のことが何かわからないということはある。昔は難関だった司法試験では、当たり前のことは、基本書とされたものに書かれていた。しかし、ここで何を基本書と決めるか、かなり個々の裁量があり、簡単なものから、網羅的なものまで幅があった。簡潔過ぎると意味がわからない、詳し過ぎると試験の範囲とは関係ないところばかりつつくことになる。また詳しいイコール分厚い本は、時間と脳経済には確実によくなかった。簡潔なものを基本にして足りないところを詳しいもので補うという方法、簡潔なものと詳しいものの中間の本を使うという方法、詳しいものを使うという方法、人それぞれであった。ところが予備校が、この雑多な方法を変えた。試験に必要なものだけを書いたテキストを作り提供したからだ。様相が一変した。国家試験の世界は今では予備校が支配している。大学の先生は自分の研究に忙しく、少なくとも国家試験のための指導などしない。たた司法試験委員の教授の講義とか、著書は、よく使われた。しかし、結局は、当たり前を的確に捉えた人間が合格したのだと思う。大学の勉強は当たり前とは何かを常識というセンサーで嗅ぎ分ける、この能力に長けている人が生き抜くことになる。 高校ほど教科書が充実しているところはなく、当たり前がわかりやすいところはない。高校の教科書は定義ブックとして最高のテキストである。教科書だけやればいいはずである。しかし、この世界は、もともと予備校が、支配していた世界である。教科書を換骨奪胎した参考書が、それこそ山のように氾濫している。予備校の名物講師、人気講師が、これまでにない視点を次から次に提供する。大学受験の世界では、参考書最強時代となっている。例えば、化学の教科書が理解できない者には、化学を易しく読み解いた参考書が提供される。予備校ではその著者が直接説明する、 数字も英語も国語も予備校やその道の大学の先生が書いたものが、教科書を凌駕する。 教科書を読むというのは、実は、地道に定義を覚える、理論を理解するという修練に意味があり、このような、当たり前のことをだれの介添えもなく自ら身につけていくという、勉強の基本の基が欠落したままに大学へ合格していく人も多い。高校で定義の勉強、すなわち当たり前のことを当たり前にやってこなかった者が大学でうまくやれるか、かなりに懐疑的である。もちろん国家試験などはまた予備校が世話をしてくれるだろうが。

 当たり前とは、特別なことを排除する論理である。世の中には、当たり前のことを軽視して、特別なことばかり追い求めている人がいる。当たり前のことを無視して、目もくれないで、特別ばかり追い求める。しかし、基本の基が欠落していることを置いておいても、パーレットの2-8原則というのがあるが、例えば、一冊の本において、重要なことは、全体の2割で、8割は不要な知識という理論である。 試験では、当たり前のことが8割出て、特別なことが、2割だろう。ところが、特別なことばかりやる人というのは、特別なことに8割以上力をかけている。つまり試験には2割しか出ないところに、8割の力をかけている。バカである。 試験とは、定義試験なのである。本来、基本だけでいい。特別の知識など要らないし、特別を求める人間は、特別が、なければ受からない、特別次第でどうにでもなると勝手に信じている。 笑えるのは、大手塾の志望校別対策コース、直前になって、これで合格できるなら、と勝手に合格を確信した親たちが、少々高くても金を注ぎ込む。常識で考えて、もしそのような対策がほんとうにあるとして、200人が受けたとして、その同じ対策を学んだ200人の優劣はどうつけられるのか。しかし、そこで実は悩む必要はない。そんな志望校別対策なんてもともとないからだ。似た問題、類題を何度練習しても、新しい問題、本番の問題が、解けるようにはなっていないからである。類題をやって似た解き方に慣れるという馬鹿げたやり方に疑いもなく親たちが群がるというのは、親たちのレベルもさることながら、実は、大手は、公立中高一貫校制度がスタートした時から、方法がわからなかったということがあった。とにかくも始めたのが、類題、似た問題を作って練習させる、それを商売にしただけのことだった。思考力をつけるという発想は最初からなかった。それはもともと大量の生徒をまとめて扱う大手には、なし得ないことだったからである。さらには、そもそも思考力をつける指導などというものが、果たして可能なのか、ということ、大手は、ここでも、その方法は知らない。 彼らはもともとそういうことには関心はない。彼らはもともと頭のいい子たちをいかに効率よく集めるかを算段しているだけである。頭いいいい子たちが作った実績を餌にして、もともと受かることなどない、凡人を集めて、金を稼ぐ、大手の構造などこんなものと最初からわかっているのに、世のバカ親の皆さんが、「やっぱり大手よね」と、中身空っぽぶりを発揮して、「みんなが行くから、大手はいいのよ」、「やっぱ設備よテキストも違うわね」と、ジャンボ宝くじを買えばもう1億円当たる権利が手に入るかのように錯覚して売り場に殺到する群衆の心理にも通じる精神なのには呆れるしかない。大手に行けばもう合格は手にしたような気になって、自らの愚かさを悟ることもない。

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