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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

脳は思考の壺/「算数の魁4」執筆開始/都立中高一貫校の戦略/都立戸山、都立青山、都立新宿は早くからの戦略で楽勝/竹の会通信

2020.11.03

 

脳は思考の壺
 壺の中は空ほど思考が働く。
 苦い体験
 直前に知識を詰め込むの愚
 咀嚼されない知識が壺に満たされる。使えない知識と思考の余地のない脳をもってわたしは子どもたちを送り出したのか。
 直前の処し方が成否を左右する。直前期は受験のプロの判断も狂わせる。
 わたしを正気に戻したのは、25年合格者に施した指導であった。あの時、わたしのレジュメだけ、それも指導の日に合わせて、作った、多くて3通のレジュメだけだったではないか。それで子どもたちはあんなに伸びていったではないか。子どもたちはあの精魂込めたレジュメに必死に取り組み、思考の壺を大切に育んできた。わたしが忘れていたこと。十年以上にわたって作り続けてきたレジュメも膨大になり、わたしはそのすべてを壺に流し込もうと、何と無謀なことを考えていたのだろう。子どもたちには悪いことをした。もっと早くに子どもたちの思考の壺の容量に気がついていれば、と思う。大手のやるような詰め込みのアリ地獄にいつの間にか陥っていた。私がブレていては、子どもたちは救えない。指導者の責任の重さを思った。、
 思考の壺は、いつも何も入っていないのを理想とする。知識は思考の壺で咀嚼されて、思考の壺の無限倉庫に格納されなければならない。咀嚼されない知識で壺をいっぱいにしてはならない。なにしろ思考の壺は、空のとき最大にはたらくのだから。よくお腹いっぱい食べると頭が働かない、むしろ空腹のときが、頭が一番働くと言うが、もちろん血液が胃袋などに集まるからなのだが、思考の壺も思考中枢に血液を集めるためには、常に空にしておかなければならない。思考には知識は邪魔なのだ。知識が自由な思考を妨害するのは、あたかもウィルスが上気道に取り付くがごときである。上気道の正常な働きを阻害するウィルスの如し。これが知識の正体だ。わたしたちは、知識崇拝を信じて止まない。知識は思考の壺で咀嚼して壺が空になるまで知識を入れないことだ。思考を働かせるとはそういうことだ。それでは、どのようにして思考を壺の中から昇華させるのか。知識は思考という酵素で分解するのだ。その一つが、抽象化という酵素である。抽象化というのは、具体的事実から共通項を探すことだ。すなわち知識は、共通項を認識することによって、そのエキスが脳、すなわち思考の壺の倉庫に格納される。頭の悪い人は、具体的事実を具体的事実のままに脳に、つまり壺に入れようとする。だから、脳はすぐにいっぱいになる。昇華前の知識が、物体だとすれば、昇華した知識はウィルス並みの、つまりミクロの粒子と言える。
 要するに、あなたたちは、思考の壺の取扱説明書を読んでいなかった。知らなさ過ぎたのだ。
 覚える前にやることがあるだろ、ということだ。
 読むというのは、具体的事実から抽象化する、あるいは抽象的概念を具体化する文章、それが論説文ということなのだが、その過程を追うことにほかならない。わたしたちは、理科や社会となると突然に暗記科目だからと頭から覚えようとするが、それが誤りなのである。具体的事実は思考の壺に入れるときに、抽象化することをまず考えなければならない。抽象化するとは、思考経済的な脳の働きであり、知識は壺にそのまま、つまり具体的事実のままに入れてはいけない。そんなことをすると壺はたちまちいっぱいになってしまう。
 例えば、リトマス紙とは、溶液の酸性、アルカリ性を調べるときに使う試薬であるが、このときに、酸性ってなんだ、アルカリ性って、なんだ、そもそもその区別にどんな意味があるのか、と「考える」。ここで頭から「酸性とは」などと暗記してはいけない。それからよく試験に出るのが、リトマス紙の色の変化だ。これなんかも暗記の必要はない。さらに言えば、一方の変化さえ頭に入れれば他方は覚えなくていい。ここで抽象化する。抽象化とは、共通項を見つけることだ。リトマス紙は酸性の溶液では、青から赤に変化する。そこで蜜柑を思い出す。あれは青いときは酸っぱい。つまり酸性と共通している。しかも蜜柑は青色から橙色に変わる。ただし、食品の分類としては、アルカリ性食材になる。これは定義からということである。定義は、食品を燃やして、二酸化炭素は除いて、残るのが、酸化物か、塩基性酸化物か、で食品を分類する。蜜柑の果汁は燃やせば蒸発するから、いくら酸っぱくても酸性とはカウントされない。
 話しは脱線したが、何が言いたいかというと直前期に知識、特に、新しい知識を詰め込むと脳が働かない、思考が機能しない、ということを、言いたかった。そして、思考の壺に知識を入れるときは、極力抽象化して入れることだ。直前期の解き直しはリスクと表裏である。これは普段の勉強で、なかなか解けない、それで解説を読んで、先へ進める、こういう人は、おそらく抽象化ということを知らない。具体的な知識をしか対象とできない。もっと言えば、抽象的には全く同一の問題なのに、具体的事実が違うともう「わからない」と言う。こういう人が、解き直しをするとどうなるか。解き直しというのは、抽象化を深める作業であるが、抽象化ということができない人の解き直しとは、反復して覚えることに終始する。具体的事実ごとにすべて違うと認識するから、事実が少しでも変わればもう違う事実となる。だから事実ごとに覚えようとする。事実が皆違うとして、頭に入れるとしたらこれは大変なことだ。わたしが「これは前にやった問題と同じことを訊いているよ」と言っても、響かない。キョトンとしている。具体的事実に囚われて、抽象化思考ができないのだ。これはある意味悲劇だ。遂には思考停止したまま本番を迎える。わたしにはどうしようもできない。
 さて、ここまで論を進めてきて、子どもたちに何が必要か、すでにおわかりになったと思います。
 抽象的に物事を捉えて頭の中で概念化して整理することなのです。鶴亀算なんかも事実としてはそれはもう表し方、つまり事実としてはいくらでもあります。鶴と亀が、二輪と四輪になったり、テニスコートの二面コートと四面コートになったり、といくらでも作れます。このときに、事実に心を奪われて事実が変わればもう違う問題と思うようではダメということです。ここで共通項を捉える能力、それが抽象化能力です。要するに、2と4というのが、共通項だとわかれば、そこだけ思考の壺に入れておけばいいだけのことです。事実に囚われるな! 事実が違えばみな違う問題だと混乱して「わからない」ということがいかに愚かなことか。「よくできる」が8割ある子でもそういう子がうようよいるということです。
 竹の会が、わたしが、腐心しているのは、つまるところここのところです。これは時間のかかる仕事です。小学低学年の頃から地道に指導していかなければならない。だからわたしは小学低学年から竹の会に来て欲しいと訴えています。もちろん高学年でもなんとかなる子もいる。内申がいい、頭のいい子がたまにいるからである。しかし、残念ながらほとんどの子は普通の子である。特に、男の子には、訓練しなければ高学年になったらもはやどうにもならない子が多い。
 学ばない子は伸びない。学ぶというのは、素直な心にのみ宿る心である。勉強というのは、素直な子が伸びることになっている。学ぶ姿勢のない子はいずれ落ちる。注意されてスルーする子がいるが、だからといって素直でないわけではない。しかし、学ばないという点では素直ではないのである。注意されたことを真摯に受け止めて、受け入れる、修正する、そして実行する、これを学ぶという。忠告を流して自分の考えを崩さない、自分の思うようにやる、これを学ばないという。
 学問とは、学ぶものである。自分の考えなどどれほどのものか。自分を天才だと思って他人を馬鹿にする、学ぶというのは、そういう人間には無縁のものである。
 わたしは子どもたちに学ぶ子どもになってほしい。そう願って竹の会を続けて来ました。竹の会は学びの場です。23区の小学生(特に低学年)を持たれる親御さんたちに是非竹の会のことを知ってほしいとこのブログを書いております。

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