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都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

自己責任、放置主義の大手を簡単に信用する人たちの末路!

2021.03.19

 

◎課題

 3月26日~4月6日 お休み。提出もできません。

 3月25日まで受け付けます。返却は4月7日以降になります。

◎自己責任、放置主義の大手を簡単に信用する人たちの末路!

 四谷大塚、日能研、早稲アカ、サピックス、これらは、進学大手とされている。都立大手ならエナか、ほかに栄光ゼミナールも大手か。Z会も進学大手に入るのかな。
 竹の会には、こうした大手に一年、二年と通った子たちが、やって来ることがある。入会試験で文句なしの合格がとれるような子なら、大手を止めることもないでしょうから、大手から来た子たちの入会試験合格率が悪いのもしかたないのかもしれない。
 しかし、それにしても曲がり形にも、大手に一年以上通って、標準レベルの計算問題の正解率が極端に低いというのは、どうしたことか。逆算もできない。これはどうしたことか。進学大手にいたというのに、標準レベルの割合の問題に歯が立たない。これはどうしたことか。日能研、四谷大塚などに2年いても、Z会やエナに2年いても、割合の問題がまともに解けた子を見たことがない。これはどうしたことか。

 不思議なのは、これだけできないのに全く放置されている。しかも1年も2年も放置されたまま、なんと先へ進んでいるという事実である。
 そもそも大手の当事者は、自分が教えている子どもが、計算一つまともにできないということをまるで把握していないのだ。様々なチェックテストというのは、かなり頻繁にやっているようなことを言っている。しかし、チェックと言いながら、子どもが現実にできるかどうか、何も掴んでいない。いや仮にできないとわかってもだから何をするというわけではない。チェックするだけだ。できないという結果を捉えて、自分でなんとかしなさい、というのが大手の態度だ。
 だから私は自己責任と言っているのだ。そうすると子どもは何もしないから、というか授業を受けるという惰性は変えないままに、できないところを自分でなんとかしようとする意識もないから、そして大手を信頼して大手のやることに任せきりで、後は、放置という親もいるから、先のような子たちが量産されることになるのである。
 大手の欠陥は、子どもの完全管理ができていないことである。大手は、講師によるテキストを使った授業をする。つまり学校と同じである。学校の場合は、能力差のある子達に一斉の横並び授業をすることから生ずる弊害が露骨に出てくる。この点、大手の中には、能力別に編成して、弊害を回避しようとするところもある。

 大手の場合は、教えたら後は生徒の自己責任となる。理解したかどうか、のチェックはない。大手は、テストをすることで、チェックしているつもりなのかもしれない。しかし、数値だけの一括処理であり、できない子達が、だからどうすればいいのかの手当てはないに等しい。だから計算もまともにできないままに、二年も通えるのだ。割合を習ってもテキストという形式から理解を測るから、テキストさえできる形を取れば、終わりになる。しかし、子どもというのは、まず授業を聞いただけでわかる子は少ない。一人一人微妙に理解の深浅が違う。だから実際に解いてきたものを見て、理解を測るしかないのだ。図をかけるのか、というのも理解を測る一つのバロメーターだ。式を見て理解の程度を探る。単位で検算することで、単位の意味を悟らせる。式をかけないこと、殴り書きのノートであること、そういうところを細かくチェックする。ところが、横並びの授業だと、教える側は個々人の細かい反応など全く見えてない。「わかったか」と全体に話しかけて、頷く生徒がいれば終わる。わかったという生徒が周りを気にしてわかったと言うこともお構いなしである。黙っている子はスルーする。
 いいですか、大手好きの皆さん、あなたたちの子どもが、特に、優れた天才ならそれでいい。しかし、ほとんどの子はそうではない。私の経験では、学校で「よくできる」が8割前後ある、いわゆる優等生でも、まず、落ちこぼれる。その程度の子が大手経由で竹の会に来て、できた試しがない。ましてや普通の凡人小学生が、どんなことになっているか、想像に難くない。
 あなたたちの崇拝して止まない大手で、あなたたちは、自分の凡人息子や娘を二年も三年もかけて、使い物にならない小学生にしてしまうのです。計算をやらせればほとんど間違う。割合の問題を解かせれば、手も足も出ない。二年も三年も通って何も身につけていない。あなたたちの大手選択は完全な失敗だったのです。こういう一度歪められた子に基礎からやり直すなどということが如何に困難なことであるか、親はわからない。自分の子ども毀すのです。思考力もないままに、公立中学に行ったところで先は見えている。部活で時間を潰して、私立に無試験で入って、後はどうなるのか、どうでもいい話しです。
 あなたたちは、塾というものがわかっていない。
 いや、わたしも竹の会を始めた頃は、白板使って、授業をした。ただし、テキストは使わなかった。問題集なんかから、切り貼りしたものを教材に使ったりしていたが、そのうち自前のテキストを執筆した。街の印刷屋なんかに依頼して製本してもらった。公文の印刷所に頼んだこともあった。授業やってわかったのは、教えれば教えるほど、定期テストの点が下がる、ということだった。放ったらかしで考えさせたら点が上がってびっくりしたことがあった。

 高校入試では、過去問をコピーして解かせることが普通で、どうしても考えさせるようになる。わたしは、私で問題を、解いて解説を書く。竹の会の考えさせる指導の原型みたいなものが既にこの頃芽生えていたのかもしれない。私が、最も限界を感じていたのは、自前の教材の限界である。もちろん市販の教材はほとんど使えない前提であ。あの単元ごとにやっていくテキストというのはとにかく無駄が多すぎる。わたしは、自由自在に図、グラフを描き表せたら、自分の思うような教材が作れたら、そうすれば私は自分の教えたいことをピンポイントで教えられるのに、とずっとそういう想像に憧れていた。大手のテキスト、例えは、河合塾のテキストを初めて見た時の衝撃は忘れない。これは大手に敵わないと思った。図が適材適所に配置されている、これがわたしにはできない、不可能だ。文章だけで説明するのは、明らかに限界がある。
 平成に入ってパソコン時代の幕開けとなった。しかし、私の夢の実現にはまだまだ先へ時間が進まなければならない。ワープロ専用機の時代から平成10年を境にパソコンの進化が始まる。NECの98黄金期、それからNECが急速に廃れていく。私は、NECのノートパソコン、Dellのデスクトップの時期だった。運命の出会い、遂に、竹の会の世界を変えるパソコンソフトに出会う時が来た。わたしは新宿の量販店のソフトコーナーで、あるソフトに目を引かれた。数万円もするこのソフトがわたしの夢を叶えてくれるかもしれないと思うともう居ても立ってもいられなかった。このソフトを手に入れてから、実際に使うまでに一年以上を要した。それまで練習も兼ねて小学生のために試作のレジュメを作った。しかし、平成22年までの主流はワードだった。ただ平成17年から都立西志望の女子のために、これまでの竹の会のテキストをすべてレジュメにする大事業に取り組むこととなった。この試みはわたしのこのソフト技術を飛躍的に向上させた。

 平成24年、いよいよ本格的に、小学生のためのレジュメ作りが始まった。私は、一枚一枚のレジュメを精魂込めて作っていった。もともとのとっかかりは、竹の会の入会試験の制作だった。これを作っているうちに、私は、微細な図をかくことに喜びを感じるようになった。図には色をつけた。様々な図形がかけるようになった。放物線のようなグラフも自在にかけた。こうして私は、長い間、夢にまで見た、大手のテキストを遥かに越えたレジュメという教材の開発に成功したのだ。

 竹の会が変わる。私は塾の新しい形態を考えていた。レジュメによる指導。レジュメには、私が、教えたいことをピンポイントで書く。無駄なことは一切書かない。真に必要なことをのみ書く。この一枚で理解を完結させるように「踏まえて」書く。理解を助ける、最高の図を工夫してかく。中学なら中学で学ぶことを簡潔にまとめる。効率よく短期間に超速で終わらせられることをコンセプトにする。わたしの心はこれまでの制約から放たれて躍動した。私はこれまでの抑圧から解き放たれた喜びをレジュメに思いの限り表現した。いつしか私はレジュメを芸術品のように繊細に丁寧に仕上げることに喜びを見出した。わたしのレジュメを読んだ子どもたちが、たちまちのうちに理解するのを見て、レジュメの魔法の力に驚いた。私はますますレジュメの魔法に魅せられていきました。このレジュメを読むだけで、わかる、できるようになる、そんなレジュメを作りたい。私は、過去問から知能の栄養になる問題を探しました。これという問題は、まず解いてみる。その上で 問題の本質を浮き彫りにする解説を心がけました。私のレジュメは、私から子どもたちへのメッセージであり、わたしは私のレジュメを魔法のレジュメとして子どもたちに送りました。あなたたちの脳を、思考を開花させたい、そういう思いが込められていました。やがて子どもたちが、自らも魔法を使えるようにと、心を込めて作りました。
 竹の会のレジュメ指導という、これまでにない塾の指導形態を作り上げたのです。
 竹の会は、子どもたち一人一人をじっくり見つめて、子どもたちの脳が考えるという働きを十分に機能しているか、何度も何度も検査して、調べる、こういうことを地道にやっています。いつか、子どもたちが自分のやっていることの意味を悟るときが必ず来る、そう信じてわたしはわたしの方法を実践してきました。
 私がもうこれ以上はないというほど手をかけて見てきたのです。
 わたしの方法が万能でないことは承知しております。塾とは、能力が足りない子を伸ばすことはできないのです。わたしは、常にこの命題を意識してきました。

 竹の会でだめなら竹の会はやめていただく、それが入会試験の主旨にも沿うものです。

 

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