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2020.08.22

「可能性」で判断する人間になるな!
  確率で示せ!

 新型コロナにおいて、「『可能性がある』と語って人々に対策を求める専門家がメディアで散見されますが、キャスターや記者は『それなら感染する確率はどれぐらい?』と問わなきゃいけない。専門家に課されているのはリスク評価です。『可能性はあります』なんて誰だって言える。専門家なら、リスクがあるかないかという定性的な話をするのでなく、どれくらいあるか定量的に評価しなければなりません」

 新型コロナに関して、国立感染症研究所(感染研)や米疾病対策センター(CDC)などで研究してきたウイルス学者、西村秀一先生の言葉です。
 そういえば、テレビのワイドショーで岡田晴江という自称専門家が、やたら「可能性を根拠」に警告を発していたのが、思い浮かんだ。
 テレビのコメンテーターには、芸人はともかく、弁護士、大学教授、ジャーナリストと言った連中が、具体的な数値的根拠も示さず、まさに定性的な意見を述べている。またタレントというのが、番組のために勉強してきたのであろう、不正確な、おそらくはだれかの意見であろうが、あたかも自分の意見の如く演技する。これは弁護士先生や大学教授先生でも実質は変わらない。世の中の意見などというのは、たいていどこかでだれかが言ったことを自分の意見として言っているものばかりである。ネタ元は新聞、雑誌、ネットなんでもありである。テレビに出る人は、テレビに出るということが目的で、そのためにチームで意見を用意してあたかも今考えたような顔をして言う。武田邦彦は、テレビウィルスと呼んでいたが、テレビはその程度のレベルと考えた方がいい。そもそも視聴率にしても、だいたいどの程度の視聴者を想定しての番組製作なのかということである。適菜収風に言えば、国民の多数を占める、IQの低い、好奇心の強い層、すなわちB層である。お笑いやバラエティ、スポーツ、通俗ドラマに目のない連中である。B層というのは、2005年に自民党が広告会社に依頼したとき広告会社が作成した企画書でした。そこでは縦軸にIQ、横軸に小泉の構造改革に賛成か反対かを取りました。B層とは、IQの低い、小泉支持層のことでした。B層は主婦層&若年層及びシルバー層で占められています。この人たちは、具体的なことはわからないが、とにかく小泉総理のキャラクターを支持したのです。B層の怖いところは、この層が国民の大多数を占めるということです。小泉旋風で小泉に熱烈な支持を送った、あのみなさんです。もちろん今回のトイレットペーパー騒ぎでも主役でした。この人たちは、とにかくテレビの言うことを鵜呑みにして、煽られて突っ走るわけです。社会を毀しかねない人たちです。非合理で、無思慮で、感情的で、盲目的な人たちです。
 世の中の大多数の凡人は、定性的な物言いをすることになっている。テレビに出てくる大学教授、弁護士、ときには医者などたいていはそうである。議論の強い人というのは、数値を根拠にあげる人のことである。あるいは、事実を体験、取材した人の意見は、説得力がある。テレビでは、ネットで仕入れたような知識をあたかも実際に知っているかのように話す人ばかりですけど、自ら原文を読み、あるいは根拠を確かめるまでは、軽々に物申してはならないと自戒しております。
 冒頭に引用した記事にいたくわたしが、共鳴したのは、「可能性でもの言う人」が、世間に溢れ、それに所謂B層に属する人が、煽動される世情です。B層というのは、とにかくIQは高くない。感覚的で、感情的で、非合理な人たちのことです。煽られて暴走する人たちのことです。社会の大多数は、このB層で構成されています。選挙でもこの層に属する人たちが、票の行方を支配します。だからこの層の人たちをうまく誑かせば勝てるわけです。自民党というのは、この層の人たちを取り込むのに長けている。国家百年の計を立てて理想を実現することなど、この層が社会の大半を占める限りできるわけがないのてす。
 さてこうして、「可能性」を根拠に判断するのは危険行為である、ということを述べてまいったわけですが、特に、プラス判断するのは、危うい。
 わたしも可能性という言葉をときに使うことがありますが、それは蓋然性の意味合いで使っている。確率を計算しての可能性である。それは、長年の私の受験指導の経験からもたらされた、つまり事実の積み重ねから、その蓋然性が高いという趣旨で申し上げている。
 わたしはこれをわたし独特の直感と思っております。「この子は受かる」「この子は落ちる可能性が高い」「この子は伸びる」といったことは、わかるようになった。「わかるようになった」というのは、当たるということである。わたしの言う「可能性」は、35年の入試による検証を重ねた結果の可能性です。事実の裏付けのある可能性です。
 さて、それでも、可能性というのは、曖昧で、無意味なものである。可能性があるとか、ないとか、実は何も根拠はない、主観を表現したに過ぎない、ということである。感染症学者が、感染の可能性があるなどと一言言おうものなら、たちまちB層のみなさんが走る。これが今の日本の現実である。大衆社会とテレビのセットが、アホな社会を作りあげた。そして学歴社会、格差社会とネットが、匿名に隠れてコソコソする人間を拡大再生産した。ちょっと待って、「社会」ではなかった、「世間」だった。日本の社会は、狭い世間だった。西洋の社会とは違う。私たちはいつもこの世間を気にしながら生きてきた。世間が狭いからみな匿名に隠れる。ネットで害悪を撒き散らすのも、狭い世間への同調を押し付けている連中だ。
 さて、問題を解くとき、正解の可能性、誤りの可能性などと考えながら、解く人はいるのであろうか。択一式の問題ではそういう人が多いのか、と思う。ただ、可能性を根拠に解く人は、実力のない人である。定性的な人である。根拠は、数値で示す。根拠は事実を挙げて示す。根拠は、論理で弁証する。法律の問題の場合は、大前提としての法律の趣旨、規定がある。その上で、具体的事実を法律的に構成する小前提がある。そこから具体的事実の法律の構成要件該当性を検証する。つまり、三段論法による証明が、根拠となる。
 算数の問題を解くとき、可能性はどのように現れるであろうか。まず問題を読んで、意味をとる。それからさらに意味の深読みをする。その際に、誤解しないように、問題を何度も読み返す。意味のわかりにくいところは何度も読み返し、意味をとる。とにかく問題の言っていることがわからなければ解きようがない。だからまず問題の意味取りに全力をかける。というか、実は、算数の問題は、この問題の意味を理解しただけでほぼ解けている、ということが多い。ただ図形の問題は、図形の読み取りであり、問題文の読み取りとは、自ずと違う。図形の感覚というものを養う必要がある。さて、こうして、問題の意味取りに成功すると、たいてい解の道筋が見えてくる。この段階でまだ解の道筋どころか、とんと取り付く島がないとしたならば、それは情報不足のせいであり、算数で情報が足りないときは、たいてい面積図である。もしかしたら天秤算が使えることもある。それでも見えないとき、わたしの経験から、おそらく「比」で解ける。究極の算数とは、「比」の巧みのことではないか。もしかしたら、「比の率」から出せるかもしれない。意味不明としたら、ここで初めて、もしかしたら面積図かな、とか「可能性」の言葉が出てくる。
 算数とは、面積図に、活路あり。難問と言われる問題を面積図に活路を、見出したことがこれまで幾度もあった。すると、わたしは、面積図で何もかも解けないものかと期待が出てくる。特に、これまで方程式紛いの方法で解くしかなかった問題種について、最近は面積図による説明を試みることが多くなった。そういうことをやっていると、面積図というのは、様々な作り方があるものだと我ながら感心することしきりである。かつて「面積図の研究」というレジュメを制作しようとしたことがあったが、あの当時と比べて、わたしの面積図技術は飛躍的に高度になったと思う。あの当時は、面積図の基本型で「解ける」という姿勢であったが、裏から言えば、基本型でなければ、面積図は使えないという前提であったが、今は、「なんとか面積図が使えないものか」と考えることが多くなった。
 面積図を使うのは、問題を解くための情報が少ないとき、いや欠けているときである。これだけでは「解けない」というときである。こういうとき、面積図は恐ろしいほどの威力を、見せる。
 転じて、世の中の情報不足による問題解決不能事態において、問題を解決する面積図類似の道具があるのではないか、とよく思う。
 面積図のすごいところは、自分が面積図の論理に従ってさえいれば、解決の道筋が示されることである。
 高橋源一郎は、既成の問題に答えるのではなく、問題は何か、を探すことのほうが大事だというような趣旨のことを述べているが、何が問題か、物事の本質を探り当てることが、大切なことに疑いはない。その意味で、問題の本質は何なのか、と常に問いかけること、これは大切な生きる術なのではないか。
 その上で、わたしは、面積図に活路を見出す。さらにわたしの面積図の研究、面積図の論理を現実の世界に使えないものか、よく考える。世の中の難問、情報不足の下での問題解決は本来不可能なのかもしれない。だからこそ問題の本質は何かと問うことが意味を持ってくる。わたしが面積図というようなことをいうのは、社会は、魑魅魍魎の世界であり、至るところから、害意のある人間が、我欲に満ちた、ある意味嘘の情報を垂れ流す。だから、私たちは、そういう雑音から耳を遮断するために、人の意見をやたら聞いて判断するということは避けなければならない。私たちは、自分の判断モデルを持つことが自分の身を扶けることになることを知らなければならない。そういう前提で、考えた場合、足りない情報で鮮やかに問題を解く面積図の思考はなんとも優れた判断モデルではないか。
 面積図的思考とはなにか。
 試論であるが、恣意的に、考えないように、面積図を描かなければならない。面積図というのさ、いわゆる面積図を、意味しない。面積図は比喩である。例えば、座標軸を想定するのは、いいかもしれない。適菜収は、B層の定義を、座標軸を使って定義した。私見になるが、会社法の大会社とそれ以外の会社を縦軸、閉鎖会社と公開会社を横軸に取って、会社法な複雑な法規制を整理すると視覚的に、だから楽に理解できる。わたしは、自分でそのようにして整理して覚えた。この方法のいいところは、考えなくても、座標軸を思い浮かべればたちまち即答できることである。
 実は、現在、竹の会の割合指導で、使っているミクロマクロ法というのも、面積図の発想であった。翻ってみれば、わたしの指導の中核をなすのは、常に、何らかの面積図であったと思う。
 わたしは、指導するとき、そのたびになんらかの面積図を咄嗟に考えて指導していたと思う。
 今は、その頭の閃きをそのままレジュメにして使うことが多い。何かを説明するとき、咄嗟に、面積図と同じ働きをする、理解枠組みを考える、その枠組みを根拠に理解させる、そういう手法を取る。直感的にそういう過程を取る。それはそのまま説明しても子どもに理解の枠組みがないから、わからないのであり、わからせるためには、その枠組みを予め設定してやる、その上で、あるべき説明を試す、これが、わたしの指導方法である。技術というのは、都合そのような指導過程の指導技術を言っている。竹の会の指導過程は年を重ねるごとに洗練され、進化してきた。
 かつて市販の問題解答で見た面積図は、わたしには、神的な発明に見えた。昔、初めてこの解き方を見たときの感嘆は脳裏に焼き付いている。後年算数というのが、知恵の学問であると、腑に落ちた瞬間であった。
 竹の会の算数指導技術の進化は、多くの福音をもたらした。なにしろ小学校の凡才が、短期間に計算を極め、中堅中学の入試に出た割合の問題を難なく解き、思考の何たるかに目覚めていく過程をわたしは横から具に目撃することができるようになったのである。
 わたしは、子どもの思考を切り拓くという理想を掲げて、日夜研究と実践を重ねてきたが、竹の会の算数を通して、子どもたちが思考というものを獲得していく、そういう指導体系を完成させつつあることを実感している。子どもたちが、解いた問題数は、大手の子たちよりおそらく遥かに少ないと思うけど、例えば、平成31年桜修館合格の男子が、算数特別入試で、巣鴨と攻玉社に合格したように、いつしか私立受験にも通用する算数力をつけていたという事実が、竹の会算数の大手に負けない水準の高さを証明したことに驚きを隠せない。
 竹の会算数は、これからさらに進化していくと思う。わたしの研究が続く限り進化する。それとともに竹の会の思考育成のノウハウもさらに高度になってゆくのであろう。

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