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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

都立トップ校への指導/都立小石川中等への指導/都立桜修館攻略/新型コロナに負けない

2020.03.21

第71章 受かる子どもは、寡黙になる

 受検直前によく喋る。とにかくペラペラとよく喋る。ゲラゲラ笑う。和気あいあいと談笑する。モリモリいやガツガツよく食べる。これらは、ちっともよくない兆候であり、試験成功の定理に反する行動類型である。
 わたしが見てきた合格する子の姿は、恐ろしいほどに似ていた。
 一言で言えば寡黙になる、ということであるが、具体的な徴標をあげれば、あまり食べない、というか食べることに関心を示さなくなる。試験のことを考えたらそれどころではないのであろう。勉強が気になる、心配になる、いや試験が心配でしかたない、というのが、当然の姿ではある。あまり笑わない、ほとんど喋らない、動作が静か、大人しい、表情には、時として、緊張感が漂い、恐怖に堪える謙虚な仕草が心を打つ。時折り自信の感情が見えることもある。揺らぐ心を必死に沈めようとしているかにも見える。行動は、言われたことを黙々と実行する、こなす、その姿には近寄り難い神々しさがある。
 合否判断をする際、わたしには、直感的に、合格を感じる力が備わっているような気がする。裏から言えば、この子は受からないかも、というのは、ハズレがない。この子は受からないと断定するのとは違うわけである。「かも」というのは、受かる要素はある場合の表現である。
 「受かるかも」という表現もある。これは、落ちてもおかしくないけれど、受かる「かも」しれない。つまり、落ちても然り、受かっても然り、という場合である。こういう例は、確かにあった。私には、わからない、もしかしたら受かる「かも」しれない、しかし、自信はない。五分と五分である。
 受かる「気」がない、感じられない、というのもある。なにか心に緩みがある。緊張感がない。何か遠足の日を待つような、それと同じような顔をしている。必死さがない。感じられない。怯えがない。そういう受検生がいる。

第72章 勉強は一旦始めたら畳み込むようにやる
  少しでも中断したらそれで終わりだ。
  勉強というのは、中断したらそれで終わり、そのことを知らないから、せっかくの機会を逃してしまう人のなんと多いことか。
  中学生なら、私は部活には、否定的であるけれど、それは、勉強のそうした性質を知っているからだ。
  小学生なら、習い事、稽古事、スポーツなんでもいい、みな勉強を中断する事由という点では、同じだ。実家帰省、法事帰省、家族旅行、なんでもいい、みな勉強の中断事由であることでは違いはない。
 勉強というのは、中断したらそれで終わる。まるで生き物だ。毎日面倒見なければすぐ死んでしまう。部活に疲れて勉強しない日がある、それが続く、激しい部活だともう全く勉強しない、稽古事のある日は勉強に身が入らない、習い事のある日は勉強を休む、手を抜く、旅行は、手抜きの最たるものだ。いや、旅行がだめだなどと言っているのではない。受検、受験するなら、合格を目的とするなら、したがって、勉強するなら、中断するな、と言っているだけである。

 勉強するなら、勉強の正体ぐらいは知っておけ、ということである。勉強は、ペットを飼うのと似ている。とはいっても私はペットを家の中で飼った経験がないので、想像でそう言ったのだが、ペットの面倒は一日でも飛ばすことはできまい。餌をやらなければたちまち衰弱するであろうし、心も荒むし、体も汚れる。中断が長引けば長引くほどペットは仕舞いには死ぬかもしれない。勉強も同じで中断すれば存在が薄くなる。中断が長引けば勉強は視界から消える。そして、勉強を再開しても、一旦消えた勉強が元に戻ることはなく、また振り出しに戻る。勉強というのは、久しぶりにやるというのは、振り出しに戻ることと同義である。
 勉強は中断しなければ、どんどん大きくなる。
 これは例えとしては、植物を育てることに喩えた方がわかりやすいかもしれない。
 種子を土に撒き、水を与える。水は毎日決まった時間に与えなければならない。毎日土の状態を見て手をかけなければならない。やがて芽が出る。するとさらに手をかける必要があ。雑草が、芽の成長の邪魔をする。風が成長を阻む。芽が伸びてくるとさらに手がかかる。水はもちろん肥料も与えなければならない。除草剤の散布、草刈りなどやることは多い。成長すれば害虫対策も必要になる。とにかく中断はできない。中断したらそれで終わる。
 勉強も植物と似ている。どちらも成長していく。そして中断が続けば、植物は枯れる、つまり死ぬ。勉強も同じだ。中断すれば勉強は衰弱する、中断が長引けば勉強は衰弱していき、終には枯れる。

 勉強は始めたらもう前へ突き進むしかない。休むことは死を意味する。
 志しは確かにあるのだろう。目標に向かって確かに勉強する姿勢も確かにパフォーマンスとしてはあるのだろう。しかし、親も子も試験というものを見切っていない。認識が甘い。浅い。だから覚悟がない。だから子の行動は「試験ごっこ」、「勉強ごっこ」の域をでない。親の認識の甘さも、随所に出る。なにしろ敵の巨大さ、強大なことが理解できてないから、平気で勉強を中断させる。子どもを休ませる。「祖母が年老いて元気なうちに会わせておきたい」と一週間休む、実家帰省する、小6の7月最後のピアノ発表会に向けて猛練習、発表会を区切りに勉強に専念したい、という親子、しかし、専念した試しがない。そういう親子が試験直前に、積み残された大量の手付かずのレジュメに絶望的な空気を感じてか感じないのかとにかく合格したいと必死にもがく光景は相変わらずではある。
 勉強が手をかけなければすぐ枯れるということを知らないのは無知ゆえにである。勉強が生き物だということを知らない人が勉強で成功するなど考えられない。だから勉強を習い事、稽古事、スポーツと同列に扱うのであろう。勉強は生き物であるが、この生き物は、私たちの成長の糧である。というか、この生き物の成長が、私たちの成長をそのまま反映している。勉強の成長は私たちの成長にほかならない。あなたたちは、勉強の取扱説明書をもっと読まなけれならない。そんなものどこにあるかって、このブログがまさにそれです。
 
 さて、みなさんは、もう勉強の取扱いについて、迷うことはないと思います。

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