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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

都立中高一貫校への道/トップ都立高校への道/臭いものに蓋をする勉強

2019.03.22

 3月21日になりました。晴れ先行の天気にようやく心も安らぎます。もう少しで桜ですね。いつもこの桜の季節は一瞬の夢のように過ぎ去りしばらく心地よい気候が続く、しかし、それも3週間ほどで5月にはもう初夏を迎え、汗ばむような暑い陽射しが体に突き刺さります。月日はまさに光陰矢の如しをそのままに人間の思惑とは関係なく進んでおります。

 今日はひとつお願いです。退塾の際には、退塾届けの提出をお願いします。当方の事務整理のため恐縮ですがスタッフからのお願いです。

◎臭いものに蓋をする勉強
 「わからない」というとき、わからないままに、正解を写して、何も理解しないで、終わったことにする。あるいは、解説読んで、実際わかったのかどうか、よくわからないけどわかったことにする。とにかく終わったことにして、先へ進める。これをわたしは、「臭い物に蓋をする勉強」と呼んでいます。とにかくわかったこと、終わったこととして先へ進めるわけです。
 実は、多くの塾も、教えてもどうにもならない子に対して、「臭いものに蓋をする」進め方をしている。一年も二年も塾に通って成績は上がるどころか下がっているという場合は、そういう指導を疑っていい。ただし、これは塾もどうにもできない子たちであってそれでも塾は商売ですから受け入れる、いわば徒花です。
 こういう勉強をする人というのは、能力が足りない、能力そのものがないから、ということがある。頭のいい人も、わからないというので、とりあえず前へ進める、ということはやりますが、これとは趣きが違うわけです。頭のいい人はとにかく問題に当たって考える。それでどう考えてもわからないから、蓋をしないで、先へ進めるわけです。後でもう一度考える含みがある。頭のいい人は、わからないということがどうしても気にかかかるわけです。そのまま放置しておけない。だから悩む。頭のよくない人は、悩まないで、もうすっかり忘れて先へ進める。しかし、わからないままに、進めることに、意味は何もない。蓋をする生き方は、常に最初のままだということであり、進歩しない生き方にほかならない。

 多くの塾がやる、どうにもならない子に対する方法として、問題の型を覚えさせて、公式を暗記させる、というのがある。全くのその場しのぎであるが、世の中には、仕組みを理解することができない子がそれなりにいる。わたしの経験でもこれは教えること自体がとても無理という子がいた。一度そういう子を経験すると、その種の子の扱いもわかってくる。正負の数も整数まで、文字式は、分数が入ったら、もう無理。2乗は無理。連立方程式の基本形なら処理可能。英語は、単語が、まず覚えられない。かつてわたしは都立玉川にオール1の男子生徒を受からせたことがある。オール1だと5科目200点取れれば、合格する。そこで戦略を練る。数学は、連立方程式の基本形の計算まで。計算以外は取れない。都立の数学は、1番が、小問8問、1問5点、計40点。ここで30点、2番以降の記号問題を当てずっぽうで取れれば40点と想定。国語は、記号問題ばかりなので、当て勘で50点、英語は、記号の当て勘で40点、これで、130点、理科はもちろんできない。記号の当て勘で、40点、ここまでで、170点、社会だけ覚えさせた。つまり勉強させた。70点取れ!と檄を飛ばした。200点をとにかく取る。結果、合格。こういう合格のさせ方もあるのである。かつて竹の会には、そのようなできない生徒がたくさんいたことがあり、わたしは、この方法で様々な高校に次から次に合格させてきた。
 とにかくいくら教えてもいつも振り出しに戻る、という子というのがいるのである。中には、発達障害なのではないか、という子もいたし、全く喋らない自閉症の生徒も二人ほど経験した。一人は並の都立に合格し、もうひとりは私立の推薦で進学した。私立に進んだ子は、最後に初めて喋った。「世話になった」と絞り出すように声を出して、去っていった。オール1の子はこれまで何人かいた。その中では、中3の1学期の期末テストまでいて、大手の塾に行った子がいた。わたしが手塩にかけて指導し、オール4という驚異的成績になった。小4からできる子たちに混じって、日能研に通うのが生き甲斐だった子である。竹の会に来た時は、小6なのに、通分もできなかった。この子が中3になって、オール4をとり、自信をつけて、憧れだった、大手塾に戻って行った、そういう物語である。
 わたしは、今はもうそういう子たちを育てていくのは、いい、やめたと言っているだけです。医者にも、内科や小児科があるように、わたしは、自分の専門に集中したいということ、それだけです。竹の会の入会試験は、指導して、伸びる見込みがある、そういう子を発掘する、そういう思いが込められている。いや、最初から天才を探している、わけではない。わたしが、指導してなんとかなると思っているのは、学校の優等生である。通知表の「よくできる」が、8割ほどある子が理想である。注意しておかなければならないのは、世の中の皆さんは、そういう子なら、よくできて当たり前、受かって当たり前と、思っているが、そんなことはない。実際は、小学の優等生といっても、全然できないんですよね。学校でできると思われていても、計算も未熟、割合を理解するのも、一苦労、それが現実なんですよね。世の中のバカは、事実を知らないで、抽象的な概念だけで、それならこうだろうと独り決めして、思い込む。それだけで、簡単に批判してくる。そんなバカを相手にするのは、もうウンザリなんですね。実際に指導もしたこともない人が、事実の裏付けもなしに、机上の空論をあたかも真理かのように言うわけですが、わたしの知がアホらし過ぎて受け付けないんです。だからわたしはこういう人間をバカと言っているだけです。
 小学の優等生といっても、全然できないんですよね。学校でできると思われていても、計算も未熟、割合を理解するのも、一苦労、それが実際なんですよね(繰り返し)。わたしは、だから、せめてその程度でもいいから来て欲しい、わたしがなんとかするから、と言っているだけなんですよね。ところが、「よくできる」が、半分あるかないか、「もう少し」が何個かあったりする子が来たりする。たいていは入会試験は落ちますけど、去年は、そういう子たちの中から、仮合格で、何人か救済した。それは、伸びる見込みが限りなく低い、そういう子たちです。ただその中から、伸びている子も出ていますから、まるっきり無駄じゃーなかった。ただやはり伸び悩む子が出てきた。こういう子らもいずれ淘汰されていくとしても時間がかかる。なぜって、竹の会で指導すれば、できない子でも、それなりにできるようになるからです。だからなかなかやめない、つまり淘汰が進まない。 
 ただ中学生は、かなり淘汰できる。これは勉強しなければ、部活にのめり込んでいれば、必然的に、中間、期末テストの結果に出るからです。特に、理科、社会50点というのは、勉強していない、勉強に真摯に向き合っていない証し、徴憑になる。だからそれが淘汰の機会になる。もっとも中学生の場合は、そういう子だと、レジュメを出さないとか、失くす、かなり前からレジュメを先送りしていることが多く、たいてい「もらってない」とか、言うわけで、さらには、部活を理由に休むこともあり、勉強に消極的な姿勢が見えてくる。だから退塾ということが多い。竹の会で中学生が受験まで「いる」ということが、なかなかないのは、中学生のそういう、本質から来ている。だからわたしは、その流れの中で、わたしの琴線に触れる、消極姿勢が見えた時は、そのことを好機というか、タイミングとして、躊躇なく「退塾」を言い渡しているわけです。タイミングとは、例えば、親が成績が下がったとメールしてくるとか、季節講習の不参加を言ってくるとか、そういう機会を捉えて躊躇なく告知しております。

 仕方ないですね、わたしから、積極的に「やめろ」とは言わない。私が、退塾に迷いがないのは、限られた場合だけです。これは退塾しかないと判断したときは、スタッフの意見を聞かないで、退塾告知しますね。それは竹の会のポリシー、いやわたしの指導信条に背馳する場合ですよ。わたしには、一生懸命に頑張っているのに成績が良くならないという場合、これは退塾相当とは思っても、退塾とは言わない。少なくともこちらから言い渡すことはない。わたしが、退塾を告げるのは、わたしのこれだけは譲れないという琴線に触れる場合に限られる。それは竹の会の屋台骨を揺るがすと判断したときにほかならない。
 話しは、いろいろ多岐に渡りましたが、臭い物に蓋をするという指導は、親には表面上はわからないままに、親は自分の子が恙なく勉強している、授業についていっているという期待を躱しながら生徒を繋ぎ留める商売のやり方にほかならず、だからこそ大手に限らず、どこの塾でもやっていることです。わたしはこういう子も事実を親に告げて、つまり見込みのないことを親に伝えるために、無駄に恨まれることになる。親は自分の子が、ダメだと言われるよりも、たとえそれが嘘とわかっていても、「頑張ってますよ、きっと良くなりますよ」と言われる方が、嬉しいのです。つまり塾が生徒を繋ぎ留ようとして嘘を言っても、親はそれを非難するどころか、喜んでいるのです。親というのは、真実を告げられることを喜ばないし、感謝もしない。嘘をつかれても、希望を持たされる方が、嬉しい。だから、わたしのように、真実を告げる者は、「見捨てられた」と恨まれもする。わたしが、詐欺になるような金を取れないからと真実を正直に告げることは、実は意に介していない。この人たちは、お金を無駄にしているとは、まず持って思っていないのです。とするならば、わたしは、随分とお節介をしていることになりますね。

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