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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

都立中高一貫校本番まで3か月/秋の風景/小石川、桜修館、九段、富士/その他

2018.09.29

 明日は台風24号接近のため、10時開始17時終了の予定です。状況によっては16時で切り上げる場合もあることをご承知おきください。

 🔺10月の指導について

 夏に終わる予定の「撰」シリーズ(全6巻)を終わりきれなかった子たちのために、9月まで、本来なすべきレジュメの実施を猶予してきましたが、もはやタイムリミットです。これ以上予定の指導を遅らせると受検に影響が出ます。「撰」を終わってない人は、家庭でやるしかありません。塾のある日に、提出してください。10月からは、予定の指導レジュメを軸に進めます。 指導レジュメは、10分で提出、採点のリズムで時間制限の中での訓練となります。これまでのようにできるまで延々と考えるなどの方法はとりません。また、九段志望者は、「算数をクリアーにする」を10月の指導課題とします。10月中に終わらせるように、取り組んでください。毎回の指導では、作文も予定しております。 また、これまでにやったレジュメの解き直し7回を年内に終わらせてください。 「適性問題の型と答案のスタイル」を終わらせていな人は、必ず終わらせてください。

 警告 夏までに「撰」を終わっていないとか、「適性問題の型と答案のスタイル」を全くやっていないというのは、合格には赤信号と認識しております。

  🔴出尽くした感の適性問題~新たに問題を作り出すことの困難性

 9月に入って最新の適性過去問全国版を精読してきましたが、「適性問題が出尽くしたな」と実感しております。最近の問題を精査検証して、そう感じました。もう出す問題がない、似たような問題が繰り返し出てくる、そういう印象です。新しい型の斬新な問題を探すのに苦労する。そのせいか、最近の傾向として、理科の問題が、やや深くなってきた印象です。社会については、歴史の有名知識がスポット的に出題される。それで読解の用も考えて「日本の歴史」を急遽編集しました。試験の本質から、バカを濾過する、振り落とすためには、算数の問題を難しくするか、理科的な常識を試して振り落とすしかない、でしょうね。 ただ私立難関中学ほどの算数は公立の性格上出せない、と思いますが、小石川などは、思考の水準は、同レベルと思われる。 最近のわたしの実感は、適性というのは、実は、簡単な問題に、誰もが引っかかる落とし穴、罠を張る、これが主流なのかなと思っています。いたずらに難問を漁るやり方では、対処できまい。最近のわたしは、一見簡単そうで奥が深いという問題に目がいっている。平成28年の受検用にと製作した「適性のための計算問題50問」の続編の執筆のコンセプトは、そこにある。現在執筆中の「適性のための理科問題」も同じ発想であるが、特に、理科の基本の知識を一通り押さえておこうという狙いがあるのはもちろんである。

試験の本質

  試験とは、大多数のバカを落とし、ほんの少しだけ賢い、少数の子らを選びとるための、巧妙な作為である。 簡単な罠に簡単にハマるような子はとらない。試験は、落とすため、正確には大多数のバカを落とすため、に罠を張る、つまりトラップになっている。それは大多数の中から、こういう生徒を取りたいという意図を実現するために、巧妙に考え出されたトラップである。ほんとうに注意深く一語一語に注意を払い意味をとっていかないと、うっかり引っかかる、それが出題者のしかけたトラップである。単に知識を覚えてきただけの、つまり、特定の知識、具体的な事実、そういうものを覚えることに力を使ってきただけの人には、まず対応できまい。いとも簡単にトラップに引っかかり振り落とされることになる。竹の会のレジュメで不合格はんこばかり取っているというのは、トラップに簡単にはまる人ということにほかならない。問題の意味さえも理解しないというのは、正直為す術はない。解説を読んで「あ~そうか」という勉強で終わる人に本番で信頼できるはずがない。

 勉強というのは、特定の事実から抽象化という濾過を施して頭の中に抽象化した、シンプルな規則として整理していくことにほかならない。抽象化ということが、できない、頭の悪い人というのは、頭の中が、具体的な事実、特定の知識で、溢れていて、混沌としているに違いない。知識の断捨離ができない、というのも頭の悪い人の特徴である。知識というのは、頭の中の濾過装置で、具体的なものを濾過して、抽象的な核として、格納していく、しかない。そうしなければ頭の中には、無秩序に、混然と、知識が詰め込まれていることになる。抽象化というのは、共通項を抽出する、と定義できる。ここで定義というのが、物事をシンプルにしてくれる、ということも知っておいた方がいい。わたしはかつて東大理系志望の都立西の生徒を3年間指導したことがあったが、彼は西高で3年間学年30番前後にいた天才であり、一浪した年の予備校の三大模試でいずれも全国20番台を取ったほどの人であった。その彼の持ち込んで来るのは、数学の難問ばかりだった。わたしは正直苦闘したのだと思う。難局に直面して、切り抜けたのは、十中八九定義から考えての結果だった。定義から解決の糸口を発見したものであった。あの当時、執筆した高校受験用の数学のテキストの、サブタイトルに、「発見の視角」とつけたのは、私の定義というものに対する、そうした苦渋の経験があった。何か難問に遭遇したとき、まず定義から考えていくのが、わたしの基本的な思考態度になっているのは、過去において、これは不可能ではないかと何度も思った、東大理系数学を解き明かしてきた、あのときの経験があったからと思う。定義から突破口を開いてきたという過去の苦闘の体験がわたしの戦略を形成したことは否定できない。 私たちが、複雑な事象、難題に遭遇したとき、抽象化という濾過装置を働かせるとき、定義から篩いにかけることに腐心するというテクニックはよく使う。また意味の関係性で繋ぐということもよくやることである。 バカは勉強をただ覚える、暗記するものと理解している。頭のいい子は、勉強とは、いかにして抽象化するか、定義で置き換えるか、意味で繋げないか、と頭を使うのである。バカと天才は、同じ時間やっても、勉強の中身が違う。

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