画像
都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

都立小石川の合格の仕方2/都立高校という選択/竹の会新規募集/竹の会の冬期指導/都立中高一貫校という選択/白鷗、両国、桜修館

2019.11.19

 

 

第31章 都立小石川の合格の仕方2
 都立小石川に合格するには、次の条件をまず満たすか、である。
 条件I  ある程度の高い知能があるか、特に、高い算数能力があるか
 条件II  内申の「よくできる」が、9割以上あるか
 条件Ⅲ  国語読解力、特に、常識的感覚があるか
 条件Ⅸ  共感性があるか
 条件Ⅴ  字がきれいか

 竹の会の小石川合格者は、例外なく、この要件を満たしていた。
 昔から学校説明会に行って、たちまち憧れて、受検したい、と子どもが言い出す、親は慌てて子どもの思いを叶えたいと俄かに動き出す。たいていそういう子どもが、受検したいと騒ぎ出すのは、小5の終わる頃、それまで勉強という勉強などしてこなかったから、学力もなにもあったものではない。大手などはそういう俄か受験生が、一番商売になる。短期だから親は、少しくらい金がかかっても受かれば元は取れると皮算用しているから、大手の言いなりである。元々受かる見込みのない子たちを、「頑張れば受かる」と叱咤激励して、引き摺り込む。大手にはこれほどいいお客さんはいない。余程の掘り出し物でない限りまず成功することはないのであるが。
 

 小石川の志望者には、こういうのが、特に、多い。
 
 都立中高一貫校の受検を志すのは、小5からというのが、もっとも普通なのかもしれない。小4からというのは、どちらかと言うと、これまでは少数派だったと思う。そしてそういう親たちは、まず大手に行くのが、これまた定型行動である。

 ところで、最近は、小石川の受検層は、激変している、と見て間違いない。小石川の併願率が、80%を遥かに超えていることは間違いない。平成23年に竹の会から初めて小石川に合格したとき、確かな内部情報が、あった。開成、麻布の合格者が、何人かいて、小石川に進学した子たちがいる、という情報であった。実際に、わたしは、開成合格の子の親からメールをもらっている。それによると、適性Iがなんと16点で合格した、というのだ。さらに友達には、18点で合格した開成合格者もいた、という話しであった。この頃から小石川の受験層は私立難関の受検者の併願先であったのである。しかも開成に受かっても小石川を選ぶという人たちが少なからずいた、という事実が、当時からあったということである。
 平成25年、女子が、小石川に合格した。この子のことと言えば、小5の3月から来たこと、国語の読解力が神だったことをよく覚えている。もちろん字はしっかりした字を書く。内申は、すべて「よくできる」でした。
 28年に、やはり女子が受かっています。この年は、早稲田進学会の模試に、竹の会の4人が上位に成績優秀者として名前を載せるほどの期待された年でした。だが、蓋を開けてみると、一人が補欠上位で繰り上がり合格しただけという、竹の会としてはかなりショックな結果でした。当日点が取れていない、これに尽きるのかと、思いますが、うち一人は、ⅡⅢでは、合格者より高い点数を取っていながら、Ⅰの作文で失敗しました。字数不足で、これは、はっきりと0点になるということがわかりました。彼は、模試の時間と勘違いして、作文をゆっくりと書いていて、30分早く終了ベルがなったということです。
 この時の子たちが、なぜ失敗したのか、と言えば、結論としては、「引き算」の生き方をしたことではないか、と今では、理解している。一人の子は、節約ということなのであろう、原稿用紙を使わずに、なんでも藁半紙に書いた。わたしも経済的なことなので、なにも言わなかったが、字数感覚がつかないどころか、いい加減になる。この子は、詰めて書くので、添削スペースも取れない有様であった。節約というのは、引き算の発想である。贅沢に原稿用紙を使う方が絶対によかったと思う。経済的理由で、ノートを節約する子たちもいるが、ノートは、必要なだけ使わせてあげたいものである。「引き算」の発想というのは、経済的理由なら、合格からは、確実に遠のく。東大合格者には、富裕層の子弟が多いのは、よく知られていることである。資格試験なんかも、「引き算」の発想の人はなかなか合格できない。合理的理由のない引き算は、成功から離れていくだけである。習い事、稽古事、スポーツなどが、勉強時間から引き算されているのに、それでも合格できると信じる人たちの精神がわたしにはわからない。
 試験に落ちる人というのは、根底に、節約の思想がある。これは、具体的には、「引き算」の発想として表われる。お正月ぐらいと時間を引き算する。お盆ぐらいと実家帰省して時間を引き算する。習い事、稽古事で時間を引き算し、発表会の準備、発表会のために時間を引き算する。大事な試合だからと時間を引き算する。高いコースよりも安いコースを選んで節約する。節約するのは、普通のことだが、それが実質「引き算」しているということは知っておいたほうがいい。
 
 小石川という親を狂わせる、子を夢世界に弄ぶ世界
 小石川というのは、あなたたちが、思うほど簡単に踏み入れる世界ではない、と思います。説明会でたちまち憧れてどうかなるということではありません。ここには、とんでもない天才たちが、その世界の住人となるために、それは早くから準備をしてきているのです。内申なら、全ての科目、項目が、全て「よくできる」という子たちがうようよしているのです。算数能力の高い、つまり、知能の高いのは、当然の前提です。わたしの指導した合格者たちも例外なく、高い知能の子たちでした。内申もよかった。それから不思議なことに、合格した子というか、合格する子というのは、例外なく、師を敬う姿勢では、一貫していた。礼儀正しい、というか、その礼儀正しさは、師に対する敬意の表われとしてあった、ように思う。親しき仲にも礼儀あり、というけれど、師を侮ることはなくても、師をからかったり、ふざけたりする子は、如何に知能が高くてもなぜか落ちた。わたしが、そういう子に対して、多少不快に思ったことはあっても、かなり知能の高い子たちが、なぜ落ちるのか、わたしには、わからなかった。ただ、こうした子たちに、共通していたことは、もしかしたら、「引き算」の発想をする子たちではなかったか、と思うことがある。人をからかう、ふざける子というのは、何か漠然と世の中を舐めているところかある。だからいくらでも「引き算」をやる。それでもなんとかなる、とたかを括っている、のである。こういう子たちに見られがちなのは、世の中を甘く見る反面、自分にも甘いということである。特に、根拠もないのに、やたら自尊心が高く、自信を持っている、のも特長である。
 こうして、人をからかう人間は、成功しない人間だと言える、のではないか。
 小石川に合格した子は、謙虚な、他人を意味もなく軽視しない、分別を弁えた人間である。いや、であった。
 小石川の世界をイメージできたであろうか。わたしの描く小石川の世界は、変わることなく、ずっと私の中にありました。
 しかし、そういうわたしのイメージに合った子がわたしのもとにやってくるのは、当然のことながら、そうあることではない。
 子どもたちの夢は唐突で、限りなく大きい。現実を見てないので、どんなに高い山で登り切れると思っている。親も子にかける期待は膨らむばかりである。以前親の決定が小石川で、子どもは受からなければならない、という家庭があったが、子の能力は、入会試験で、仮合格程度なのに、実際指導しても無理かなという思いはあったのに、両親とも、絶対小石川で譲らず、竹の会で無理なら、やめるとたちまち去っていった。小石川の世界に親が夢を見てしまったケースだ。あの時、子どもの口から、小石川について熱っぽく語ったことはなかった。ただ子どもが親の期待に応えるために、それはそれはよく勉強していた。わたしはこういう子や親のかたちもあるのかと不思議に思ったものである。この家庭には、わたしの小石川の世界は受け入れられることはなかったけれど、わたしにはずっと何かしら違和感があった。今考えると、子どもの現実を無視するというところに、その違和感の原因があったのかと思いあたった。
 小石川の世界に夢を抱くのは、子どもも親も変わらないようだ。子どもが、できる子だと親が思うと親ものめり込む。それは別に構わない。勝手だ。試験なのだから、それと受かるかどうかは別の話しだから。ただ受かるつもりになっていて、小石川に受かるにはの論理で、何かと一家言あるわけである。ただこの人たちは、結局、「引き算」の論理で、一貫していた。「引き算」の内容は、もちろん節約を核としたものであった。というかこの人たちは限られた予算でのコストパフォーマンスを行動基準にしていたと思う。ここにそうした人たちの限界があったように思う。小石川の世界には、わたしの条件には届かない親や子が、それぞれにそれなりの見通しを持って立ち向かおうとしているのが、実際である。しかし、そのほとんどは報われることはないはずである。わたしはそういう世界にもう30年以上身を置いてきた。しかし、最近の親というのは、自分の判断に相当自信があるのか、わたしに相談するのではなく、こうします、しましたと報告するだけである。塾の先生をそこまで信用していない、むしろ自分の方が正しいと思っている。断っておかなければならないのは、私は何もしていない、ただこうしましたと報告を受けただけである。わたしの判断はないのだから、結果に責任を負うことはないのはもちろんである。
 これは小石川の世界に限ったことではない。昨今は、親が知識豊富で親が舵をとり、失敗する、ケースが目につく。予定通りに、いやわたしの想定した通りに失敗する、わたしはただの傍観者に過ぎないこともしばしばであった。
 小石川の世界ということではなく、受験の世界には、わたしの想定外の親が必ずいて、自分の判断が絶対で、わたしには、事後報告という親がよくいた。わたしが仕事をさせてもらえるのは、受験情報の世界に入ることに躊躇し、持論を通さない、というか自らの判断を持ち込まない、わたしのすべてを信頼して、口を決してはさまない親御さんたちであった。小石川に限らず、合格する子の親御さんというのは、決してわたしに口出しをしないし、自らの判断を優先させて事後報告してくるという人たちではまずなかった。
 IMG_1010[1] IMG_1009[1] IMG_1006[1] IMG_1007[1] IMG_1004[1]

 竹の会数学の世界 遺された原稿たち

 IMG_7797

 

2007/02/07 14:57

竹の会代々木教室の風景

 

ページトップへ