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都立中高一貫校受検/都立高校上位校 受験専門 渋谷で創立30年

都立小石川・都立桜修館・都立白鷗の攻略/都立高校受験術/早期指導術/受検の極意/自分の容量を知る人が賢い‼️

2020.04.11

第78章 自分の容量を知る人が賢い‼️
 世の中は、自分が偉い、一番正しい、他人はバカだ、間違っている、自分が唯一正しいことを言っている、自分に賛成する人が自分の理解者だ、そういう人間がウヨウヨいる。
 テレビにはそういう人間が、肩書きを売りにして、ワイドショーなんかで、したり顔で、芸人、芸能人を相手に、奉られて、害悪を撒き散らしている。
 知識豊富との触れ込みはいいが、知識豊富はかえって害をもたらすことの方が多い。
 私たちは、事実を根拠にした、事実を踏まえた、事実を裏づけにした知識のみが、必要なのである。現実とは遊離した学問上の理論はいらない。
 腹立たしいのは、ジャーナリストを肩書きとするコメンテーターが、平気で嘘をつくことだ。事実はないのに「ある」というのは、最低だし、事実の裏づけなしに自己の推測を、しかも偏見をこれが一般的みたいに述べることだ。
 これらの人間は、自己の容量を悟らない人である。容量を超えているのに、それを悟らないで偏見を撒き散らす。これを害悪と言わないでなんと言うのか。
 難関国家試験では、試験が難しいのか、人気が高いのか、とにかく競争倍率は高い。いや高かった。かつての司法試験はそうだった。今は、法科大学院に入りさえすれば、普通の人なら、合格できる。合格者は毎年1500人だから、かつての難しさはない。かつての司法試験は予備校もなく試験のためのテキストも無駄ばかりのどこやら大学の権威ある先生が書いた分厚い専門書しかなく、受験生は実に効率の悪い勉強をしていたのだと思う。当時の受験指導というのは、各大学の私的団体が主宰してやっていた。当時中央大学の真法会というのが全盛で会長だった向江弁護士が精神論を鼓舞したものである。今から考えればなんとも権威主義的な方法であったと思う。やがて予備校全盛時代がやってくると各大学の私的研究会も廃れていった。

 頭が悪いというのは、自分の容量を考えないで、というよりももともとの人間の容量を考えないで、知識を大量に入れようとする人のことである。
 頭が悪いとは、言い換えれば、全体のバランスを見ていない、一部分のみをというか一部分のみしか、見ない、ということである。
 しかもその一部分は拡大されて、周りが見えなくなる、そういうことではないか、と思う。
 法律学では、よく二つの利益の比較衡量ということがなされるが、これはもちろん価値というものが相対的なものであることを前提として、衡量するものであるが、私たちは、一つの価値に目を奪われて全体を見失うということを懲りずにやるものである。
 難関国家試験だとこれだけのことをやらなければならないと、前提して、闇雲に勉強する、これが間違いなのだ、と言っているのである。自分の容量から考えて真にやらなければならないことに絞る、すなわち取捨選択する、つまりどんな大切に思える知識でも場合によっては「捨てる」、しかないのである。
 これは、パソコンの容量を考えればあまりにも当然なことである。容量を超えればフリーズする。パソコンなら増設もできるが、脳はそんなことはできない。どんなに重要な知識でも容量に入りきらなければ、捨てるしかない。だから自分の容量との兼ね合いで、捨てる知識を峻別して捨てる。つまり、難関試験というのは、知識を捨てる性質のものである。だからあまり専門的にやらない方がいいし、むしろ入門書とか、概説書とかで勉強するのが、容量的には、優しいのである。
 難しい専門書を読んで合格したなどという合格談は信用してはいけない。世の中は、フェイクニュースで溢れているが、受験界もその事情は変わらない。
 賢い人は、自分の容量でできる範囲のことを知っていて、だからこそ戦略的に、いや容量を節約するように、工夫して、勉強する。自分の容量を考えない人は、難関試験に合格するには、これだけのことをやらなければならないと一般普通人の容量を遥かに超えた水準を設定して勉強量を決めてしまう。だから何年もかかる、何年もかかって合格すればいいが現実はそうはならない。
 人間は、容量が限られているから、工夫する、捨てる、選ぶ、節約する、のだ。
 容量が豊富な人間というのが、ほんとうにいるのか。天才と言われる人たちは、フリーズしないように「捨てる」ことに秀でているのではないか。無駄な知識が多くては思考もなにもない。
 思考、判断に知識が役に立つことはある。しかし、そういう視点で、知識を追い求めると、いつしか知識依存の常態にあることに気がつかないまま、博学が自慢の人間に成り下がる。クイズ王というのが、知識の倉庫化した頭の人なら、これは悲劇である。
 知識は追い求め始めたら、その時から、思考は駆逐される。知識と思考は、相容れない関係にある。思考にとっては、知識は、容量の一部である限りに有用でありうる。思考は知識に対して常に警戒をしなければならない。ウィルスと同じで、たちまちに思考を無効化、麻痺させてしまう。思考不全に陥らせてしまう。
 私たちは、人間、いやわたしという特別の個人に有用なウィルス(知識)のみを取り込まなければならない。 
 知識は、バラバラの状態で、取り込んではならない。私たちは、生の知識をそのまま呑み込むことはしてはならないのである。
 思考が知識を取り込む方法について
 バラバラな知識は、「関連性」を呑み込む。
 具体的な知識は、「抽象化」という手を加えて、呑み込む。
 関係は、意味を呑み込む。

 手を使う実際
 書き出す、分ける、系統化する、視覚化する、図をかく、表にしてみる、座標軸で4分割してみる、

 本を読むとき、線を引くか
 東大法首席卒業(伝聞)の山口真由さんは、基本書を七回読んだことをその著書に書いていますが、その際、「線は一切引かない」ということを述べています。彼女の勉強法は正直われわれ凡才には使えないと思うが、実は、わたしは、かつて専門書を読んだとき、この線を引くという方法には、かなり疑問を持った。
 まず何が重要かわからないのに、線など引けるわけがない。闇雲に引けば線だらけになって線の意味がない。また、線を引くともう全体に気を配ることがなくなる。昔は、ノートにまとめる、つまりサブノートを作るという人もそれなりにいた。しかし、これはまず時間がかかりすぎる。さらにノートを作ることに囚われて読む、すなわち理解するという面がお座なりになる。
 線を引くというのは、読み返すときに、目印をつけておくという意味もある。タグとか、ラベルである。これは、探すときに便利である。また、クロスレファランス、つまり関連するところを索引で調べたときなどは、その箇所にメモをしておくと便利である。あるいは、どこやらの文献からの知識を紙一枚にメモして、挿んでおく、といった知のアイデアは有用かと思う。
 さて、総じて、わたしは、山口真由さんと結論は同じである。ただし、天才的な頭脳の持ち主の山口さんの方法はそのままでは採用はできない。わたしはいたって凡人だからである。
 読むことに専念する。ひたすら意味をとる、そのために文脈を追う、ここも変わらない。意味の取れない概念が、出てきたら、他のページで使われているところを索引を使って調べて、そこを読む、いわゆるクロスレファランスである。その時、その言葉の近くに該当ページをメモしておく。メモは鉛筆で薄く書く。後で消せるようにだ。
 さらに意味の理解を深めるために、他の本で調べたことを挟み紙しておく。
 わたしの経験では、複雑な知識などは、統一的な視点でもって、例えば、座標軸で、視覚化すると頭にスッと入る。私の傑作としては、大会社と小会社を縦軸に、公開か非公開かを横軸にとって、会社法の会社を分類したものがある。これはわたしのアイデアである。
 わたしは、いろいろな本を読むが、視覚化してみる、ということはよくやる。
 それは、わたしの容量が少ないことをよく自覚しているからだ。
 塾は、子どもたちの容量を考えて、最小限必要なことをのみ子どもに与えるものである。何が必要で、何が必要ないか、今、与えることがたちまち容量オーバーを引き起こすのではないか。もともと子どもの容量は小さいから、だから何か教えるというのは、いつも子どもの容量を勘案しながらの仕事となる。
 よく「わかりません」という子の対処も同じである。「わからない」というのは、たいていは容量が足りないから、である。
 大人と違って、子どもの容量というのは、考える、ことで大きくなっていく特性がある。だから、「わからない」という子どもには、まず容量を増やすことをしてあげなければならない。「わからない」の対処は巷では明らかに間違っている。親も塾も「わからない」と言えば、当該の問題なりを「わかりやすく」教える、説明する、ことをやる。だから、塾は、「わかりやすく」教えることを競う、自慢する。ばっかじゃないの! 事の本質を全く理解しない猿頭である。
 わたしなら子どもの学力の段階を診て取って、即座に子どもの頭の容量を推測し、容量の範囲内で何ができるかを考える。それから容量を増やすことを目して、指導をしていく。
 よく親のやる間違いに、「四年生なんだから、これはできなければならない」「わからなくてはならない」とかいう規範的発想である。まずあるべき姿を想定して、そこからどうあるべきかを判断する。子どもの容量を無視した暴論である。わたしの経験では、学年は一応の目安で、実際の容量とは関係ない。小2で理解できる子もいれば、小4でも理解できないという子もいる。
 同じ訓練をしても容量の増える速度はみな違う。
 だから、そういうことを考えないで、一律に受検をさせる、というのは、あり得ない、話しである。
 その関連で、指導開始時期の問題も考えないといけない。一般的に言うなら、早ければ早いほどいい。これは真理である。わたしの経験が実証している。容量を増やすには、今なら小2からの訓練を自信をもって薦める。小3でも遅い。小4がギリギリであろう。小5からだと確実に損をする、しかも取り返しのつかない損失である。能力の開発は、年少の時からやるのが最も効果的である。考えてもみて欲しい。訓練すれば、小2でも、分数、小数の複雑な、つまり中括弧、大括弧まで用いた四則混合演算や逆算ができるようになるのである。これを小5になるまで、待っていることの意味などない。小5になるまで待つ理由がわからない。能力などというものは、一旦訓練を開始したら、もう少しも休まずに、走り抜けなければならない。いや歩き続けなければならない。ここからの喩えは、富士山を借りることにする。
 富士山に登るとして、体力、体格が同等なら、先に登り始めたものが、休まないで、黙々と登り続ける限り、後から登り始めた者は追いつけない。

 

 ◉福岡伸一博士のウィルスの説明
まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある、ある種のたんぱく質と強力に結合する。これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。
 これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自ずと解けてくる。ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。
 以上は朝日新聞に掲載された博士の記事の一部
 福岡伸一博士の話しはここまで。
 なんとウィルスは、高等生物から生まれたというのだ。だから人間はウィルスの再生に積極的協力的なのだという。昔の仲間を信用して受け入れるというのだ。
 ウィルスは高等生物の力を借りてタンパク質のプログラムを渡して、同じウィルスをコピーする、材料のタンパク質さえも製造してもらうのだ。遺伝子情報を伝達するなどなんと高等生物的な仕組みを使うことだ。
 私たちは、自分の体の持つウィルスを受け入れる構造に死さえも運命づけられているのである。
 ウィルスはいわゆる生命を持たない。だからウィルスを殺すという概念はない。ひとたび体内に入り込んだらもはやウィルスを駆逐する手立てはない。ウィルスを無効化する薬、あるいは抗体を作るワクチンの開発しかない。生物ではないので抗生物質は効かない。

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